聖女様は迷わない
札幌以外の院試を二つこなし、八月末がやってきた。札幌国立大大学院入試の発表である。昨今の受験の例に漏れず、大学院入試の発表もネットの時代である。杏は澤田研究室に呼び出され、発表時刻を待っていた。指導教官の宮﨑准教授のみならず伊達教授、林准教授も来ている。杏の学友も何人か来ているから、澤田研は満員である。
「小講堂いこか」
軽い感じで澤田教授はいうが、杏は、
「お願いですからかんべんしてください」
と懇願する。
「もう準備はできてるよ」
と澤田研院生の高橋さんまで言う。杏はもう涙目である。
これで落ちたらどうしよう。
満員の澤田研で長い時間をすごしていると、やがてその時はやってきた。
ホームページにアクセスする。
合格者の番号が並んでいる。
上から順に自分の番号を探す。
あった。
涙が吹き出した。
室内は歓声に包まれ、何事か叫びながら飛び出していくものがいる。優花とのぞみは杏に抱きつき、泣いている。
しばらく泣いていると、宮崎准教授が優しく声をかけてきた。
「ご両親に連絡しなさい」
父は勤務中である。母は自宅でネットで見ているはずである。でも杏は自宅に電話をかけた。すぐに母が出た。
「よかったわね、よかったわね」
母も涙声であった。
「うん、ありがとう、今まで本当にありがとう」
杏の言葉は、涙で言葉になっていたか自信がない。
「おとうさんにはね、さっきSNSで連絡しといた。今夜は早く帰ってきなさい」
「わかった」
電話を切ると、宮崎教授が言ってくれる。
「すぐに帰って、直接報告なさい。進路は明日話そう」
「ありがとうございます」
みんな、優しく送り出してくれた。
実は杏は、その日入学時に買ったスーツで登校していた。就職活動にも使えるものである。勝負の日であるのできちんとした格好でいたかったのである。宮崎研で自分の荷物を取り、帰宅へと駅へ向かったのだが、その途中、紺のスーツの胸元二箇所が濡れているのに気付いた。紺色なので濡れた箇所はわかりにくいが、なんだか勲章のような気がした。
帰宅すると、いい匂いがする。母が手料理で祝ってくれるらしい。ハンバーグ、ラザニア、唐揚げ、揚げなすのにんにく醤油漬け、梨など、とりとめの無い食べ物がテーブルに並んでいる。杏の好物ばかりだ。こんなごちそうは、小学校で友人関係でトラブルとなり、杏が学校に行きたくないと言った日以来だ。あの日母は、落ち込む娘を慰めるため作ってくれた。でも今日は、杏を祝って作ってくれている。母の気持ちを想う。父からSNSで連絡が入る。先に始めてくれとのこと。遠慮なく、始めさせてもらった。
母がワインの栓を抜く。夏のため冷やしてあるが、赤ワインがとてもおいしい。杏は子供のように、食べ散らかしつつ飲んだ。
やがて父が帰宅した。玄関からダッシュで杏を抱きしめた。小学校五年生くらいからハグもしなくなっていたから、父はよほど嬉しかったのだろう。杏も嬉しかった。
結局どんちゃん騒ぎになった。もちろん父のスコッチも飲んだ。
深夜に目が覚めたら、ソファーで酔い潰れていた。母は寝室に行ったようだが、父はソファーで寝ている。半年前、同じ部屋で酔い潰れたことを思い出した。でも今はもう、それはいい思い出になっている。用を足して、自室に戻る。
翌朝宮崎研に出ると、宮崎准教授は澤田研に行こうと言う。進路のことだなと、察しがつく。先に行っていなさいと言いながら、宮崎准教授は電話をかけ始めた。
言われたとおり澤田研究室に行くと、大テーブルに座って待つよう澤田教授に言われる。ドア近い末席に座る。しばらくすると、宮崎准教授がやってきて、伊達教授、林准教授も来ると教えてくれる。
しばらくして、伊達教授、林准教授がバラバラにやってきて、杏はいちいち立ち上がって挨拶する。今日も大事な日なので、昨日のスーツだ。ブラウスはもちろん別のものにしている。ちょっと暑い。
「で、どうするんや」
「はい、札幌にしようと思います。他のところには辞退届を出します」
杏はきっぱりと言った。
「柏や大岡山は、発表まだだけど」
宮崎准教授は、念のため落ち着いて考えて欲しいようだ。
「わてのすすめで札幌受けさせたけど、人生の大事なことや、遠慮せんでええで」
杏は,ここに来てそう言うかとも思ったけれど、
「池田先生のところで、勉強させていただきたいと思います。変に迷いたくないので、柏と大岡山はすぐに辞退します」
杏自身、柏のネームバリューは捨てがたい。合格したら迷わないとは言い難い。でもそれは札幌の池田先生に失礼だ。そう強く思う杏は言い切った。それを聞いて伊達先生は言ってくれた。
「よく言った。それでいいと思うよ」
林准教授もニコニコしている。
澤田教授は立ち上がって言った。
「神崎さん、わて個人としては池田先生のとこがいちばんやと思う。でも学部長としては、本学からあんたが去ることは損失であることを言わざるを得ない。柏や大岡山のせんせたちかて同じやと思う。だからこそ、池田せんせのとこで、札幌でしかできん学問をしてき」
「ありがとうございます」
杏は立ち上がって、頭を下げた。拍手が聞こえる。今日も泣いてしまった。




