四 狐は洛中
夜の大岩から撤退した円角は、すぐさま考えをめぐらせた。
あの天狗、明らかにあやしい。
謎ときの手がかりは、酒。
それも普通の酒ではなく、桜花の香るふしぎな酒だ。
「あれは人間がつくれるもんじゃねえ。天狗の自家製じゃないとすると……」
円角は月光の木陰で首をめぐらせた。
先日から駆けまわっている山は、京の東側にあたる。
発端となった悪霊を追いかける際、里の者から “古来より良い水が湧く土地だ” と説明を受けていた。宮内の酒造にも使われてきた名水を、妖がほうっておきはしないだろう。
「このへんに酒づくりの妖がいるはずだ。その線をあたってみよう」
「そうだね」
とうなずく九良の声は硬い。
天狗の次はどんなものが出てくるのか、小心ならではの想像力が闇にはばたく。脂汗をにじませるキツネを見て、円角が法螺貝を持ちあげた。
「景気づけに吹いてやろうか」
「悪霊出てきちゃうよ! いいよ平気、本当に大丈夫」
「こいつ、中でなんか唱えてるんだよな。俺のための呪いの経か」
「本当に大丈夫……?」
ふたりは貝の様子を見つつ休憩し、夜が明けるとさっそく動き出した。
すがすがしい朝日が木々に射しこむ。
沢の流れに沿って森をくだると、ほとりで水汲みをする女の姿があった。円角は杖を鳴らし近づいていく。
「よう、ここらの人だな。水辺になにか出るって聞いたんだが、おかしな物ごとを見聞きしてないか」
「なにかって、何です?」
若い女は、くだけた物言いの青年行者を警戒し、桶をきつく抱いた。
色が白く、ほっそり上品な瓜実顔。長い髪はしなやかに整い、質素な身なりながら小奇麗だ。京の風に毎日吹かれるとこうなるのかなと九良は思う。
「妖しものだよ。桶の水を朝っぱらから酒に変えたり、そんなような」
冗談めかす円角の態度も必要以上にやわらかく感じ、色黒のキツネは内心おもしろくない。黙って毛を逆立てていると、女が不審な目をむけてきた。
「あなたさま、本当に修行の身ですか。タヌキなんかお連れですけれど」
昨夜はネズミ、今朝はタヌキ。
散々な言われようの九良は、換毛期の痩せた身体をしぼませてつぶやいた。
「これでもキツネなんだよね」
「まあ失礼…… えっ、喋った!?」
女の顔が引きつったので、円角がすかさず裏声を発する。
「今のは俺なんだよね、こういう術で悪いものを治めるのさ。どうだ、水の怪に心あたりは?」
奇矯な行者から一刻もはやく離れたい女は、木々の深みを指して手短に説明した。
「あちらのずっと先、谷底の洞穴に、このあたりでも特に清い水があるそうです。さぞかしよいお酒ができるはずですが……」
「いわくがあって手を出せない、と?」
「ええ、水を求めて入った者は、二度と出てこられないとか。腕だめしをお望みなら行ってみてはいかが? きっと、霊泉をひとりじめするとてつもなく恐ろしい化け物に会えることでしょう」
不穏な言葉をあでやかな愛想笑いで締めくくると、女は足早に去っていった。
情報をつかみ、さっそく円角の腹が決まる。
「ここは二手にわかれよう。お前はさらなる噂を集めて、俺は霊泉の穴を見にいく」
九良は困ったふうに首をふる。
「ひとりで行くなんて危ないよ! 一緒に洞穴を確かめよう」
「なにも飛びこんで泳いだりしねえ、様子うかがいだ。それに見ろ、法螺貝も黒光りしてきた。俺たちには時間がない」
いつ破裂するとも知れない怨念を抱え、彼は真剣な面持ちだ。九良はまだ迷ってうろうろしていたが、円角がぐいっと背中を押し出した。
「ほらよ。疾風迅雷に頼むぜ、九良狐さま」
「わ、わかった。真昼になったら落ちあおうね、約束だよ」
彼女は小走りに人里を目指した。
円角についていきたいと思う一方、恐ろしい穴にむかわずに済み、心の中の一番弱い部分がホッとしている。うしろめたさにふり返ると、しゃっきりした背中が緑の影へ消えていくところだった。
──もしも何かが起こって、そのとき私がいなくても、円角だったら大丈夫。
