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聖女様は練習する

 杏は季節に関わらず、朝暗いうちに目が覚めると少し家の外に出ることにしている。日の出前の時間だと、ひとつ先の季節の星座が南中しており、それを見るのが好きなのだ。金星が出ていることもあるが、夕方見る金星よりも明るく見える気がする。

 

 最近の杏は、意図的に早起きするようにしていた。卒論ももう出したので、少し余裕がある。早起きして何をするかというと、自動車の運転の練習をするのである。

 

 二月はじめの日曜日、黄色い車が父の運転で家にやってきた。家にはすでにシルバーのドイツ車があるから二台目である。

「杏、これが俺からの卒業祝いだよ」

「え、私来月北海道行くんだよ」

「フェリーで行けばいい。もうフェリーはおさえた」

 確かにまだ手配はしていないが、杏は飛行機で北海道入りするつもりでいた。

「勝手なことしないでよ」

「まあまあ、北海道のドライブは最高だぞ」

 いまさら逆らってもどうにもならないので、ありがたく受け取ることにする。

「でも、高かったんじゃない?」

「中古だから、それほどでもないよ。キレイだろう」


 その日から、父によるドライビングレッスンが始まった。頼んでもいないのに。父はけっこうな車好きなので、逆らっても無駄である。

 

 はじめに、運転姿勢から直された。

「シート後ろすぎ、ペダルを床まで踏み込んだとき膝が軽く曲がるように」

「シートバックはもっと立てる。ハンドルの上に手首が乗るくらい」

 なかなかうるさい。

「じゃ、ちょっと走ろうか」

 杏は勉強するつもりでいたのだが、父が車の話になると止まらないのを知っていたのであきらめた。

「おーい、ちょっと車走らせてくる」

 父が母に声をかけると、母が出てきた。

「私も行く。コーヒー飲みに行こうよ」

「おー、じゃ、お手本にまずは俺が運転するわ」


 走り出すと、父はごきげんである。

「いやあ、やっぱり車はマニュアルだな」

などと言いながら、無駄にギアチェンジなどしている。杏は父に強制的にマニュアルで免許を取らされた。

 一通りエアコンやらオーディオやらの操作の説明を聞いたところでちょうどよく、カフェに着いた。正月に来たカフェである。

 

「俺、いつもの」

 父は母にオーダーを押し付け、車の下を覗き込んだりしている。

 母がドリンクを持ってくると、やっと席に座ってくれた。車のすぐ後ろのテラス席である。父は車のお尻を見ながらコーヒーを飲む気らしい。

「うーん、やっぱりコイツいいわ。ねえ、俺はこっちにして、杏は家の車でいいんじゃない?」

 恐ろしいことを言い出した。家のドイツ車はそれなりに高いのである。

「だめよ、あなたまたサーキット行きたいとか言い出すんじゃない?」

「ばれたか」

 父と母は楽しそうに話しているので、冗談なのだろう。

 

 コーヒーを飲んだら、家までは杏が運転させられた。特にうるさいことは言われなかったが、「ハンドルを回すときは、引かずに押せ。そうするとシートから背中が離れない」とだけ言われた。家についたところで父が言った。

「これから北海道行くまで、土日は運転の練習だな。俺が見てやる。だから平日練習しとけよ」

 こういうわけで、早朝の運転が始まったのである。杏は大学が決まってすぐ免許を取ってしまったが、あまり運転していなかった。

 

 次の週末は、高速に乗った。始めは父の運転である。

 高速の本線に合流するまでのぐるっと廻る道で父が言う。

「杏見てろよ。ハンドルは一定の角度のまま動かさない」

 見ていると、ハンドルは動かさないのに車は少し内側に回り込んだり外側へ行ったりする。

「車はさ、ハンドルを切ったらその角度だけ曲がるんじゃないんだよ。タイヤはかならず少しずつ滑っててさ、アクセルで荷重を変えて、前後のタイヤの滑り具合を変えているんだよ」

「なるほど、タイヤが道路を押す力を変えることで摩擦力が変わるからなのね」

「やっぱり、物理屋はわかりが早いな」

「あとでやってみる」

「うん、だけど、アクセルの操作はほんのちょっとにしとけよ。ガバっとやるとスピンするぞ」

「ほんとに?」

「やってみるか?」

 父は本当にやりかねないので、

「結構です」

と、止めておく。


 サービスエリアで運転を交代した。先週の父は、何も言わず杏の運転を見ていたが、今日はうるさかった。

「一点だけを見ちゃだめだ、前を見たり、メーターを見たり、後ろを見たりしろ。視線を止めるな」

「カーブでは、視線を先の方に置くようにしろ。手前を見るな」

「考えるな、感じろ」

 さすがに杏は抗議した。

「意味わかんない」

「言ってみたかっただけ」


 翌週は箱根へ行った。

 まずは上り、下りの一往復を父が運転する。

「杏、ハンドル操作とブレーキのタイミングを見てろよ」

 父はそう言って、車を加速させた。

 カーブ手前でブレーキをかけ、ブレーキを離してからハンドルを切る。

「いまのが教習所で教わる曲がり方。杏のもそうだ」

「うん」

 次のカーブでは、結構速めのスピードでカーブに向かう。スピードが速いからちょっと怖かったが、車はすっと曲がった。

「さっきと何がちがうかわかるか」

「速かった」

「それだけ?」

「それだけ」

「じゃ、もう一回」

 速めの速度でカーブに近づき、ぐーっと減速してカーブに入る。

「もしかして、ブレーキ踏んだまま曲がった?」

「なんでかわかる?」

「前のタイヤに荷重をかけるってこと?」

「そう、そのほうがフロントのグリップが上がって、より少ない舵角で曲がれる。あとリアは荷重が減っている分だけ外に行きやすくなるから、車の向きが大きく変わるんだよ」

「じゃあ、アクセル踏んだまま曲がると、曲がりにくくなるってこと?」

「まあそうだね、だけどアクセルオンだと、リアは安定してスピンしにくくなるよ」

「難しいね」

「慣れだよ。練習あるのみ」


 頂上に辿り着いたが、父は駐車場で休むことなく折り返した。


「下のギアは、基本的に上りのギアと同じ」

「どういうこと?」

「たとえばこのコーナーは上りなら二速。だから下りでも二速で曲がる」

「なんで?」

「減速をフットブレーキに頼りすぎると、ブレーキの温度が上がりすぎて効かなくなるよ」

「こわ!」


 杏はしばらく父の運転を見ていたが、気づいたことがあった。

「お父さん、ブレーキ踏みながらアクセル踏んでない?」

「ああ、ごめん、杏にはこれは無理だな」

と言って、父はシフトダウンの操作を変えた。

「これならできるだろ」

「うん」


 それから杏の運転で上り下りを二往復。結構疲れた。首が痛い。


 次の週末は札幌に新居探しなので、父のドライビングレッスンはお休みとなった。

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