二 花を探る
京の朝廷について知見を持たない円角たちだったが、その名前は道中自然と聞かれた。
菅原道真。
優れた文筆家、学者にして詩歌の名人であり、右大臣にまで上りつめた有能な官人。だが今年の初月、彼の肩書きが突如奪われた。
みずからの地位向上をもくろんだ道真が、帝の廃立をくわだてた──
そのような申し立てが湧き、すでに初老にある彼は遠い任地へ送られてしまった。内海を越えて筑紫は大宰府へ、明白なる左遷である。
はばかりつつも噂する人々は、ほとんどが道真の無実を信じていた。
「根っからの善人か。だからこそ疎まれたんだな」
「誰も助けられなかったの? 気の毒だね……」
円角と九良はそう話し、道真と入れ替わるように京へやってきた。
そして、左遷騒動からふた月ほどたった、まさに今朝。洛中で新たな騒ぎが起こっていた。
道真の屋敷から、一本の梅の木が消えたのだ。
「道真公の梅と同じ、だと?」
狢から思いがけない情報を得た円角は、薄い顔をほんのりしかめた。錫杖をトントン突き、先端の環を鳴らす。
「元右大臣の庭とこんな山奥と、つながりがあるってのか。九良、どう思う」
「いくら京だからって、そんなにしょっちゅう木は消えないよね。道真さまの梅、関係あるんじゃないかな」
「おうそうか。そういうことなら」
円角は手際よく法螺貝をはずし、キツネに差しだした。きょとんと見あげてくる相棒を諭す。
「いくら俺でも、悪霊つれてちゃ都に入れねえ。偵察してくるから、ここで貝を守ってろ」
九良は法螺貝を見つめる。巻きこんだ隙間から「ぐおぉ」と邪悪なうめき声がもれた。
「……ひとりで、お守り?」
「寂しけりゃ狢と茶でも飲め。じゃ、後で」
方針が決まれば迅速が吉。彼はくるりと背を返し、さっさか山をおりていった。
九良は獣ながら小心小胆。
円角といれば勇気が湧くが、離れれば反動で不安に振れる。邪悪な貝との留守番に耐えるため、彼女は回想に集中した。
大和の広い野辺を思い出す。もう初夏になろうかという頃合で、強い陽が山川を輝かせていた。
はじまりの記憶は、
「キツネが鹿の餌になるなよ」
という低い声と、首すじをつかんできた力強い手の感触だった。
視界を埋めていた仔鹿たちが引っこんでいく。
のぞいた青空の一端に人間の顔が映り、それが修行中の円角だった。
いたずら好きな包囲網から助け出された彼女は、濡れた頬を恥ずかしく思いながら頭をさげた。
「ありがとうございました。このご恩は、いつかかならずお返しを」
「いま返せ」
「えっ」
「恩を」
すぐに、ここで。
キツネは一瞬身がまえたが、頼まれたのは簡単な手伝いだった。ある民家の軒先に、柏の葉でくるんだ包みを置いてくるだけ。
こっそりやるのかと思いきや、円角は妙なことを言った。
「なるべく足跡を残して、音も立ててこい。壁を蹴っとばしたっていい」
それからついでのように尋ねる。
「お前、名前は?」
「くらと呼ばれています。色が暗いので」
律儀につけたしてから、見ればわかる言うまでもなかった、とひとりであせりうつむいた。
青年は無造作な手つきでキツネの背をこする。なでられたのだと理解して顔をあげると、鼻先にこんもりした包みが突きつけられた。柏の葉の下から懐かしい陽ざしのような香りがした。
どうしても気になった彼女は、使命を果たしてから聞いてみた。
「あの、あれはどういうことだったんでしょうか」
青年はすたすた歩きながら答える。
「あそこのガキとは馴染みでな、ここんとこ母親が伏せってる。俺の師匠に聞くと、手近な生薬で効きそうなもんがあったんだが……」
肝心の本人が、薬ぎらいだった。心配が過ぎて服用を怖がるのだという。
円角が自分の頭をたたく。
「考えたくなくても考えちまうわけだ。すすめられるままによくわからないものを身体にいれたら、もっと悪くなるんじゃないかってね」
「それは、他の人を信じられないと?」
「そういうこと。それじゃあ引っくりかえして、人でないものが運んできた薬なら素直に受けとれるかもしれない。そう思ってたとこにお前がつかまって、めでたしめでたしだ」
彼は、足もとにまとわりつくキツネをちらっと見おろした。
「策をめぐらせるのは楽しいだろう?」
表現はやや悪人じみていたものの、心は伝わった。キツネは「はい!」と声を高くする。
「気があうな」
相手がかすかに笑ったので、彼女はすっかり嬉しくなり、山の中腹の修行場までくっついていった。円角は「じゃあな」とも言わず小屋に入ったが、「帰れ」とも言わなかった。
だからキツネは近くの茂みに腰をおろし、ずっとそこにいた。
翌朝、旅装を整えた円角が山をおりていくのを追いかけ、追い払われなかったのでずっとついていった。
青年はしばらく黙って歩いていたが、ふいに言った。
「九つの良きこと」
「えっ、なんですか」
「お前に字をやるよ。九の良し、で九良だ」
彼女は新しい眼がひらいたような気持ちで聞き返す。
「私にいいことが起こるの、そんなにたくさん?」
「九つじゃ足りないかもしれねえな」
そっけなく返す円角に後光が射し、九良は彼の旅を助けようと決心する。
だがこの時、小心のキツネはまだ知らなかった。
行者がおさめる本当の修行とは、薬のおつかいではなく、数々の怪異に立ちむかってゆく危険なものであることを。
