聖女様は夏の北海道に向かう
進学希望の大学四年生にとって、夏は院試スタートの季節である。日程的に杏第一志望の札幌国立大学は最初であった。杏は念のため試験二日前に飛行機で北海道に入り、試験は一日目火曜日に筆記試験、二日目水曜日に面接である。せっかくの北海道なのでとんぼ返りせず、試験後二日間観光にあてることにした。扶桑からは他に札幌の志願者はいないので、一人旅である。
もちろん水曜日は輪講日であるので、ホテルのネット回線を通じて参加予定である。試験終了で羽を伸ばし北海道名物を堪能したいところであるが、おあずけだ。
明日を院試初日に控え、杏は札幌国立大学正門前に立っていた。人生始めての地で人生のかかる院試を受けるのであるから、杏は慎重になっていた。なぜなら本格的な受験は中学受験以来だからである。
中学受験は、受験当日の起床時刻・交通手段などすべて母親がきめてしまい、言われたとおりに行動していればよかった。高校・大学は附属からの進学であるから緊張感は皆無である。
現在時刻は午前八時。北海道らしく湿度が低く、汗もすぐ乾いてしまうようだ。
明日の筆記試験は午前九時からである。教室には八時半までに入っておけばよいだろう。杏はスマホのストップウォッチをスタートさせ、試験会場の理学部棟へと大学構内へと足を踏み入れた。
キャンパス内は多くの木が植えられている。川崎市郊外の扶桑女子大も多く植樹がされているが、札幌国立大は樹木の密度がちがった。扶桑女子大は建物と建物の間に樹木があるが、札幌国立大の場合、木々の間に建物が見え隠れしている。大学キャンパスというよりは公園みたいだ。夏休み中であるから、見える人影の過半数は観光客ではなかろうか。大学開学の祖である外国人の像をみたりして、キョロキョロしながら進む杏も、はたから見れば観光客と変わらない。右手にスマホ、左手にキャンパスマップを持っている。
半分観光しながらの下見のせいか、近代的な理学部棟の玄関までたどり着くのに十分強かかってしまった。さすがに建物の中に入ることは憚られ、キャンパス内を南北に走る大通りに戻る。大戦中は飛行機の滑走路になっていたという大通りは、視界の限りまっすぐに伸びている。ただ、現在は多くの街路樹により、空の見える面積は少ない。とりあえず北に向かって歩いてみる。
学生食堂がある。公園のような草地が広がる広場がすり鉢状になっており、池もみえる。しばらく北上すれば、イチョウ並木の交差点である。イチョウ並木へは向かわず更に北進する。右手は病院らしい。このあたりから建物が見える割合が増えてきた気がする。北門までたどり着いたが、大きな駐輪場がある。若い人が自転車で学内を走っているが、あまりに広い学内の移動は自転車なしでは考えられないのだろう。
北門から来た道を引き返し、キャンパス西にあるポプラ並木も見に行ってみる。もともとは農業学校であった札幌国立大学であるが、その面影を残す風景である。キャンパスを色々見て回ったため、少し疲れた。そろそろカフェの開く時間だ。一休みしながら少し勉強しよう。
正門近くのカフェに入る。煉瓦造りでガラス張りのデザインは、緑の多いキャンパスにしっくりくる。ミルクを頼む。ケーキもあるが、昼食に響きそうで今はやめておく。店内はまだ空いているので、テーブルに数学の教科書とタブレットを出す。輪講の準備で数学的によくわからないところがあり、教科書をわざわざ持ってきていたのだ。
「あ、聖女様だ」
この地にてこの名を呼ぶのは誰だと顔を上げると、修二と明の二人だった。杏は意外な出会いに驚いたが、二人はあまり驚いた様子でもない。
「神崎さんは、札幌が第一志望なんだよね」
「うん」
