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聖女様は知らない物理にであう

 二時少し前「若手の学校」を行うホテルに着いた。参加者がすでにたくさん到着していて、ワイワイしている。ごく普通の良好の格好をしているもの、杏たちのようにアウトドアスタイルのもの、半々であった。

 

 受付をし、預けていた荷物を受け取り、一つしかない女子部屋へ向かう。物理の世界は圧倒的に男子だらけであるから、これは自然なことである。女子の参加者は、扶桑女子大から三名、都心の国立女子大から二名の計五名であった。

 国立女子大の二人はすでに部屋に入っていた。挨拶し、お互い自己紹介する。

「佐倉茜です。国立女子大のM1で、伊藤先生のところで中性子やってます」

 佐倉さんは、ショートカットの黒髪、ブランド物のTシャツにおしゃれなGパンを合わせている。M1とは大学院修士課程の一年目ということだ。一つ先輩である。中性子は、原子核をつくる粒子の一つだが、この場合中性子ビームを物質に当て、物質の内部構造などを探ることをさしている。首元にネックレスが光っている。

「伊東ちひろです。私も国立女子大のM1で、伊藤先生のところで中性子やってます。伊藤先生のトウは藤、私のトウは東です。研究室ではヒガシといわれてます」

 みんな思わず笑ってしまう。ヒガシさんは少し茶色い髪を後ろで束ね、やはりGパンだが白いブラウスが涼やかだ。おしゃれな二人にハイキングスタイルの扶桑勢はちょっとひるんでしまう。

「私は、神崎杏です」

と言いかけたところで、

「私達は聖女様ってよんでます!」

 余計なことを優花が言う。すっかりなごんでしまった。SNSの交換をする。女子の仲間が増えることは素直に嬉しい。

 

 初日のプログラムは、まず、開校式。つづいて夕食までグループセミナーである。グループセミナーはランダムに組み合わせた五人ずつでグループをつくり、お互いに現在の研究内容を発表し、討論するというものだ。ランダムな組み合わせにすることにより、普段馴染みのない研究分野に出会える。ついでにボッチ対策でもある。夕食後は、そのまま懇親会である。ちなみに夕食後は毎日懇親会である。杏としては若手の学校が終わったあとの輪講の準備の時間をどう確保するか、ちょっと心配である。

 

 グループセミナーは宴会場で行われた。畳がひかれた大きな部屋の所々に、背の低いテーブルと座布団が置かれている。杏のグループ他の四人は、熊本で高圧下の実験をしている人、茨城で原子核の実験をしている人、金沢でレーザー分光をしている人、そしてヒガシさんであった。ヒガシさんは、高分子をガラス状に固化させたものに、中性子線をあてているという。四人の話題の中で、ヒガシさんの話にもっとも惹かれた。杏自身は、研究中というより勉強中であるので、最近読んだ高温超伝導論文の中で興味を持ったものを紹介することができただけだった。

 

 夕食は大食堂だ。

 

 じつは夕食を大食堂で行ったのはわけがある。宴会場で夕食、懇親会を行うと、畳に座り込んでしまって酒が入ると、人が動きにくい。日本中の物理を志す若者のネットワークを広げるために、椅子から立てばすぐ動ける大食堂をつかうべきだと、杏が提案したのだ。また、夕食直前までグループセミナーをする場合もあるだろうと、セミナー会場は宴会場にしたのだ。

 

 夕食は特に席指定もないため、なんとなく女子グループが固まった。帝大二名は図々しく寄ってきた。杏の横には修二が来た。夕食にはビールが並んでいたが、杏は乾杯だけはつきあって、その後は飲まないことにしていた。懇親会でヒガシさんからガラスの話を聞きたかったし、懇親会後は輪講の準備をできたらしたい。

 

 しかし気づいてしまった。国立女子大と帝大の都心キャンパスは、距離がかなり近い。歩けるレベルである。それが腹立たしい杏は、ついビール二杯目に手を出してしまった。一気に飲み干して三杯目を手酌で注いだら、気持ちが良くなってきた。

 予定通り、ヒガシさんをつかまえ、ガラスについて色々聞く。中性子の実験については、佐倉さんも教えてくれる。しかしビールの効果は恐ろしく、途中からわけがわからなくなってきた。

 

 気がつけば杏の両サイドは優花とのぞみになっていた。杏の呑むペースをみて、有象無象からガードしてくれているらしい。杏がビール瓶に手を伸ばそうとすると、

「聖女様、だめ」

といって、のぞみや優花が水の入ったコップをよこしてくる。そんなことを繰り返すうち、国立女子大の二人や近くにたまたまいた男子たちに、聖女様というあだ名が広まってしまった。


 杏の状態から判断したのだろう、

「聖女様、お風呂行こうよ。温泉だよ」

 ヒガシさんが誘ってきた。女子五人で大浴場に行くことにした。

 湯船に浸かって酔をさましていると、優花が言う。

「明日から聖女様は、夕食でお酒禁止。呑むなら部屋で飲もう」

「はい」

 翌日から女子は全員、夕食時は飲酒せず、部屋で呑むことにした。ただ、そのせいでかえって酒量が増えてしまったかもしれない。

 

 物理漬けの日々はあっという間に過ぎた。毎晩ヒガシさんをつかまえてガラスの話を聞く。杏はガラスに惹かれていた。

 

 杏が今学んでいる固体物性では、まず原子が周期的に並んでいる物質を扱う。金属、半導体、絶縁体。磁気的な現象、電気的な現象。熱による物性の変化。基本的に固体は原子が周期的にならんでいるし、そのほうが数学的にも扱いやすい。

 液体は、簡単に言うと原子や分子同士がおたがいにぶつかり合いながら運動している状態と言える。運動しているから、原子や分子の位置はランダムであり、動き続ける。

 ガラスは、原子や分子の位置はランダムである。しかしその位置は動かない。だからガラスというのは固体なのか、液体なのか、よくわからない。

 一般に言われるガラスは水晶や石英を作る物質の二酸化ケイ素が主成分であるが、その他の物質もガラス状態になるものがたくさんある。ヒガシさんは有機物をガラスにして、そのミクロな動きを中性子線で調べているらしい。

 杏は将来、ぜひ自分も研究したいと思った。

 

 ヒガシさんは毎晩杏の質問攻めにつきあってくれる。すっかり仲良くなったからか、最終日の晩、聞かれてしまった。

「聖女様の荷物の上にいつもおいてあるピンクのカッパ、あれ自分で買ったの?」

 答えられなかった。

 

 輪講の準備は何もできなかったが、「実験物理 若手の学校」はあっという間に終わった。物理を志す仲間が増えた。ガラスにも出会えた。バスを待つ杏は、満ち足りた気持ちで穂高をみていた。梓川の土手に座り、足をぶらぶらさせて、扶桑と帝大の五人で並んで座った。うまいこと修二が横に来た。のぞみが言い出した。

「私、札幌受ける」

「え、扶桑に残るんじゃないの」

「今回ここに来てわかった、外に出なきゃダメだ」

「出願間に合うの?」

「実は林先生とも話してある。最後の決断だけの問題だったんだ」

「そうなんだ」

 優花はちょっと寂しそうにしている。優花は扶桑に残るのだ。

 明が発言する。

「実はさ、俺たちも札幌にした。柏はもう辞退した」

 杏は言葉が出なかった。もう、わけがわからない。

「私だけ、川崎だぁ」

 優花がいよいよ寂しそうに言うが、のぞみがフォロー?した。

「健太がいるじゃん」

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