それから幾たびの失神気絶を乗り越え、現在の彼女がある。
思い返せば、私もちょっとは強くなったよね。
九良は息をつき、
「あなたも疲れたでしょう。いい子にしてね」
と、茂みに隠した法螺貝に寄り添った。
落ちつきを取り戻すと、心配は現在の円角へむけられた。
彼は生まれて初めて京の都に侵入している。
はたして大丈夫だろうか。問いつめられてぞんざいな経をあげ、不審な野良行者として拘束されていないだろうか。
それとも、売られたケンカを買って悪党を大路に転がし、通りかかった貴族に気に入られて召し抱えられてしまったら? ぬばたまの髪もつやめく美しい姫君と嘘みたいな恋に落ちてしまったら……
「そ、そんなのだめ!」
青ざめた黒っぽいキツネの叫びが、虚しく森に響く。
思いも寄らないことはいくらでもある。少し運命が傾けば二度と会えなくなってしまうのだ、と自然の静寂が応えた。
飛躍しつづける懸念をよそに、円角は日没前に戻ってきた。九良はうしろ脚で伸びあがり彼をつかまえた。
「ああよかった、もとの円角だね、烏帽子かぶってないね。お公家さんにならないでくれた!」
とんちんかんな彼女を脇にのけた円角の第一声は、
「木が飛んでたまるか」
九良がまじまじ見あげると、彼は眉間にしわを立てていた。
「都のやつら、梅が大宰府まで飛んだって信じてる。筑紫だぜ。海の先だぜ。道真公を追いかけていったって、そんな話あるかよ?」
それはとても真剣な抗議の文句だった。
同意を求める彼の目は切実にひらき、呆気にとられたキツネが小さく映りこんでいる。
空はとっぷり暮れ、ふたりは山肌のくぼみに宿をとった。
円角が焚き火をつつき話し出す。
「見回りがいたが、なんとか庭を見られた。寂しいもんだったよ。もとは色んな木があったそうだが、松に桜に……」
「えっ、桜!」
ひゅっと背を伸ばしたキツネを、円角が片手で落ちつけた。
「植えてあったが、今はなにもねえんだ。道長公が屋敷を発つと次々枯れて、みんな切っちまったそうだ。最後まで耐えていたのが、件の梅らしい」
生き残れたのは、道真が贈った歌のおかげだろうという話だった。彼は教わった和歌を口ずさむ。
こちふかば、においおこせよ──
九良は細い顔をかしげてそれを聞く。
いつもながら円角の表情は大きく動かない。一体どんな心で歌をたどっているのか、瞳に映る火が思いをかたどってくれたらいいのだが。
暗誦が終わると、円角は人が切りかわったように座りなおし、納得いかない様子で茸をかじった。
「そんなこともあって、ついに梅が飛んだんだとさ。出立からほぼふた月、道真公が大宰府に到着した頃合だからってな」
「そのキノコ生焼けだよ。主会いたさに木が飛ぶなんて、すてきなお話じゃないかな」
「いや、俺はつっこんだ。そんなわけあるか誰ひとり目撃しちゃいないだろ。
そしたら市場の商人め、“行者のくせに健気な草木の情を軽んじるのか、騙りではなかろうな” なんて言いやがった。なに入ってようが法螺貝持ってきゃよかった」
九良の心配は当たらずも遠からずだったらしい。彼女はなだめるように言う。
「でもね、私たちもびっくりすることたくさん見てきたよね。岩に人面が浮いたり、あばら屋が鳴いたり。この世はなんだって起こりうる、そうじゃない?」
「だが、木が移動するってのは欠片も聞いたことないぜ。ちょっとそこまでどころか海を越えるって、無茶いうなよ」
彼は立てた膝の上で頬づえをつき、口をかたく結んだ。
常日ごろ粗雑で適当な男だが、時おり思い出したように生真面目になる。その度に九良は感心するか困るかで、今夜は後者。
頑固になった彼を説得するには、筋の立った理が必要だ。彼女は獣の頭をはたらかせた。
「あのね、とりあえず、梅がどこかに動いたことにしてみよう」
「根っこぶらさげてか? 格好つかねえな」
「見栄えはいいから。実際に空を飛んだとしたら、道に葉っぱや土が降るよね。そういう跡はなかったの?」
円角はちょっと落ちついて考え、首を横にふった。
「跡がないといえば、梅が生えてた場所は、もとからなにもなかったみたいに平らだった。俺たちの桜もそうだったな」
「やっぱり、ふたつは同じ怪異」
九良が思案に眼を細め、パッと顔をあげた。
「山奥の桜と、主から歌をもらった梅。どちらも特別な霊力を蓄えていたとしたら、ほしがるのは私たちだけじゃないかも……」
青年がはたと膝を打つ。
「人ならざるもの、強い妖が奪ったわけか。いかにもありそうだ、そいつを探そう!」
彼は目を輝かせ、乱れた束髪を結びなおした。いきなりのせわしない動作に、九良はぎょっと身を引く。
「今から行かないよね? もう夜ふけだよ、早起きしたらいいよ」
「それじゃお前は寝てろ」
あっさり返した円角は、杖を手に洞を這い出していく。
無尽蔵の体力は彼の誇るところ。これのおかげで故郷では畑を耕しすぎ、大事な作物を弱らせた。
身内からも厄介者あつかいされていた少年は、
“修行ってのはものすごく歩くらしい。つまり俺は畑より行者にむいている”
と前向きに(都合よく)解釈してこの道に入ったのだった。
夜の森に踏み出した彼を、キツネの悲鳴が追いかける。
「待って待って、お願い!」
九良は焚き火に土をかぶせ、闇の森へ飛び出した。真夜中ひとりぼっちの留守番より、くたびれて尻尾がすりきれる方がずっとましだ。