六 大宰府の夕
小屋のまわりが静まったことに気づき、道真は顔をあげた。
彼は大宰府の政務をとる役目を与えられ、この地に座している。
しかし役職は名ばかりのもので、敷地の隅の粗末な居に軟禁された状態だ。やつれた頬にほつれる髪は油が抜け、細く白い。
才に恵まれ右大臣にまで登りつめたと言われる彼だが、望んだ出世ではなかった。
彼はただ誠意をもって仕事にはげみ、美しい物ごとに心を寄せ、家族とともにあることを幸福として生きてきたのだ。
今、そのすべてが奪われている。
京を離れてから土に塗りこめられたような時間を耐えてきたが、到着から十日ほどたった今朝、単調な暮らしが揺らいだ。
前ぶれのように、日の出まぎわに小雨が走った。
それから急に敷地内があわただしくなる。緊迫した、しかし抑えた話し声が飛び交い、あたりの警備が厳重になったようだった。
小屋の壁には、手のひらふたつ分の板戸がある。そこから見張りがしきりと様子をうかがってくるので、彼は無駄を承知で尋ねてみた。
「なにごとがあった」
相手は険しい表情で「奥におられますように」と告げる。こわばった顔にうっすらとした怯えを読みとり、道真の好奇心が久々に頭をもたげた。
やはり起こったのだ、私にまつわる何かが。
彼は息をひそめて待った。
そして夕刻、この奇妙な静寂。
手をついて立ちあがり、板戸をのぞく。
陽が落ち青みを帯びる空の下、雑木林がそよぎ鳴る。
やはり人は絶え、見張りも巡回もない。異常を確かめると、彼の心はしばらくぶりに眺める穏やかな夕暮れに引き寄せられていった。
景色に目を染め、立ち尽くしていた時。
薄暗い小屋にぽつりと声が落ちた。
「道真さま」
童のように高く、しかし厳かな調子。
驚いた道真がふりむくと、入口の戸がわずかに開いている。
「東風、届きましてございます」
「なに?」
瞬間的に、京で最後に詠んだ歌が浮かぶ。彼は戸を押しひらき、夢中で外に出た。
春の宵。色が影へとうつろう時刻。がらんとひらけた茂みの真ん中から、一本の木が彼を見つめていた。
梅の木。
そこにあるはずのない、彼の梅だ。
道真は雲を踏むような足どりで歩み寄る。深い茶色の幹にふれ、しばらく言葉をうしなっていた。
広がる枝を見あげる。花の季節を過ぎていたが、緑の葉は美しかった。
これは、手向けか。
彼は呆然として言った。
「私は…… この地で終わりをむかえるのだな」
「そうともかぎらない」
人ではない低い声が答える。
道真はそれに聞き覚えがあった。
薄闇の先から桜の香りが漂ってくる。その相手にまつわる記憶は古かったが、ひとたびたぐりよせるとあざやかに広がった。
「道真、少しよいか。頼みがあるのだが」
冬が迫った、秋の日のこと。道真は役所の庭先から上官に手招きされた。
「はい、うかがいましょう」
明るく応じる彼は二十代なかば。すでに文筆家として知られており、その方面の依頼を受けることも多い。
今回も筆の用だとばかり思ったが、上官は張りつめた顔でこう言った。
「君は弓が達者だったな。その腕にすがりたい」
「近ごろはあまりやりませんが…… 競技の会があるのですか?」
面食らって尋ねると、相手は苦しげに衣の袖をもみ、声をひそめた。
「いや、怪異を祓ってもらいたい。どういうわけか、わが家に蛇が祟っておる」
上官によると、ここ数日、夜ふけに屋敷のまわりを這う音がするという。地面には大縄のような跡が残り、異変にあてられた息子がとうとう寝込んでしまった。
目を丸くしていた道真が、表情を曇らせる。
「ご子息は、近々婚儀を行われるとうかがっております」
「ああ、悪い噂が立っては困るのだ。内密に、早々に影を晴らしたい。わかってくれるな」
化け物退治などしたことがない道真だが、子を思う親の懇願を退けられず、ついにうなずいた。
仕度を整えた翌日、夕闇にまぎれて屋敷を訪ね、夜を待った。
庭に面した一室から、弓を握って外を見張る。やがて、寒さにしびれた耳が砂の擦れる音をとらえた。
ずず、と硬い地面が鳴り、冷気に似た重たい気配が近づいてくる。
道真は速まる鼓動をおさえて待った。まだだ、まだ早い。あと少し堪えろ……
