【コミカライズ】女神様がやっちまいなとの思し召しです
2022年2月13日ジャンル別日間ランキング1位になりました。ありがとうございます。
メイリン・アルス伯爵令嬢。
彼女は、グラノア王国では有名人だ。
いつも薄汚れ、燻んだ灰色の髪と灰色の瞳の、青白い顔をした痩せギスの令嬢。使用人を下賎だと罵り、触れられるのも穢らわしいと近づけないため、髪や肌は手入れをされず荒れ放題。神経質で癇癪持ち。身分を鼻にかけ、気位が高い、変人。
メイリンの母は彼女が幼い時に亡くなり、アルス伯爵は遠縁の男爵家の未亡人、ミリヤと再婚した。メイリンは後妻と、後妻の連れ子で一つ下の義妹、ユーミアを敵視し、数々の嫌がらせを行ってきた。後にアルス伯爵とミリヤ夫人の間に生まれた嫡男、レイドにも虐めを繰り返し、時には大怪我をさせる事もあった。
彼女がグラノア王国の貴族令息、令嬢が通う学園に進学した時の評判も酷いものだった。アルス伯爵夫妻が夜会でメイリンの気難しさや底意地の悪さ、妹弟への仕打ちを嘆いていたため、親を通してそれを知った子息や令嬢達は誰も彼女に近寄ることは無かった。平民の生徒達は、身分が卑しいと虐められるかもと怯えていたが、メイリンは学園を休みがちで、偶に登校しても教室内でひっそりと大人しく過ごしていることが多く、誰とも関わろうとしなかったので被害はなかった。
しかしそれも、メイリンの妹ユーミアが入学するまでだった。メイリンは学園内でも義妹に陰湿な嫌がらせを行った。それは家にいる時よりも苛烈になっていた。ユーミアが学園入学時に受けた魔力適性の検査で、聖魔力がある事が分かり、聖女として国から保護をされる立場になった事も、王太子に見染められ、婚約者となった事も、メイリンには気に食わなかったようだ。
「メイリン・アルス!お前の悪行は明白だ!国の認める聖女であり、私の婚約者を害した罪は重い!お前を国外追放に処する!」
学園の集会の最中、最高学年であり、生徒会長を務める王太子カイゼン・グラノアが、壇上から宣言した。輝く金髪と煌めく青眼の美貌にいつもの穏やかさはなく、怒りで僅かに紅潮していた。カイゼンの傍らにはメイリンの妹ユーミアが、可憐な身体をカイゼンに寄せていた。淡い金髪と潤んだ緑の瞳は、保護欲を駆り立てる儚さがあった。
ザワザワと騒がしくなる生徒達が、自然とメイリンの側から離れたため、彼女の周りはぽかりと誰もいなくなった。壇上から見ると、メイリンはまるで舞台上の役者の様に綺麗に浮かび上がって見えた。
「悪行…?私、身に覚えはありません」
しゃがれた耳障りな声が、震える様に零れ落ちる。メイリンは表情の乏しい顔を真っ直ぐに王太子に向けているが、その目は何も映していないように虚ろだった。
「惚けても無駄だ!お前は家でも学園でも、絶えずユーミアを罵り、持ち物を奪ったり壊したり、挙句に暴力まで振るっているそうではないかっ!ユーミアだけでなくまだ幼い弟まで甚振り、大怪我をさせた事もあるそうだな!恥を知れっ!」
王太子の叱責に、周囲から侮蔑と悪意のこもった視線が向けられる。あの可憐なユーミアや、幼い弟を虐げるなど、淑女にあるまじき振る舞いだ。良識を疑われる。
「私の妃となるユーミアを虐げる事は、王家に歯向かうということだ!これは反逆罪にもあたるぞ。あぁ、発言は赦さない。この場はお前の見苦しい言い訳を聞く場ではない!お前への裁可は、国王やお前の父親も既に認めたことだ!騎士よ、この悪女を連れて行けっ!」
カイゼンの命を受け、騎士がメイリンに駆け寄り、その両腕を乱暴に捉えた。
「国境まで連れて行き、捨て置け!魔物に喰われても構わん」
冷たく言い捨てるカイゼンに、ユーミアが哀しげな顔で縋り付いて涙を流した。あれだけ虐げられても、義姉を思いやり涙を流すユーミアに生徒達は心を打たれた。心優しいユーミアは本心ではメイリンの減刑を願いたいのだろう。しかし王が下した裁可に、王太子の婚約者という立場で、逆らうことは出来ないのだ。
