聖女様は授業に出る
「聖女様ごめーん」
大学院になっても、授業はある。朝研究室に行って、居室で勉強したりゼミをしたりが基本の生活だが、週に何回かは授業に出なければならない。その最初の授業の教室に行ったら、のぞみが待ち構えていた。
「昨日さ、網浜研に榊原先生が来ちゃってね、『聖女効果』について訊かれた」
まあ、そうなるな。
「それでさ、聖女様には悪いと思ったんだけどさ……」
「まず、その聖女様をやめよう」
「ムリ」
「で」
「榊原先生がね、実験失敗するってどういうことかってきくんだもん」
「で」
「一年のときのマイクロメーターから何から、一通り話した」
「うーん」
「榊原先生も網浜先生も、そんなことあるかってスタンスを最後まで崩さなかったんだけど、それがいけなかった」
「なに?」
「私ね、言っていることを信じてほしくて、つい詳しくっていうか、全部はなしちゃった」
まあ、ここまでなら実害は無い。自分が実験に直接タッチしなければいいだけだ。
ふと気づいて訊いてみる。
「まさか、『聖女効果』って名前出してないよね」
「ごめーん」
最悪である。最悪ではあるが、ある意味扶桑女子大時代と変わらない。そう観念した杏であった、もう一つ訊いてみた。
「そこに修二くんいた?」
「いた、なぜか明くんもいた」
死にたい。
「聖女様、修二くん気になるんだね」
死にたい。言葉が出ない。
人間、そう簡単には死なず、思考停止した状態で天を仰いでいた杏であったが、入り口から明、つづきて修二が教室に入ってくるのがみえた。明がいきなり言う。
「なんか楽しそうだね。なんの話?」
修二は杏の顔色をみてなにか良くない話と察したのか、持っていたテキストで、明の頭をひっぱたいた。
授業は、榊原教授による「中性子散乱実験」についてだった。初日の今日は、この実験の概略についてである。
物質は原子からできている。原子は、プラスの電気を帯びた原子核と、そのまわりに電子があってできている。原子核は、プラスの電気をおびた陽子と電気を帯びていない中性子からできている。中性子散乱実験とは、この中性子をビームとして試料に当て、当てられて飛び散った中性子をカウンターで捉えて、物質の内部構造や性質を探るものである。
まず、単純に中性子が物質に当たって飛び散っただけの中性子を観測する実験がある。これを弾性散乱実験と言い、物質の構造を探るのに適している。物質の構造を調べるといえばX線を考える人も多いだろうが、X線よりも中性子線のほうが透過力が高く、試料の奥深くまで調べることができる。
つぎに、中性子が物質に当たって、中性子の速さが変わって飛び散る場合がある。この場合、中性子と物質の間で力のやり取りがあるので、物質内の原子の振動などを調べることができる。また、中性子はとても小さい磁石のようなものと考えることもでき、物質内の磁気的な構造を探ることもできる。
以上のように強力な実験手段である中性子散乱実験だが、致命的な欠点がある。
まず、大型の実験施設が必要である。原子炉とか、イオンを光の速さ近くまで加速する加速器とかが必要で、国内の施設は十箇所ほどである。実験機材は予め実験計画を施設に提出し、審査を通ったものだけに貸し出される。そのため十分なマシンタイムを確保することが難しいし、とれたとしても出張である。
つぎにお金である。聞いた話によると、一つの実験機材を一日つかうとウン十万円のお金が飛んでいるそうである。主なランニングコストは電気代だ。加速器系の実験施設だと、研究所全体で小さな都市に匹敵する電力を消費してしまう。冗談ではあるが、加速器施設に原子力発電所をつくったら、という話も出る。こういったコストは研究者が直接払うわけではないが、結局は税金である。これも審査が厳しくなる原因である。
杏としては、中性子散乱実験のごくごく大雑把なことは知ってはいたが、この授業は専門家による解説である。自分で勉強するより何十倍も効率がいい。なのでこの授業を選択していたのだ。理論をやっていると、お金というと、大規模な計算をスーパーコンピューターでやるときくらいしか関係ないが、実験は実際にものを扱うだけに大変だ。もちろん、理論でも教科書など書籍代や出張旅費などはかかる。しかしそれは実験でもまったく同様にかかるのだ。杏は、実験アイデアをだすなら、きちんと考えて成功しそうなアイデアにする必要性を強く感じた。これがわかっただけでも、この授業に出てよかった。
この授業は午前中だったので、昼食はM1みんなで行くことにした。いつもは研究室単位で行っているので、同期の仲間ができにくい。だれが言い出したかわからないが、札幌国立大の外から入学した杏たちにとってはありがたい申し出で、よろこんで同行する。