九良は寂しくも納得し、脚を速めて陽ざしの下に出た。
顔をあげれば、明るい空を鳥の群れが渡っていく。たくさんの翼のはためきが昨夜のカラスとかさなり、酒飲み天狗の声がよみがえった。
「見返りを求め人間などに力を貸せば、厄介ごとの種になる」
といさめる彼に言い返せなかったのは、まさに心あたりがあったからだ。
本来属する場所でつまはじきにされ、外の者に拾われたせいで、九良は妖よりも人へ心を寄せがちだ。
円角に必要とされたい、認められたいという気持ちの奥底に、重たく濁った層がたゆたっていると自分でも感じていた。
それに、彼女の存在が面倒を引き起こしたこともある。
円角の草鞋の緒をついでもらおうと、町におりようとしていた時。彼のうしろに従って野を歩いていると、いきなり野太い声が飛んできた。
「きみ、イタチが憑いてるぞ!」
キツネです、
と訂正する間もなく、強い力が九良を薙ぎはらう。
シャンと聞き慣れた杖の音がしたので、それが行者の術であるとわかった。わかりながら彼女は数尺ほど吹き飛ばされた。
「つ、憑き物じゃなくてお付きのお供で……」
土まみれになって起きあがると、すでにふたりの行者が取っ組みあっているところだった。
「なにするんだ、悪いものを祓ってやったのに!」
大柄な男が叫び、円角は無言で相手の襟を締める。赤とんぼがぶんぶん煽る中、九良は情けない鳴き声をあげ必死で仲裁した。
どうにか話をつけられたが、親切な行者は苦々しく青年を諭した。
「ほどほどにしておけ。いくら小さく弱かろうが、妖と組むなど邪道の極みだぞ」
「ああそうかよ。いくぞ、九良」
不機嫌に歩き出す円角の足どりは、ややぎこちない。屈強な相手との一戦で草鞋は崩壊し、丸ごと買い換える羽目になった。
円角のこうむった不便は他にもあるし、先ほどだって、九良はつい人語を喋って女を驚かせてしまった。
京の野を駆ける拍子にあわせ、ふたつの忠告がぶつかる。
地面が平坦になり川が見えてきた。そばの里に植わった桜が白くかがやいて、九良は眼を奪われる。
昨日、円角もこれに気づいたかな。
そう思ったとたんひやりとした。
彼らの目にする桜は、真に等しいだろうか。
異なるものどうし同じ花を見ていると、彼女は当たり前のように信じていた。けれどそれは、とても欲ばりで見当はずれな願いなのかもしれない。
「いけない、集中して」
彼女は勢いよく頭をふり、考えを追い払った。消えた桜を取り戻し伏見に仕えることになれば、旅も葛藤も終わるのだから。
九良の脚は、人里を越えてもとまらなかった。
空の隅まで晴れた今日、人々の口に水辺の怪談はのぼらないような気がする。
円角への手土産にできるとしたら、梅の香る噂話ではないだろうか。
キツネは顔をあげ、道の先にかすむ建物の群れを見わたす。左右に果てしなく広がり、今まで通ってきたどんな町よりも大きい。不安と期待がせめぎあう。
しかし彼女は決めた。
ひとりきりだけど、行ってみよう。主から一日遅れ、生まれて初めて都の中へ…… そこにある道真公の庭、一対の謎のもう片方へ。
都はなにもかも洗練され、九良の眼を丸くひらかせた。
大小の路が碁盤のように土地を区切り、板や樹皮を葺いた家屋が身を寄せあう。
水がきらめく堀、忙しく行き交う人々。絶え間ないにぎわい、鈴の鳴るような音。重たげにきしむ荷車。誇りと活気が繁栄をいろどっていた。
華やかな春の日に、キツネは花の消えた庭を探す。
九良は明るい気配に背をむけて駆け出した。
屋敷のおおまかな場所は円角から聞いてある。さいわい誰かに見とがめられることもなく、道ばたの子どもたちに「あっ、猫!」と言われた程度で済んだ。
次第に土壁が間隔をあけ、立派な家屋にとってかわる。どの庭も花と緑が茂っており、焦った九良は首をめぐらせた。
「おかしいな、このへんだと思うんだけど……」
立ちどまり逡巡した、その時。
「こらっ犬め、そこに入るな!」
背後から声が飛び、狩衣姿の男が走ってきた。
見回りの役人だ。害をなす野犬は駆除の対象とあって、すかさず小弓をかまえる。
