聖女様は上高地でも勉強する
焦ったところでしょうがないので、杏は朝食を摂ることにした。二日酔いの体に、味噌汁がしみる。
ホテルの話によれば、道路復旧まで連泊することになるという。食料も当面大丈夫だそうだ。また、各自予約済みの交通機関に連絡をとり、その内容をホテルに教えて欲しいと言う。洗濯機の場所も教えてもらった。長期戦の構えだ。
宮崎准教授は「いざとなったら徳本峠経由で脱出」などと言っている。標高1600メートルの上高地から標高2100メートルの徳本峠を越え、交通機関のある島々まで標準的には十時間ほど。ただしこれは通常の天候でかつ、登山経験のある人に限られる。そんな経路は宮崎准教授以外無理である。また、学生六人には装備もない。学生たちは黙殺した。
杏は何も心配していなかった。今日は日曜日。輪講は水曜日。まだ余裕がある。テキストのコピーは持ってきているし、なんといっても宮崎准教授の頭脳を独占できる。雑事もないから、勉強三昧可能である。バナナオーレだけ無い。
可哀想なのは、実験系の人々である。優花ものぞみも、ついでに健太に修二は必死にSNSで連絡中だ。理論の杏と明は余裕である。宮崎准教授は欠勤の連絡をすればよい。生まれて初めて、理論で良かったと思った。
昼間は大雨で行動不能。さすがの宮崎准教授も出かけない。ホテルの窓からは絶景がのぞめるはずだが、視界はない。初日に見たサルやキセキレイ、動物たちはどうして雨宿りしているのだろう。情報が欲しいので食堂のテレビの音声を聞きながら、七人全員で勉強したり、若手の学校のプランを練り直したりする。
夜は夕食時からビールを飲む。実験系の人々は、いろいろ気が気でなくて、飲まずにいられないのだろう。
その夕食時に驚いたことがある。のぞみを含め、岩田明も唐沢修二もあの合コンに出席していたわけだが、男子二名はあの合コンのせいで、物理に進路を決めたそうである。
健太、明、修二の通う帝大は、二年次まで教養課程と言って、専門分けせず、理工学の基礎を広く学ぶ。学びながら将来の専門を探り、三年時のはじめに本人の希望と成績で、進路を振り分ける。これは優れたシステムである。
現代の科学技術は猛烈に進歩していて、最先端は高校生の学力で理解できるような甘いものではない。日々科学技術は進歩しているが、高校までの学習内容は、多少の変化はあっても、何十年も進歩していないのだ。無理に進歩させてしまえば、落ちこぼれ生徒を大量生産し、かえって人材を減らしかねない。
高校生は気づいていないが、上記の理由で大学一年から専門に分かれて学習するのは、結構ギャンブルである。だから大学に入ってしばらく学習して、現代の科学技術の最先端に触れ、若干でも理解できるようになってから専門を決めるのは理にかなっている。
かといって、デメリットがないわけではない。
まず、希望がはっきりしている学生にとっては、必要性の低い勉強を押し付けられる。また関係ない勉強をさせられる期間は、自分の希望の学習がスタートできない。さらに、専門分野の学習が一年次から専門に分かれている大学の学生に比べ、大学卒業時に年単位で専門分野の学習が遅れ、大学院進学組、就職組、ともに不利である。多くの場合、大学院にいる間になんとか追いついているようである。
さて唐澤修二は、合コンの場で杏の超伝導愛、実験愛を聞かされ、低温での物性実験を志したとのことだ。岩田明は、杏がそのころ学習し始めていた相対性理論の話をふきこまれ、宇宙論を選んだ。杏は呑みすぎたので何も覚えていないが、合コンの間中、杏がずーっと物理をまくしたてていたそうだ。すでに健太と付き合っていた優花はテーブルの端でよろしくやっていて、健太は進路の影響を受けずにすんだ。修二と明は杏に絡まれていたため、のぞみには何の会話のチャンスもなく、彼女はいまも彼氏なしである。この話を聞かされた時、杏はすでに十分アルコールを摂取しており、「ふーん」としか思わなかった。
月曜日。雨は弱まった。
基本は日曜同様勉強であるが、インターネットを使って出れる授業は出させてもらう。
梓川はかなり増水しているし、遊歩道でも問題が発生しているかもしれないので、宮崎准教授から外出を止められた。
火曜日。ようやく雨がやんだ。早朝梓川まで出てみると二日前は碧かった流れは黄土色である。川の中から、ゴツッゴツッと音が聞こえる。濁流の中で、岩岩が流されぶつかり合っている音である。きな臭い匂いがする。杏は恐怖を覚えた。
いつバス会社から連絡があるかわからないので、ホテルで勉強しながら待機。さすがの杏も集中力が落ちてきた。
午後になり、バス会社から道路復旧の連絡があり、水曜朝イチのバスで脱出することになった。澤田教授に連絡をとり、輪講には間に合いそうだと伝える。
今夜は飲酒を控え、宮崎准教授と共に輪講の準備をした。よく眠れた。