何故修二はそれを知っているのだろう。ああ、優花、健太の線だな。
「あんたらここ受けるの?」
「まあ、ね」
二人は杏の向かいに並んで座った。
「柏へ行くんじゃないの?」
「まあ、すべりどめというかさ」
「あ、そう」
杏はあまり興味がなく、勉強に戻った。いいことを思いついた。
「明くん、ここのところだけど……」
素粒子が専門の澤田教授の輪講は、物性の杏よりも宇宙論の明のほうが専門が近い。実は宇宙論は素粒子の知識がないと何もできない。宮﨑准教授なしの北海道で、ちょうどよい知恵袋を見つけた。
ドリンクは各自一杯であったが学習に身が入り、もう昼近い。修二が言う。
「ここは高いからさ、昼は学食へ行こうよ」
もう中央食堂がやっている時間か。ここに進学すれば毎日のようにお世話になるだろうから、学食の下見もよかろう。
カフェから五分ちょっと歩き、理学部前を通り過ぎると中央食堂である。扶桑女子大に比べ、移動時間がすべて二倍くらいの感覚である。夏休み中かつ正午前の食堂はまだ空いていた。
カフェに比べ中央食堂は簡素な作りであるが、清潔である。三人は定食を頼んだ。
席に着き食べ始める。まあ普通である。量はやや多いか。実のところ、扶桑女子大のほうがおしゃれかつ美味であるが、こちらはやや安い。一人暮らしになるので、まず毎日お世話になる。安価であるほうが、味よりも重要である。
食べ終わる頃、学食の人が増えてきた。もちろん知らない顔ばかりであるが、この中に来年の仲間がいるのだろう。
だんだん混んできたので、席を立つことにした。知恵袋を手放すのは惜しいが、男子とずっと行動するのも気恥ずかしく、ホテルに帰って一人で勉強することにした。
翌日。いよいよ院試当日を迎えた。ビジネスホテルの朝食はバイキング形式であったので、昨日と同じ量をもらう。しかし席に着き食べ始めると、なんとものどを通らず、杏は初めて自分が緊張し始めていることに気付いた。
歩いて大学に向かう。下見済みであるから昨日よりゆっくりとホテルを出た。歩きながら既に見知った景色を眺めるうち、だんだんと緊張が解けてきた。理学部棟の入り口で修二と明に出会ってしまった。完全に緊張感がなくなった。
試験会場は、札幌国立大学の学生が大多数なのか、ざわついている。彼らも緊張感が無いようだ。杏たちは席がバラバラであったので、それぞれの席に着く。わざわざ席を立って話しに行く気にもならず無言で教科書を開いていると、自分が外様であることを感じた。
試験は午前が数学。解答用紙が四枚、問題冊子が一冊配られる。解答用紙は受験番号を記入する小さな長方形が用紙右上に印刷されているだけである。問題番号も受験者自身が記入する方式で、印刷機をまわすだけ無駄な気がするつくりである。昼食は昨日と同じく三人で学食。他の受験生が出題された内容について話す声も聞こえる。杏もそれを話題にしたのだが明ばかりがそれに答え、修二は微妙な笑顔である。杏は、実験を専門にしている修二には、勉強時間が確保が難しいことを悟り、話をそこで打ち切った。午後は物理であった。問題は特に難しくなかった。杏は復習のため、すでに履修済みの演習に今年も出席していたのだが、そこで7月にやった問題がそのまま出ていた。解答用紙を試験監督者が一人ずつ回収していく際、後ろの者の解答用紙が見えてしまった。演習でやった問題である。杏は場合分けなどていねいにしたので用紙一面にびっしりと記述したのだが、その解答用紙は半分くらいしか書いてない。やばいなあ、とだけ思った。
試験が終わり、修二が明るい顔で午後の予定を聞いてきた。あとは明日の面接だけなので、二人は気楽なのであろう。しかし明日は水曜日。輪講である。二人の誘いを断り、杏はホテルへ急いだ。