ちぢみあがった九良は、とっさに市の方へ身を返した。色とりどりの袴や裾のあいだを飛ぶようにぬい、相手の目をくらまそうとする。
だが、仕事熱心な役人は人ごみの中までも追ってきた。
「誰か、その犬をつかまえろ!」
人々が驚いて道を空け、別の役人が向かいから駆けてくる。はさみうちだ、九良の全身の血がザッと引いた。
脚がすくみ、鼓動が一拍とまる。
そこに不思議な音が入りこんだ。
細いものが空を打つ、低く強い音。硬直していた右耳がぴくりと反応する。
音はもう一度鳴り、それは、
「来い」
と聞こえた。
九良は夢中で通りを横切り、板の立てかけてある戸口へ飛びこんだ。
やや遅れて、息を切らした役人が同じ戸に半身を突っこんだ。
「おい、いま犬が入ってきたろう」
「いいえ。静かなものですよ」
薄暗い土間から老人が答える。
彼は細長い木枠の前に立ち、そこに糸のようなものを渡していた。弓の弦をつくっているのだ。
足もとには籠があり、縒った麻の束が積まれている。役人は疑り深く作業場を見まわしたが、追いついた仲間に肩をたたかれ、戸を離れた。
「あの家だと思ったが、見間違えたかな」
「さあ、誰かが蹴とばしたかもしれないぞ」
話し声が遠ざかっていき、町の気配に溶けた。
老人は何ごともなかったかのように作業をつづける。
背後で引っくりかえった籠がごそごそ動き、黒っぽいキツネが顔を出しても、彼はふりむかなかった。
九良はそっと這い出し、しわの多いしなびた横顔を見あげる。烏帽子の下の髪は灰色にくすんでいる。節くれだった指が糸をはじくと、先ほどの救いの音が鳴った。弦の張り具合を確かめていたのだ。
この人なら話を聞ける。
直感に押され、彼女はささやいた。
「東風、吹かば。においおこせよ梅の花」
道真が残したというあの歌だ。九良が上の句を唱えると、老人は作業をとめずにつぶやいた。
「主なしとて、春を忘るな」
きびきびした動きに反し、枯れ木のような声だ。キツネは背すじを伸ばして問いかけた。
「道真さまをごぞんじですか」
「みな知っているだろう。無常なことだ」
彼がむかいあうように位置を変え、九良はその目に白い膜がかかっていると気づく。
手もとの他はよく見えていないようだ。役人に追われてきた喋る犬を、どんなものだと思っているのだろう。
「翁さまは、あの方とお話ししたことがおありですか」
少しの間を作業にあて、老人は尋ね返した。
「お前はどこからきたのかね」
「大和より主の供をしてまいりました。京への道中、道真さまの苦境を耳にしてございます」
九良は慎重に答える。たとえ小さくとも嘘をつきたくはなかった。
誠実な思いが伝わったかのように、老人が口をひらいた。
「昔、弦をあつらえるよう頼まれた。よき音、よく鳴るものをと」
「よく鳴る?」
キツネの頭に、いつか円角から聞いた話が浮かぶ。高貴な人の暮らす土地には、弓の弦を鳴らす魔除けの術が根づいていると。
魔、妖しもの。怪異。
消えた二本の木。
遠くぼやけていた道真の姿が急に形をとる。
現在と過去の風が混ざり、九良は弓を持つ若い官人の姿を見た。両脇に立つ梅と桜。吹雪く花弁が隠すものは?
「……道真さまは、なにを相手にされたのでしょう」
九良は息をつめて問う。
しかし老人は首を横にふり、碗に糊を溶きはじめた。話は終わりらしかった。キツネはていねいに頭をさげ、戸口へ歩き出す。
前脚が日なたを踏んだ時、老人が言った。
「お屋敷の庭が欠けたそうだな」
九良がハッとふりむく。屋内の影は一段濃くなったようだった。老人の手もとから揺れる水の音がした。
「欠けてしまった。ぽっかり空いた、洞のごとくに」
彼の言葉は、円角がむかった洞穴を連想させた。
鬱蒼とした森。湧く水に湿る土。
青年は草葉に隠れた穴へ踏み入るが、その背中は信じられないほど小さく頼りない……
首すじの毛が針のように逆立ち、気がついたら九良は小屋を飛び出していた。びんと響く弦の音が最後に聞こえた。