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五 清水に蛇

 流れる清水を素手に受ける。

 透明なせせらぎをすくった円角は、遠慮なく味見した。

「お、うまい。こりゃ一等だ」

 ひとり満足してうなずく。谷底を伝うその水は冷たく純粋で、周囲の草木もしゃんとうるおっている。これが霊泉につながっているはずだ。筋を見つけるまでにだいぶ手間取ってしまった。

 彼は立ちあがり、はるか高い梢をにらむ。

 太陽が真上にのぼったら集合しようと九良に約束したが、木が茂りすぎて時刻がわからない。

 少しでも遅れたら、心配性の相棒は円角が食われたと思って大騒ぎするだろう。さっさと確かめて戻ろうと足を速めた。


 緑にかげる林に生き物の姿はない。どこからか響いていた鳥の声も、洞穴の前までくるとふっつり絶えた。

 洞は急な斜面のふもとに空いていた。

 入口に垂れたつる草をかきわけ、ひょいと頭をつっこむ。天井は低く、穴は蛇行しており、闇の奥で曲がっているのが見わけられる。壁面のにぶい反射が「長く深いぞ」と告げていた。


 引き返して、九良を待つか。


 そんな考えがちらついた。しかし、穴の先に息づく未知が彼を引き寄せる。円角は杖を背に挿し、岩壁に手を添えて進みはじめた。

 光は絞られ、空気が冷える。

 やがて草鞋の裏に上りの傾斜を感じた。水は太さを増し、ひたひたと足を濡らす。源泉はこの先だ。彼は全身を使って大きな石を乗りこえた。

 急激に広がった闇は、大きな水の気配をたたえていた。

 円角は平らな石のふちに立ちあがる。かすかな動作が音になり反響し、耳に戻る。五感を針の先のようにとがらせた。

 邪気はない。

 が、水の底に何かいる。

 誘われるように身を乗り出した時。

 懐がぶるっと震え、彼はすっかり忘れていたものを思い出した。

 網におさめた法螺貝だ。

 封じていた悪霊が、いま目を覚ました。




 滅多にないことに、烏天狗は晴天の下に翼を広げ、山の一端を旋回していた。

 はるか下方では、小さな獣が沢ぞいを駆けているところだ。

 と思ったら派手に滑って転がり、背中から水に突っこんだ。引っくりかえった四肢がじたばたもがいている。

 天狗はため息をつき木々の合間をおりた。水がかからないように気を配り、太い腕を伸ばしてキツネを引きあげる。

「不器用なやつめ。川獺かわうそに化けたつもりか」

 ぼそぼそに濡れた九良がもどかしそうに首をふる。

 彼女の頭からは桜も謎も吹き飛び、ひとつの使命しかない。円角が危ない、あとを追わなければ──


 礼も忘れて走り出した彼女の首根っこを、天狗がいさめながら押さえた。

「落ちつくがよい。円角とやらはとうに水の洞に入った、もう手遅れだ」

 キツネの眼が大きくひらき、彼を見あげる。

 “とてつもなく恐ろしい化け物” という証言を思い出し、毛皮の下の血が引いた。

「ど、どうしてとめてくれなかったんですか」

「あの男がひとりで進むことを選んだからだ。当然、結果もひとりで負うべきだろう」

「結果……」

 細かく震え出した彼女に、天狗がくちばし顔を近づけた。

「よいか、九良狐。お前は年若く未熟で、伏見に仕えるには何十年も早い。だが、立派に妖の一族だ。己を誇り、属する世界を見定めよ」

 ふたつの眼は昨晩よりずっと穏やかで、人間に寄りすぎたキツネの未来を案じ、心から語りかけていた。


 異なるものは、異なる道をゆけ。

 近づくほどに悲しみは深い。


「でも、私」

 キツネの小さな口が震える。必死に顔をあげる。

「彼に救われました」

「それは、命を差し出すまでの恩なのか?」

 とてもやさしく尋ねられ、もう堪えきれなかった。獣の眼にどっと涙が寄せた。

「恩や義理じゃないです。あの人が大切なんです!」

 痛みに声をあげるように叫ぶと、キツネは天狗の手をふり払って駆け出した。




 ──よりによって、こんなところで!

