一 梅も桜も
春の京は花のさかり。咲き香る色が陽気に溶け、洛中の小路をかすませる。
誰しも心も浮き立つこの頃だが、ある屋敷は季節を失っていた。
大きくかまえた貴人の住まい。しかし広い庭には一本の木もなく、垣の草だけが寒々と茂る。
そばを通る者は遠慮がちに視線を送るか、痛ましげに目を伏せるばかりだ。
彼らはやがて大通りに行きつく。そして、うららかな町のせわしない往来にまぎれ、伝え聞いた歌を口にした。あるいは口ずさむまでもなく、にぎわいの中にその歌を聞くことができた。
東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花
主なしとて 春を忘るな
「忘れるなって言っただろう、九良!」
切羽詰まった声が山中にこだまする。打てば響く鼓のように甲高い返事があった。
「忘れてないよ、絶対このへん。桜はここにあったよ」
と、困り顔のキツネが茂みから跳びあがる。
背後の木々をぬって若い男が現れた。
質素な上衣に羽織、脛を絞った袴。各地を修行してまわる行者だ。こちらは両腕に力をこめて錫杖をかつぎ、一歩一歩が錆びたように重い。
それもそのはず、杖の先端にどす黒い人魂がとらえられており、どうにかして彼の術から逃れようとしていた。
踏みしめた足場がじりじり滑り、青年は冷や汗を流す。
基礎の修行を終え、さらなる研鑽の旅に出て一年足らず。京の近くまできたからといって張りきりすぎたかもしれない。
彼は、まだきょろきょろしているキツネへ顔をむけた。
「桜は一旦やめだ。法螺貝とってくれ」
九良はいっそうあわてだす。
「仮封じ? また貝が割れちゃうよ、京でお安く手に入るかな。円角はあんまり普通の行者さんらしくないし、法螺貝さげてないと何の人だか怪しまれるってこともあるよね」
「俺の本体はホラだと言いたいのか? いいから早く前脚を貸……」
ここで悪霊がめちゃくちゃに暴れ出し、荒っぽく引きあげられた円角の足が地面を離れた。
「あっ、だめ!」
九良が間一髪で彼に飛びつく。
綱におさまる貝を口ではずすと、身を返しざま高く蹴りあげた。空中の円角が待ってましたとばかりに呪言をとなえる。
杖の先の人魂が薄墨のようにほどけ、そのむこうに貝が弧を描いた。
頂点に達し、滞空し、影の中心とぴったりかさなる。
すかさずくり出された錫杖が霧を突いた。わっ、と梢が波立った一瞬のち、霊は法螺貝の中へ吸いこまれていった。
円角は杖を大きくまわして着地した。
「さて、急場はしのいだ」
立ち回りのわりにあっさり言を締め、前にかぶさった束髪をうっとうしそうにはねのける。
特徴に乏しい面がまえをしているが、泰然とした表情からしたたかな性根がうかがえる。キツネの言ったとおり、修行にはげむ身としてはやや俗世に傾いているようだ。
悪霊入り法螺貝は、くるっと身を丸めた九良が器用に受けとめた。つぶらな瞳で円角を見あげ、ホッと息をつく。
「よかった、うまくいったよね」
「なに言ってんだ、ここからだぞ。仮の器じゃ三日ともたねえ、封印に耐える依り代を探さないと…… あの桜の木、うってつけだったんだが」
貝を綱に戻し、首をめぐらせる。
落ちついてみると、盛りあがった石の形に覚えがあった。
すぐ横に立派な桜の木が生えていたのだが、ふっさりたたえた淡い花ごと、忽然と消えていた。
ともかく彼は手を伸ばし、相棒の背をたたいた。
「確かにこの場所だ。お前が正しかった」
言葉は素直なようでいて調子は平坦、笑顔もない。
円角があらわす感情は、だいたい薄い。
それが彼にとっての自然な態度なのだと理解するまで、九良ははらはらしながら供をつとめてきた。
初めのころなど、しょっちゅうこんなやりとりをした。
「円角、怒ってる?」
「いや」
「円角怒ってる……」
「いいや。怒られたくなければ信じて黙れ」