間延びした一瞬が過ぎ、気配が角を曲がってきた。
庭へ踊り出た道真は、星明りの下にぬめるものを見、力一杯弓を引いた。
ただし矢はつがえない。真新しく強い弦の音が響きわたると同時に、彼の面前に鱗の身体が伸びあがった。
人の腕よりも太い胴。菱形にふくれた頭部に玉のような眼が光り、夜を背景に道真を見おろし、とまる。
道真の背すじに震えが走る。息を吸って声を張った。
「なにゆえここへ参った」
威勢よく問うたつもりだが、言葉じりが情けなくかすれた。
大蛇は身動きせず彼を見ている。凍る視線に射抜かれた道真は、必死だった。
「その方、仔細あると見た。人を呪い化生へ身を落とす前に、私に仲立ちさせてみないか……」
「あの時は胆を冷やしたな。懐かしいことだ」
三十年あまりを経て、道真は静かに語りかけた。
暮れる木立ちにまぎれ、かつて相対した蛇の姿が浮かびあがる。意志がかたどる青い影には、降りしきる花の幻がかさなっていた。
妖の霊は、少し声を和らげた。
「伴侶の件では世話になった。あれが射殺された時、おれはすっかり我をうしなっていた」
彼の伴侶は美しい白蛇で、京の山でいくつかの水場を守っていた。
しかしある秋、彼女が突然消えてしまう。山中を探しまわった大蛇は、矢を受け息絶えた彼女を発見したのだった。
「四つの牙を抜かれていた。長く鋭く、かがやく誇りを」
道真と出会った夜、大蛇は石のように硬く言った。
人間が伴侶を殺したのだ。感情を閉じこめなければ、同種のひとりと話ができるはずもない。
道真の方もそれを承知で、過剰な同情は示さず、つとめて冷静に彼とむきあった。
白蛇の亡骸に突き立った矢には、凝った矢羽が矧いであった。それを手がかりに幾度か人里に降りた末、ある官人の息子が使っているものだとわかった。
「なるほど、それで仇討ちに」
道長は弓を小脇にかかえて考えこんだ。やがて、じりじり身体を揺すっている蛇を見あげて言った。
「時間をくれぬか。私が調べをつけよう」
「なんだと?」
大蛇がくわっと口をひらき、彼はあわてて身を引く。しかし主張は変わらない。
「一度まかせてみてほしい。奥方の牙が目当てだとしたら、犯人は何かしらの呪術に長けた者だと思う」
「術とは……」
蛇は少し戸惑い、自分が人間の風習をよく知らないことに気づいた。
道真が根気よく先をつづける。
「おそらく、というところだが、確かめる価値はある。
そして呪術をつかう者なら、強い願望を隠しているはずだ。こちらのご子息はとても明朗で、邪気がなく、お考えにも裏表がなく……」
そう説きながら、道真の長い眉がさがっていく。
上官の子息とは、宴で同席した時、連歌の趣向で組んだことがあった。相手がにこにこして詠んだ上の句は大木の丸太のように道真を襲い、細やかな詩情を愛する彼を苦しめた。
なにかを察した蛇が相づちをうつ。
「射手は別におり、お前がそれを探すというのだな」
「協力が必要だ。私は都のうちを、山の中はそなたが探す。猿でもタヌキでも、誰かが現場を目撃しているかもしれないだろう」
道真は勢いこんだが、蛇は気が進まないように首を引く。
「取るに足りぬものに助力を乞えというのか」
「その心がまえでは真実にたどりつけぬ。奥方のため、そなたのためだ」
大真面目に諭す道真。
蛇は、屋敷の主がこの男を護衛に選んだ理由がわかった。底抜けに実直で、かつ変わり者である。
渋々ながら承諾すると、道真はホッとして笑顔を見せた。
「かならずうまくいくとも。安心してくれ、水伯」
水伯とは水の神の異称だ。そこまでの力はない蛇だが、相手が当然のように口にしたので勝手に呼ばせておいた。
縄張りに戻った蛇は、これまで気にもかけなかった獣たちを訪ね、怯える彼らに事情を話した。
カラスがちらちらと目につき、風の酒飲み天狗が動向をうかがっているとわかったが、かまっている暇はない。数日かけて調べをつづけると、あるイタチがこんなことを言った。
「少し前に、笠をかぶった人間を見かけましたよ。女ひとりで山奥を歩いて、どうしたのかと思いました」
蛇は引っかかりを覚えて聞き返す。
「その女、迷いこんだふうだったか?」
「いえ、足どりはしっかりしてました。怖がってもいなかったようです」