 円角は闇の中で青ざめ、とっさに法螺貝を押さえる。

 もう一方の手で背に負った杖をとるが、遅かった。

 バキッと音をたてて貝がはじけ、封じていた霊が噴きあがる。黒い炎のようなほのかな灯がともり、周囲の岩壁と水面、のけぞった青年の姿が浮きあがった。

 後ずさりかけた足が、石のふちをはずれくうを踏む。あわてて壁にはりついた拍子に錫杖を取り落としてしまった。

「くそっ!」

 はねた杖は騒々しく鳴り、闇へ消える。

 その音がやまないうちに霊は人の形をとった。ハッと顔をむけた円角の前に、ぼやけたおもてがにじみ出た。

 じわっと歪み、笑う。

 青年が息を飲むと、鉤爪のように曲がった黒い手がするどく伸びてきた。


 その時。

 ざばっ、と豪快に泉が割れた。

 青白い強烈な光が岩室を照らし、霊の姿がかすむ。泉が渦を巻き水が逆立つ。

 おい冗談ぬかせ、今度はなにがお出ましだ? 飛沫を浴び尻餅をついた円角は、腹立ちまぎれのやけくそで目を開いた。

「いいぜまとめてかかってこい、俺が相手してや……」

 喉が引きつり声が切れる。

 高くえぐれた天井すれすれに、悠々と伸びあがった水が、鎌首をもたげて彼を見おろしていた。

 水の大蛇だ。

 流動し輝く鱗。人間をひと飲みできる口を開け、するどい牙を示し。吊りあがった眼窩にはまるのは、燃えさかる青い火だった。

 円角の分厚い心臓がぎゅっと縮まった。悲鳴すら出せない、何もできない。

 硬直した彼の前で、一度散った悪霊がふたたび濃さを取り戻していく。黒と白と水が視界をおおった。


 これが最後の景色か。

 そう思った刹那、小さな獣の姿が心をよぎる。

 黒っぽいキツネ。野の道をどこまでもついてくる。先を行く円角がふり返ると、いつも何かを期待するように首をかしげた。


 あなたの役に立つよ。頼みごとをくれる?


 悪いが、渡せるのは別れだけだ。

 あばよ、九良。



 凍りついた時間を、水が揺らした。

 その場の何よりも早く大蛇が動いた。

 ざざざと鱗を鳴らし冷たい光を引き、目を見開いた円角にはかまわず、くわっと開けた口で霊をとらえた。

 飲みくだされた霊は蛇の体内を降下しながら色を失っていく。そして、大きくたわんだ胴の中ほどで、ふっと消えた。

「すげえ。完璧な浄化……」

 呆然として賞賛をこぼした円角を、大蛇が真上から見据える。

 青年も大蛇を見た。燐光のまなざしは彼を排除すべきかどうか見極めているようだった。


 そこに、洞を走ってくる足音が響いた。四つ脚の音だ、円角はハッとなってふりむく。

「九良、くるな!」

 だが彼の声はキツネを力づけた。

 円角がいる、そこにいる!

