三 酒びたる翼
円角の気概が雲を払ったのか、夜空は明るく晴れた。
満ちる月光は山の底まで射しこむ。草木をかきわけ進む青年に、不安げなキツネがまとわりつく。
「心あたりがあるんだよね? 梅と桜をほしがる誰かさん」
「いや、ない。だが、悪鬼でも変化でも、その筋に会えりゃ耳寄り話を聞けるだろう」
「コン……」
鳴き声ひとつ、立ちどまる九良。円角は手をかざし影のかさなりを見透かした。
「妙に静まってやがる。いつでも出てきてくれていいんだが、おーい化け物」
「あの、私まだ心の準備が、登場前にどうか合図を」
上下左右に首をむけた九良が、ぴたりと動きをとめた。
円角がのぞきこむ。
「どうした?」
「匂いがする。お酒とお花…… これ、桜だよ!」
一転して喜色を輝かせ、彼女は軽やかに駆け出した。
小高い峠へたどりつくころには、円角の鼻も闇に流れる酒の香を嗅ぎとることができた。
こんな時刻、こんな山中で花見の宴を張るなど、たとえ人間であっても只者ではない。未知の存在へむかっていく時、彼の胸は子供のように高鳴った。
伝わる高揚が九良を元気づける。
「ほら、もうすぐそこ」
彼女は茂みを跳びこえ、ひしめく木々を抜けた。
それと同時に円角は気配を感じた。正面から何かが迫ってくる、すばやく音もなく。
「九良、待て!」
突き出した杖の環がシャンと鳴り、余韻の上に影が舞い降りた。
山烏だ。
「おっと……」
闇の眼に射られ、彼は声をつまらせる。
森を一歩出たキツネも、すっかり硬直していた。
立ちはだかる大岩のふちにぎっしりとカラスが並んでいる。黒い数珠のように押し黙り、彼女と円角を見ていた。
芳醇な酒の香りは、平たい岩の上から漂ってくる。円角は杖にとまった一羽から視線をずらし、宴の主をとらえた。
一見して人らしき影。
肘枕をして横たわった輪郭は、おかしなことに円角とよく似ていた。黒っぽい上衣に羽織、あぐらを崩した袴の足に草鞋のようなものを履く。
しかし目を閉じたその顔は、人面のようでありながら下半分が突出し、大きなくちばしと化していた。
油断していた九良が息を飲む。
酔客は寝顔をしかめ、ごろりと背をむけた。すぼまっていた立派な翼がひらき、また閉じる。
円角は感心し、杖先のカラスへ声をかけた。
「お前の大将は天狗さまか。ちょっとばかり話をしたいんだが、起こしてくれないか?」
「おいらとしても望むところさ、見張りは疲れてしょうがない。けどね、うちの旦那は美酒に落ちると簡単には戻ってこないよ」
案外気さくに答えた黒い鳥は、カクッと首をかしげた。
「まあやってみればいいさ。ヘタに揺すると、荒れるよ」
「さようですか、おくつろぎのところ大変お邪魔いたしました。私たちこのへんでお暇するよね円角」
そろそろと茂みへ後退する九良。
円角は彼女をつかんで引き寄せ、身体にさげた法螺貝を指した。
「こいつはどうするつもりだ。桜を取り返して悪霊を封じないと、伏見の稲荷にでかいツラできねえだろうが」
「うう……」
「それに時間もないんだぜ。この貝、さっきからふるふる震えやがる。懐で破裂したら俺は取り殺されるかもしれない」
さすがにこわばった顔の彼を見て、キツネが飛びあがる。
「じゃあもっと急がなきゃ、どうして大事なこと言ってくれないの、情がうすいよ薄情だよ!」
「お前の心臓が引っくりかえっちゃ面倒だからだ!」
その時。
やかましく言いあっている背後で、バシッと宙を打つ音がした。
驚きふりむいたふたりの視界が、飛び立ったカラスの大群に覆われていく。黒い網が晴れた岩の上に、羽を広げた天狗がどっかり座っていた。
「陶酔去り、興は醒め。わしと論じようとはさぞかし大ごとなのだろうな、小童」
低い声はしわがれていたが強く通り、地鳴りを思わせた。黒い爪が筆の穂のような顎ひげをなで、人外の眼が月影をはじく。