それなりの経験をつみ、今では軽口だって投げられる。キツネは節をつけて言う。
「さよう、桜は昨日此方に。私、大和にいたころより役に立つようになったでしょう」
「まあそんなとこだ。最初に会った時は鹿にどつかれて泣いてたもんな」
「それは忘れてほしいってお願いしたよね……」
恨めしげに上目をつかう彼女。衣替えの時期で尻尾が痩せているのを割り引いても、キツネとしてはちょっとした異相だった。
毛並みはつややかだが輝く金色とはいかず、陽の下に出ても影がかかったように暗い。
故郷の狐狸界隈になじめなかったのも、気弱な性分を奇異な毛色が後押ししたせいだ。偶然に円角と出会い、供になれたのは、まったく幸運だった。
九良は、桜があったはずの草むらをかきわけてみる。
大きな穴や掘り返された跡はない。ただ、しっとりと丸みのある花びらがあちこちにかさなっており、木を離れてもかすかに香っていた。
キツネの目じりが情けなくさがる。
「ううん、どこに行っちゃったのかな。とってもきれいに咲いて、あれなら霊だって浄化できたのにね」
「さては、踏み台にされるのを嫌って高飛びしたな。勘づかれないように気を配ればよかった」
円角が腕組みし、行儀悪く舌打ちした。
踏み台というのは出世の足がかりのことだ。といって、彼自身がどうこうしたいのではない。
ねらっているのは、気弱な相棒の成りあがりだった。
昨年の初夏に出会い、大和から旅を始めたふたり。
道草まじりにぶらぶら進み、寒い冬も歩き越え、京に近づいたころ。円角がこんなことを言い出した。
「伏見のお稲荷さんってのがキツネの総本山だろう? だったら、俺がお前を売りこんでやるよ」
「えっ! 売りこむって、それって」
不意うちをくらった九良は、雪どけ水のそそぐ川のほとりで絶句した。円角は小石で水切りをしながら平然と答える。
「ああ、これにおわすは霊験あらたかな九良狐さま、って具合にな。どうだ、神の使いになって貢ぎ物をしこたませしめて、毎日いい思いができるぜ」
ふりむいた彼は珍しく濃い笑みを見せたが、そこには儲け話を持ちかけるゴロツキの風が吹いていた。
困惑する九良をよそに、すっかりその気になった円角。“京の山里で湧水が濁る” という噂を小耳にはさんだことが決定打となった。
「よし、俺たちで怪異を治めよう。この辺でちょっと実をあげれば、あとは盛りゃあいい。伏見は近いぞ、九良」
「う、うん」
気圧されてうなずいた彼女は、困惑をおさえて考えた。
円角は、私の将来を真剣に思ってくれている。この人が望むなら、私は京を旅の終わりにしよう。
ということで彼の補佐に精を出し、先ほど悪霊をつかまえたのだが、頼みの綱の桜が消えてしまった。
円角が杖を持ちあげ、ぐるりと森を指す。
「他に使えそうな木もなし。このへんの桜はあいつだけか」
みごとな花房を冠とし、幹はしなやかに太く、美しい木だった。十年、二十年、おそらくもっと長い時を、山奥で人知れずすごしてきたのだろうが……
九良が寝起きのようにまばたきをする。
「本当だ、一本きりだったんだね。いわれてみると不思議だなあ」
「縄張りがでかいわりに器量の小さい木だ。さっさと戻ってこい、うろつくのは行者だけで充分だ」
勝手な愚痴を聞きつけたのか、草むらに一匹の狢が顔を出した。
「あっ、待って。お話聞かせてくださいな」
九良が歩み寄り、鼻先を近づける。
獣の言葉を解さない円角はじっと見守った。そのうち狢がのっそり立ち去り、彼は身を乗り出した。
「で、なんだって? 桜かついでずらかる熊の背中でも見たか」
九良は狢の消えた方を眺めたまま答える。
「私、ここにあった桜を知りませんか、って聞いたの」
「それで?」
ふりむいたキツネは、化かされたような顔をしていた。
「“木が消えたんなら、道真公の梅とおんなじだね” って」