 彼女は妖の光があふれる石の先へ一気に駆けあがり、泉のふちを走り抜け、大蛇目がけて跳んだ。

「うわ馬鹿やめろっ」

 あわてた円角が這って追い、ふたつの水柱があがる。

 泉はすり鉢状に深くなっていた。光の射しこむ水中、泳ぎの苦手な九良がどんどん沈んでいく。円角は夢中で水をかき、伸ばした手で相棒をすくいあげた。


 やっと空気にふれ、ふたりは泉につかったまま顔をつきあわせた。どちらも安堵と混乱がごっちゃになり、頬がこわばっている。

「な、なにしてんだよお前、危ないだろうが」

 円角の声は震えて裏返っていた。彼の腕にしがみついた九良が、同じくらい情けなく言う。

「だって、助けたくって」

「状況を考えろ。いくら供でも限度があるぞ」

「天狗さまとおんなじこと言う……」

「なんだ、あいつにつけられたのか?」

 小さなやりとりを見つめていた大蛇が、ふと形を解いた。

「あ」

 行者とキツネが顔をあげる。

 青く輝く水が岩室じゅうに散ったかと思うと、薄紅を刷いた丸い花びらに変わって降りそそいだ。清廉な春の香りが立ちこめる。

「桜だ」

 円角がつぶやいた時、すべての花が泉に返り光が消えた。



 それきり水は静まった。ずぶ濡れになったふたりは、太陽をもとめて洞穴から転がり出た。

 円角は、張りつく衣を絞りながら首もひねる。

「悪霊持ちこんだ俺を見逃してくれるなんて、あの蛇は何者なんだよ。水と桜ってことは、消えた木に関係してるよな」

「あのね。木が消えたことの、その前から始めてみようよ」

 九良が澄んだ眼で主を見る。

 ぼそぼそ毛羽立った彼女は何の生き物ともつかない不思議な姿になりはてていたが、危機を越えたおかげで頭ははっきりしていた。鼻を鳴らし、都のできごとを話し出す。

「お屋敷は見られなかったけど、弓弦づくりの翁さんに会えたの。道真さまは、お若い時分に弓で怪異を祓ったことがあるみたい」

「なに、鳴弦の術を?」


 少し考え、彼は顔をあげる。

「それじゃあ、こんなところか。道真公が京を離れ、かつて祓われた妖が復活する。そいつは仕返しに梅の木を奪って…… いや変だな、俺たちのはぐれ桜が余る」

「そう、あの桜。一本だけぽつんと生えてたでしょう。円角がはじめに気づいたよね」

 確かにそうだったと青年はうなずく。つい昨日のことなのに、ひどく昔のように思えた。

 九良も同じ気持ちで言葉をつづける。

「依り代にできるほど強い桜。あれはきっと、誰かが植えたんだよ」

 円角はすぐさま思い当たった。

 都に入った時、道真の庭にも以前は桜があったと聞いたことに。

「そうか、木によっては、切った枝からも根を張れる。俺の親父どのも、山葡萄やまぶどうを殖やそうとしてしくじったことがあった」

 繊細な挿し木をつつきまわして枯らしたのは息子(円角)である。

 彼は過去のあやまちをわきにどけ、相棒の前にかがみこんだ。


「俺たちが見つけたのは、道真公の桜だったんだな」


 濡れたキツネの顔がかがやく。

「そう! 弓を持った道真さまは、水の大蛇と知りあった。そして、なにかの理由で桜をわけてあげたんじゃないかな」



「となると…… 道真公ゆかりの木が、いっぺんに二本消えたのか。おい九良、こいつは本当に筑紫行きかもしれねえぞ」

 ひらめいて驚いた彼に、一陣の風が応えた。

 ふたりの頭上で深い枝葉が騒ぐ。天にひらいた道から大きな翼が現れた。

 九良がうれしそうに伸びあがる。

「天狗さま。私、間にあいました」

「そのようだな。川獺よりひどい格好をしておるが」

 烏天狗は、この身に重みなど無用というふうに細い枝先へ舞い立った。円角が仏頂面で見あげる。

「今日は素面なんだろうな。あんたどこまで事情を知ってるんだよ」


「わしが気にかけるは水の骨瓶こつがめ。あまりうるさくしては、やつらに迷惑だろうて」

「やつらってなんだ、大蛇は一匹だったぞ」

「骨と言うたろうが。お前が見たのは実体ではなく、霊力の残影だ」

 途方に暮れる円角を無視し、天狗は涼しい顔で言う。

「さて、そなたが抱えていた悪霊は清められたのだろう? もはや依り代を探す必要もない、大和へ帰れ」