キツネは今度こそ茂みに沈み、青年は進み出た。
天狗に会うのは初めてだったが、どういうものかは聞いている。空を自在に飛び、扇をあやつり風を起こす──
錫杖をつき一礼すると、異形の相手を臆さずに見据えた。
「一帯の主とお見受けする。むこうの方ではぐれ桜が消えちまったんだが、あれはあんたのものだったのか?」
天狗は人間を見おろし黙っていた。組んだ足のわきに盆があり、漆黒の酒器がにぶく光る。
九良がおっかなびっくり草むらを這い出し、円角の裾をひいた。
「ね、もうちょっと丁寧にお尋ねしたら……」
「よし代われ。ついでに美女に化けて機嫌をとれ」
「そっちの技量はないんだってば」
ひょいと押し出された獣を見て、天狗が声を高くした。
「なんだ、そなたキツネか? 育ちすぎた黒ネズミかと思うたわ」
「はいその、わたくし生まれは大和、行者円角の供・九良と申します。こんな刻限に失礼いたしますがつまびらかにお見せするほどの姿でもなく、夜中お会いできてとっても幸いだよね……」
しどろもどろの鼻先を芳香がくすぐる。意表をつかれた彼女は、頭に浮かんだ疑問を口にした。
「天狗さま。桜とお酒ではなくて、“桜のお酒” を召しあがっておられるのですか」
「ほう、嗅ぎわけたか。いっぱしの妖ということだな」
毛皮の裏までさぐるような視線をむけられ、九良はすくみあがる。
天狗は少し身を乗り出し、円角を無視してキツネだけにむきあった。
「酔いどれ烏から忠告しておこう。妖の力は、妖に与えられた天然のはたらき。見返りを求め人間などに貸せば、厄介ごとの種となるぞ」
思いがけなく厳しい言葉に、九良の胸がどきりと打つ。
うしろに立つ円角はおかまいなしで、騒々しく杖をふった。
「いま説教でごまかしたな? わかったぞ、あんたは俺たちの桜を通力で酒にしたんだ」
「ふん、絵空事ならもっとうまく描け」
天狗は小ばかにするような半目になった。が、背負った羽がぱたついたのを円角は見逃さない。
そういうことだ大将、あんたは風向きを変えたい。
青年は疑念をまなざしにおさめ、びしりと言った。
「道真公の梅酒、うまかったか」
「うぬ?」
「都の飛梅さわぎだよ。今朝、いやもう昨日か、夜が明けたら木が消えてた。おいしくいただいた本人が知らないはずない」
天狗はいっそう眼を細める。スッと地を這うように声が落ちた。
「このわしが人間の手垢のついた木を食らうように見えるか」
どうやら機嫌を損ねたようだ。迫力に押された九良がぺったり地面にへばりつく。
円角が言葉をつごうとすると、天狗は興味を失ったように杯を取りあげた。それをきっかけにカラスたちが舞い戻り、闖入者のあいだをわざとすり抜けていく。
「なんだ、話はまだ終わってねえぞ!」
円角がたまらず頭をかばうと、先ほどの一羽が通りすぎざま助言を投げた。
「これまで、これまで。あとは推し量るのさ」
「うるさい、言われなくても大将の裏を暴いてやる」
数えきれない羽に打たれ、くすぐったいやら痒いやら。青年は急いで相棒を抱えあげ、もときた森へ逃げこんだ。
「おう、勇ましい退陣だ」
晩酌を再開した天狗は声をあげて笑っていたが、静寂が戻ると表情を引き締めた。
じっと杯を見つめる。澄んだ酒に白い月が浮き、彼は思う。
なぜ共にあろうとする?
結局のところ、異なるものは衝突なしに混ざれない。交わらぬように堅く線を引いておく方が賢明というもの、何かを失ってからでは遅いのだ。
しかしあの行者とキツネは、行き方を見通すにはあまりに若く、目の前の謎を追っている。ただひたむきに。
その姿は、彼にとあるできごとを思い起こさせた。遠いが古びてはいない過去を。
「……多少、騒がしくなるやもしれん」
つぶやきはひとりごとではなかった。
揺れる月ごと杯を干す。幾分香りが濃くなったようだと仰ぎやる視線は、はるか南へむけられていた。