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聖女様は追放される

 水曜朝。いよいよバスが出発する。空は曇っているが心は快晴だ。予定通りなら、昼過ぎに新宿着である。


 長居させてくれたホテルの人々に感謝。道路復旧に尽力してくれた関係者に感謝。


 思いもかけず長居した上高地。いまや杏は上高地が第二の故郷のような気がしていた。だからバスが県道上高地線をゆっくりゆっくりと進む間、なんだか悲しかった。カーブを曲がるたび穂高が見えたり隠れたりするが、最後に見える穂高を見逃すまいと、杏は車窓にかじりついていた。他の乗客も同じ感傷に浸っていたのかもしれない。バス内は静かだった。


 松本で中央道に乗るまでは順調だった。ところが中央道に乗った途端、大渋滞に巻き込まれた。どこかのトンネルで事故があったらしく、バスはノロノロとしか動かなかった。昼になっても、まだ山梨県内で、さすがに杏も焦り始めた。


 イライラを抑えるため、杏は車中で輪講の資料を読み返した。物理に集中すれば、イライラがなくなるだろうとの考えだ。


 はじめは集中できた。しかし景色がだんだん夕色をふかめるころから、杏は数式が頭に入ってこなくなった。宮崎准教授は腕をくんで目を閉じていた。ときどきSNSで澤田教授に状況を伝えた。


 午後七時すぎ。ようやく新宿に着いた。バスを降りる直前、のぞみが言い出した。

「宮崎先生、聖女様と一緒に、駅まで走ってください。荷物は私たちがあとから持っていきます。」

「わかった。たのむ」

 宮崎准教授の決断は一瞬だった。今回の旅行ではじめて、宮崎准教授が准教授らしく見えた。

 宮崎准教授の足はおそろしく早かった。若い杏でも全くついていけない。要所要所で振り返って待っていてくれるが、追いついていけない。


 駅につき、私鉄の急行に飛び込む。汗が止まらない。


 大学最寄駅に着いた。もう八時を大きく回っている。宮崎准教授はこんどは手を引っ張って走ってくれた。男性と手を繋いだことなど幼児期いらいだが、何を感じる余裕も杏にはなかった。引っ張られる手が痛い。


 なんとか坂を登り切り、小講堂にたどりついた。ドアは開いていた。中に入ると、澤田先生がホワイトボードに式を書いている。間に合ったかと思ったが、その式は杏の担当ページの最後の式だった。


 式を書き終わって振り返った澤田教授は言った。

「宮崎せんせ、明日の朝は講義でしたね」

「二限が量子力学です。三限はありません」

「ほな、宮崎せんせ、神崎さん、明日一時にわてのとこへきてや」

「わかりました」


 杏にはそうとしか言えなかった。


 午後〇時五十五分、杏は宮崎准教授と共に澤田研究室のドアの前に立っていた。宮崎准教授の表情を見る気もしない。宮崎准教授はノックした。ドアはすぐ開いた。

「失礼します」

「失礼します」

 二人でハモってしまう。杏も語尾をのばす度胸はない。

「まあ、そこにお掛け」

 指示通り、二人並んで座る。

「あんたら、約束通り追放や」

「申し訳ありませんでした」

 杏は答えた。覚悟していたから涙はでない。しかし、顔をあげる力は無い。

「神崎さん、冗談や。今回のは天災や、しかも公務や。あんたわてを鬼にするつもりか」

 横を見ると宮崎准教授は微笑んでいる。


「ただし神崎さん、あんた大学院は札幌にし」

「先生、わたしはまだ宮崎先生に教わりたいです。澤田先生にも」

「これは実は、宮崎せんせが言い出したことや」

「どういうことですか」

 宮崎准教授が杏の方をむいた。

「神崎さん、あなた扶桑女子大に何年いる?」

「附属をふくめると、十年目になります」

「長すぎると思うよ。そとの空気を吸ったほうがいい」

「それなら柏にしたいです。扶桑にも近いし」

「柏は近すぎる。あと理論言うても実験屋さんとのつきあいは大事や。大きな声では言えんけど、柏の実験屋は技術屋な感じがする。超強磁場とか超高圧とか、技術屋でなければでけん。それはそれですばらしいことやけど、あんたはもっと直接物理を考えている実験屋とのほうが相性がよさそうや」


「それよりあんた、わての経歴知ってるか」

「わては扶桑の生え抜きとちゃうで、学位を取ったのは浪速や」

 だから扶桑女子大出身なのに関西弁なのか。

「学位を取った後もどさまわりや、あっちゃこっちゃ行って扶桑に戻ってきたのは六十越えてからや」

「大変だったんですね」

「女だからこうなったんちゃうで、研究者なんてそんなもんや、宮崎せんせ、あんたどうや」

「僕は学位は愛知でとったけど、ポスドクは福岡、その次はドイツ、日本帰ってきてもはじめは高専でしたな」

「宮崎センセ、それであんさんなにか損したか」

「いえ、赴任先を見つけるのは大変でしたが、移動先は発見だらけですよ。研究室が違えばゼミのやり方もちがう。新しい場所に行けば、新しい学問に出会える。同じところにいたら、おんなじことしかしないので、視野が狭くなってしまいます」

「そう、人が動くことによって学問が動く。あんたみたいのは気つけんとずっと同じ場所にいそうや。二十世紀ならそれでもよかったけど、今はそれではあかん。扶桑とは離れんと」


「欧米では当たり前のことだよ」

「あとな、日本の学問は、なんだかんだ言っても国立が牛耳っとる。学会やら論文のグループを見てみ、よーく見てみれば結局国立の七大学がどっかでからんどるんやで」

「そやから経歴のどこかでその七大学にからまんと、人の繋がりがでけん」

「神崎さん、札幌の池田せんせ、知っとるか」

「いえ、存じ上げません」

「あの人は伸びるで、なあ、宮崎せんせ」

「そうですね、彼は僕とはまたアプローチが違うので楽しみです」

「それにな、札幌は実験もすごい」

「うちには伊達先生がいるじゃないですか」

「伊達先生には申し訳ないけど、あの人は生き字引や、現役とはちゃう」

「はあ」

「札幌は、中性子の専門家もおる。低温の実験なら重い電子系では世界レベルや」

「先生、専門外なのによくご存知ですね」

「あほか、わてをだれやとおもうとるんか」

 雷が落ちた。

「とにかく、推薦書はわてが書いたる、札幌を受け」

「ありがとうございます」

 杏はもう逆らえなかった。


「そうそう、インターネットってええな。水曜日の輪講は来年もできるな」

 澤田教授は逃してくれないらしい。

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