「冗談ぬかせ。木はどこに行ったか、裏になにがあったのか、ちっともつながってないだろう。尻切れトンボじゃ終われねえよ」

 円角の言葉は荒っぽかったが、まっすぐ立つ姿に真摯な気持ちがあふれている。

 九良も彼に寄り添った。

「私たち、めぐりあわせてここまできました。道真さまの木の行く末、最後まで知りたく思います」



「そうか」

 天狗はすんなりうなずき、羽扇をふるった。

 虫をはらうような軽い動作だったが、とたんに旋風が地を舐め、葉っぱと一緒に青年とキツネを巻きあげた。

「えっおい、うわっ!」

 前のめりに浮かんだ円角。宙をかく手足が、さっきまで見あげていた枝葉をかすめる。

 ハッと九良を探せば、タケノコのような形態で天狗の前を通りすぎ、天空へすっ飛んでいくところだった。

 彼は叫ぶ。

「なにすんだ、降ろせトリ人間」

「誰が人間だ。偉ぶった口を利くと、道々揺らすぞ」

「道々……?」

 同じ高さで目をあわせ、天狗のくちばし顔がにやりとした。次に起こることを察し、円角の血の気がもう一度引いた。

「ま、て。待て待て待てっ」

「さあ、存分に見届けてくるがよい。たどりつくころにはその身も乾いていようぞ!」

 しなる扇が空をすくい、吹きまわっていた風が大きな流れになる。

 ぶわっと膨らんだ力に押しあげられ、行者とキツネは遥かな旅に出た。かがやく晴天の下に京の町が広がっている。それが何だかわからないくらいに小さく遠く、細々と。


 仕事を終えた天狗は、木のてっぺんで節をつけて口ずさんだ。

「光風清風、長風や良し」

 実をいうと彼は完全な素面ではない。昨晩の桜酒は、軽い飲み口に意外なほど深い余韻を隠していた。

 蛇め、器用につくったものだ。

 苦笑いで羽扇をおさめていると、過ぎた日が心に戻ってきた。




「大将、水守の蛇が息絶えました」

 手下のカラスから報告をうけたのは、もう一昔前になる。

 円角とかいう行者の年恰好を見るに、ちょうど彼が生まれたころかもしれず、奇妙な縁だと彼は思った。

 死んだ大蛇は彼の友ではない。

 それぞれ風と水をつかさどる、力を持つものどうし。争いもしないが、そしらぬふりで警戒しあう油断ならない間柄だった。

 しかし、静かな緊張を抱かせるその相手が、一度だけ彼に頭をさげたことがあった。

 うしなわれた大切なもののために。


 “手を貸してくれ。あの人間に復讐を……”


 古い声を懐かしみながら、天狗は亡骸のもとへむかう。

 蛇は青緑の鱗をしていたので、湧き水にひたり横たわるさまは一本の深い川のようだった。

 目を閉じ地に伏せた顔が洞穴へとむけられている。死期を悟り泉を目指したのだと知れた。

「ここまできてたどりつけなんだか。情けないやつよ」

 天狗は蛇を抱え、黙々と歩きはじめた。

 護衛の一羽が困ったように申し出る。

「奥へ行かれるんですか? 御羽が濡れますぜ」

 天狗は邪魔くさそうに払いのけ、蛇を葬ってやった。それが別れになったはずだった。



 しかし、この春のはじめ。

 天狗の縄張りに蛇の幻がちらつくようになった。

 何を言いたいのか察しはついた。菅原道真の不遇の噂は、都の風に乗ってうるさいほど聞こえてきていたからだ。

 ふたりの関わりを微細に知るものは、天狗しかいない。

 祟られても面倒だ、と重い腰をあげ幻を追うと、導かれた先に酒壷が隠してあった。その対価として、彼は蛇の望みに追い風を吹かせた。

 風の尽きる場所が終わりの場所だ。泉の影もじきに消え、平穏な塚が残るだろう。


 天狗はあらためて遠くを眺める。

 青空。

 薄い緑に濃い緑。明々たる陽ざし、土の色までもあざやかに。人間の暮らしがはさまるものの、今日はさほど気にかからなかった。

「よい景色ではないか」

 素直にそう思ったのが恥ずかしく、彼はそそくさと岩場へ戻っていった。柄にもなく晴れた心には酒の雨を降らせるにかぎる。


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