聖女様はふたたび上高地をおとずれる
九月に入り、「実験物理 若手の学校」に出発する日がやってきた。
杏も実行委員だったが、杏をはじめ四年生の実行委員たちは就活・進学で忙しいため、仕事は少なく設定されていたので助かった。ここ数日も、最後の確認作業をするだけで済んでいた。そのおかげで、杏は少し旅行気分である。わざわざ優花、のぞみとアウトドアショップに行き、ウェアを新調した。優花とのぞみはアウターを買っただけだったが、杏はアウターに加え、薄手のロングスリーブシャツ、カーキのパンツ、さらにトレッキングシューズも買った。来年北海道でも使えるだろうからと、母から勧められていたのだ。
今回も夜行のバスでの上高地入りである。扶桑女子大からは杏、優花、のぞみ、帝大からは修二と明、その五人でバスの予約をとっていた。優花の交際相手健太は化学なので、今回は不参加である。席は男子二名が隣り合い、女子はじゃんけんで決めたら杏は、ひとりになってしまった。まあ寝るだけだからと、あきらめる。帰りは負けない。
日程は三泊四日、内容はつめつめである。
初日は午後二時に集合、開校式の後、早速セミナー、夜は懇親会である。
二日目、三日目は朝からセミナー、講義、分科会と隙間なく予定が組まれている。観光したくても、朝食前後か、昼食時に頑張るくらいしかできない。
四日目は、帰るだけである。
そんな日程であるから、早朝上高地に到着した一行は午前中にハイキングすることにしていた。
バスが釜トンネルを抜けたあたりで、杏は目を覚ました。快晴である。
大正池を過ぎ、つぎのバス停でバスを降りる。前回は下見のため終点まで行ったが、今回はホテルに最も近いバス停で降りた。空気はかなり冷たいが、勉強道具で背の荷物が重く、すぐ体が温まった。キャリーバッグを不採用なのは下見の結果である。
ホテルに向かう道すがら、木々の色が前回と違うことに気づく。前回は六月初め、木々の緑は瑞々しく若い色をしていた。今は濃い緑である。あと一月もすれば、黄色くなってくるのだろうか。
灰色をした山々は、もうほとんど白い雪はない。
梓川にかかる橋を渡る。川原がひろがる河童橋付近と異なり、橋の下は流れの幅が狭く、流れはすごい勢いだ。杏は、流体力学の連続の式について話してみたのだが、すぐに反応したのは明だけだった。残りのメンバーはいつもの光景を観光地で見もてしまい、笑い合った。杏も笑ってしまった。
修二が橋の欄干上に動物のフンを見つける。杏を含め、女子は悲鳴をあげてしまった。
ホテルに荷物を置かせてもらい、小さなリュックを担いで、ハイキングに出る。トレッキングポールも持つ。大正池は前回行ったから、今回は梓川の西側沿いに上流へ向かおう。
ウェストン碑は、日本に登山を伝えたイギリス人のレリーフが濡れた岩に埋め込まれている。このあたりは日が当たらず、まだ寒い。
すぐ近くのウェストン園地は、小規模な湿原に木道が渡されている。木の枝が木道にかかり、潜らなければいけない場所があったが、ちょっと顔に引っかかって痛かった。自分の不注意に笑ってしまうが、傷が気になる。みてもらおうと振り返ると、後ろにいたのは修二だった。修二は「?」という顔をしているが、恥ずかしい顔を見せるわけにはいかない。
湿原から林道にもどったところで、のぞみに見てもらう。特に傷はないとのこと。
しばらく歩いて河童橋に至る。人が多い。河童橋をわたらず、岳沢湿原をつぎの目的地にする。
岳沢湿原は、ウェストン園地に比べかなり規模が大きい。木々の間に清流が流れている。足元に気をつけながら木道を歩くと、池にでた。水深は浅そうだ。カモ類が何羽も泳いでいる。色が綺麗なのがオス、地味なのがメスで、つがいで仲良く泳いでいるのがいる。私も地味な女だな、そう杏は思ってしまった。思わす修二を見てしまう。
岳沢湿原から明神池までは、ちょっと距離がある。単調な林道なので、おしゃべりに花が咲く。
優花が杏に並んできた。
「聖女様、変わったね」
「うん、変わった」
のぞみも並んできて言う。
「なにが」
「いやさ、なんか柔らかくなったと言うか」
「最近、TシャツGパン減ったよね」
「前は物理の話しかしなかったし」
男子の近くでそういう話はやめてほしい。つい地面ばかり見ながら歩いてしまう。暑いのは日差しのせいだろうか。
明神池を見学したあと、梓川を東側へとわたる。このあたりの川原はとても広い。水量も少ない。川沿いなのに、乾燥しているように感じるほどだ。日差しも痛い。
振り返ると穂高の岸壁が近い。河童橋付近からみるとなにか穂高も優しさを感じるが、このあたりだと見る角度が違うからか、厳しさを感じる。
木々の間の道を抜けると、大きめの山小屋があり、人で賑わっている。
広場のテーブルがあいたので座る。飲み物やお菓子を出して、みんなで分け合った。杏が本日一本目のバナナオーレを出したら、みんなに笑われた。
ホテル方面に戻る。往路と異なり梓川東側の道を選んだが、西側に比べ、人の往来が多い。
キャンプ場の食堂で昼食を取る。すいている。山菜そばを選んだ。
河童橋まで来たところで、近くのホテルの売店に行く。暑いのでアイスが食べたい。女子三人は山を見ながらアイスを食べる。風が気持ち良い。男子はなにか土産物をみているようだ。
梓川、河童橋、穂高の稜線。梓川に枝を伸ばす広葉樹。川原の向こうに見える針葉樹。ホームページなどでさんざん見慣れた景色であるが、杏はスマホにその風景を収めた。
すこしして男子が戻ってきた。明は手ぶら、修二は袋を手に下げている。
「何買ったの」
袋の中をのぞく杏に、修二はそれを押し付けてきた。
「これ、神崎さんに」
六月に買ったかっぱのぬいぐるみの色違いである。
修二はぬいぐるみなら自分がもらってくれると思っているんだろうか。
もらうけど。