場所を尋ねると、伴侶が守っていた水脈のそばだった。
蛇ははやる気持ちを抑え、都が寝静まったころ、道真の屋敷へむかった。
庭を這っていくと、裏手の戸から彼が先んじて顔を出した。耳のよい男だと感心しながら、蛇は得た情報を話した。
「そうか、女人が山に。これで絞りこめる」
道真は目をかがやかせた。寒さに負けて身体に夜具を巻きつけた不思議な姿をしていたが、調査は順調に進めていた。
上官の息子は、秋口に的射の会に出ていたという。
「新しい矢をそろえていったそうだ。矢を盗まれたとしたらその時だろう」
出席者を聞きとった道真は、朝廷の権力情勢と照らしあわせ、ひとりずつ可能性をつきつめていった。
怪しげな人物は数名いる。
彼は疑念をそらすため他人の矢を盗み、弓の達者な従者に蛇の牙を調達させた。山で目撃された女は、その射手の妻ではないか、と道真は考えた。
「ふたりで主に協力したのだ。
子守の手間がないとなれば、おそらく夫婦になりたてなのだろう。若く、子がいない弓の名手を召し抱えている者、それが首謀だ」
道真は励ますように言った。
「もうじき明らかになるぞ。あと少し待ってくれ」
蛇は黙っていた。
誰かに仕えたことのない彼には、命じられて生き物を殺すという行為が理解できない。そして、そんな行為にたずさわる者が彼の怒りや悲しみを理解できるとも思えなかった。
祟り殺したとて、死にゆく己を哀れむだけで罪を悔いもしないだろう。
彼は空虚な心を引きずり山へ帰った。
谷底の洞の奥にむかい、さやかな泉を見つめる。蛇はその底に伴侶を葬っていた。水は穏やかで、今はそれだけが慰めだった。
彼らの捜査は、思わぬ形で決着した。
翌日の朝、ある屋敷で落馬事故が起こり、壮年の貴族が死んだ。
それはまさに、首謀として道真が目星をつけていた人物のひとりだった。
胸騒ぎを覚えて弔問へむかうと、立ちはたらく下男の中に、ひときわ蒼白な顔をした青年がいる。
若く体格がよいが、物静かな性質が見受けられた。手は大きくたくましく、皮が厚い。よい射手の手だ。
道真は考える間もなく歩み寄り、驚いたような面持ちで彼にささやいた。
「そなたが射たか」
青年は答えられなかった。
するどく息を飲み、よろよろと崩れ落ちる。妻らしき女が真っ青になって駆けてきて、道真は推測が正しかったと知ったのだった。
道真の屋敷に呼ばれた青年は、洗いざらい打ち明けた。
死んだ貴族は、権力を望み娘を入内させようと画策していた。政敵の妨害を打破するため、呪術に頼ろうとしたという。
彼はこけた頬をゆがめて話した。
「それには特別な力のある牙が必要だと申されました。山の水辺に妖が出るようだ、とも」
妻を囮にたてるように言われ、逆らうことができなかった。
白蛇があらわれると、妻は霊水をわけてほしいと頼む。はじめ警戒していた蛇も、妻が恋に悩む娘をよそおうとじっと耳を傾けたので、ねらい定めた矢ははずれなかった。
道真は難しい顔で腕を組んだ。
「もし、命令にそむけば?」
青年は、板敷きの床についた手をきつく握りしめた。
「まじないをつかい、私たちに子ができないようにしてやると……」
静かになった屋内に、元気な声が流れてきた。道真の子どもたちが庭で遊んでいるのだ。
彼は青年の肩をたたいてやり、顔をあげさせる。
「落馬は不運だった。祟りではない」
すがるような目をする相手に、表情を引き締めて告げた。
「だが、愛するものを奪われた蛇の片割れがいたく悲しんでいる。なにをするべきか、わかっているな」
射手と妻はふたたび山を訪れ、初冬の水辺にひざまずき、丁重に供養を行った。どちらも後悔し、泣いていた。
道真から顛末を聞いていた大蛇は、茂みにひそんでそれを眺めた。自分も彼らも哀れなものだと感じた。
蛇はふたりを許し、無念を飲みこんだ──
この世の上では。
「……下に落ちれば話は別だ」
冷えた鱗に眼光をはねさせ、低くうなる。ぬけぬけと命を落とし逃げきった元凶を、どうして見逃すことができよう。
そして大蛇は天狗のもとへむかった。
自分を殺して冥府に送ってもらうために。
首謀の男に、もう一度、死を与えるために。