私のエッセイ~第八弾:あたりまえのコンコンチキのお話。
こんばんは!ご機嫌いかがですか・・・?
今宵は、タイトルどおりのしょーもない話です。
正直、こんなの読んだら、人によっては「コノヤロー、俺の貴重な時間奪いやがって」とか、「俺の青春の1ページを無駄に使わせやがって」とご立腹される方がおられるかも?
・・・これまでご感想をくださった優しい先輩方も怒らせちゃうかもネ。
でも、あたい、今宵はコレを書きたい気分なのっ。
不覚にも洋酒入りチョコなんかで、軽く酔っ払っちゃったみたいね。
けっこう、チョコの中の、あの安物のブランデーってイケルのよ。
独特の風味があるのよね・・・。
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さて、よく「過去を振り返るな。未来を見て生きるんだ!」なんて言い回しがありますが・・・実は私たちは、毎日毎日、過去を見つめながら生きています。
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何のことかって・・・?
では、こう言い換えたらどうでしょうかね。
「私たちは、常に過去の姿を見て生きている。」
これで何のことか、ピンときた人もいると思います。
では、さらにこう言い換えたらいかがでしょう・・・?
「私たちが見ているものは、すべて過去の姿である。」
・・・これで、何が言いたいのか分かったと思います。
そうなんです。私たちが目にするものは、程度の差こそあれ、厳密に言うと、
すべて「過去の姿」なんです。
分かりやすい例が、月と太陽。
実は、どちらも、私たちが見ているのは、リアルタイムの「お月様」や「お天道様」ではありません。
月は、約1.3秒前の月、太陽は、約8分19秒前の太陽なんです。
さらに言えば、北極星は約430年前の北極星を、アンドロメダ銀河にいたっては、約230万年前の姿を見ていることになります。
これは、光の速度が「有限」だから起きてしまう現象ですが・・・このように、遠くを見れば見るほど、それは、「より過去の姿を見ることになる」、ということを意味しています。
実際にその場所にあった天体の姿・・・つまり「情報」は、光に乗って私たち地球人のところに来るわけですが、ものすごく遠い距離にあるために、その情報が地球人に届くまでに「タイムラグ」が生じてしまうんですねぇ・・・。
もっと掘り下げて考えてみると、「距離的な奥行き」というものは、同時に「時間的な奥行き」をも意味する、というわけでして、この二つの「奥行き」というものは、実は表裏一体である・・・そんなことも言えるわけです。
これは、「距離的な隔たり」とか「時間的な隔たり」といった表現にも置き換えることができますよね。
実際、徒歩でも車でも何でもいいんですが、「移動した距離」には、必ず「経過した時間」というものが伴います。旅行などで遠くにいきたければ、その目的地までの距離に「見合う」時間を私たちが積極的に差し出さなければ、絶対に目的地にはたどり着くことはできません。
つまり、「距離と時間との間のギブ・アンド・テイク」とも言えますよね。何かが欲しければ、その代わりとなる別の「何か」を差し出す・・・まさに「資本主義経済」の構造そのものを見ているようではありませんか(笑)。
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そんな「時間的にバラバラの無数の視覚情報」を同時に受け取っているというのに、なぜ私たちは何不自由なく暮らしてゆけるのか・・・それはもちろん、その視覚情報を伝える「媒体」である光の速度が「トンデモネー」速さだからに他なりませぬ。そんな「ちっぽけな」誤差なんて、これっぽっちも問題にならない、無視できるレベルの問題だからなんですよね。
話を戻しますと・・・だから、地球上で言えば、「目の前のハナタレ小僧」よりも、向こうのドコモショップに入ろうとしている「ガングロのヤマンバギャル」の方が、より過去の姿ということになるんですねぇ。(ヤマンバギャルは、違う意味で「昔の姿」ですがwww)
物と物との間に距離がある限り、私たちは決してリアルタイムで物を見ることはできません。
・・・どうしても「過去の姿だけ」しか見られないのです。
だから、毎日毎日、「過去を見つめながら生きている」わけですね。
お・し・ま・い。