「お姉さま、どうか、お元気で…」
騎士達に引き摺られるように連れて行かれるメイリンの背に、ユーミアの悲しげな声が届いたが、メイリンは一言も発することはなかった。
◇◇◇
カイゼンは目の前に座る女の姿に、ただ呆然としていた。
「お久しぶりでございます」
輝き流れる美しい銀の髪、長いまつ毛に縁取られた銀の瞳はしっとりと濡れ、不思議な輝きを放っている。最高位の聖女のみ着ることが許された純白に薄青のローブは、女の清廉さと美しさを引き立て、その魅力を存分に引き出していた。
「ほ、本当にメイリン・アルスなのか…?」
穏やかな笑みを浮かべるその女に、信じられず問えば、女はコロコロと鈴のような声で笑った。カイゼンがグラノア王国でメイリンを最後に見た時は、こんなに美しく神秘的な女ではなかった。薄汚れ、やせ細り、髪も肌もガサガサな、老婆の様な醜さだった。
「ええ。間違いなく貴方様がご存じのメイリン・アルスでございます。アルス伯爵家の籍はとっくに抜けておりますから、今はただのメイリンでございますが」
「もうすぐ私の妃となって、メイリン・クロッカスになる」
メイリンの傍に座る黒髪、碧眼の凄みのある美貌の男、ジュード・クロッカスは不機嫌な様子も隠さずに強く言い切る。戦場での鬼神の様な強さから、黒き獅子の異名をとるクロッカス王国の王太子は、直前までこの面談を反対していた。
「ジュード様。そんなに怒らないで下さいませ」
メイリンは困ったようにジュードを宥めるが、ジュードはカイゼンを睨むのをやめない。
「お前を魔物に喰わせようとした男に、愛想良くなど出来るものか。コイツもコイツだ。国外追放までした相手に縋ろうなどと…、矜持というものはないのか」
「ジュード様。外面が剥がれていらっしゃいますよ」
外交などする気もないジュードに呆れ、メイリンは咎めたが無駄だと分かっていた。婚約者を溺愛しているジュードは、メイリンを害する者に容赦ない。それは隣国の王太子が相手だろうと、変わらないのだ。
カイゼンは一瞬、怒りでピクリと眉を動かしたが、ギュッと拳を握ってそれを押さえ込んだ。自分は何のためにここにいるのかを思い出す。今はこちらが下手に出ねばならない立場だった。
「し、失礼な事を申し上げた。謝罪しよう。…改めて、聖女メイリン様に、我が国への助力を願う」
カイゼンが訪れたこの場所は、隣国クロッカス王国の大教会だった。女神シリスを祀るこの大教会に、メイリンは最高位の聖女として在籍している。桁外れの聖魔力を持つ彼女は、魔物の瘴気により、空気や土が汚染されたクロッカス王国を瞬く間に浄化した。この功績により、国民からは救国の聖女と崇拝されており、王太子ジュードの心を射止め、王太子妃として内定している。いや、心を射止めたとは控えめ過ぎる表現だ。メイリンに惚れ込んだジュードが強引にメイリンを囲い込み、口説き落としたと言った方が正しい。
「それにしても、私の様な罪人に、王太子殿下ともあろう方がどの様な助力をお求めなのでしょうか?」
そうメイリンは問うたが、答えは分かっていた。グラノア王国にも、かつてのクロッカス王国の様に魔物の瘴気による汚染が進んでいるのだ。
あの断罪から2年が経っていた。この2年の間に、清浄な空気で満たされていたグラノア王国は瘴気にまみれ、反対にクロッカス王国が瘴気から免れつつある。
前王妃であり、カイゼンの祖母でもあった、グラノア王国の聖女が亡くなったのだ。聖女は定期的に国の浄化を行うが、前聖女は高齢で寝付いていたのもあって、近年は浄化を行えずにいた。それが瘴気を溜めることになり、魔物が活発化して、今では一刻も争う事態になっていた。
「………我が国の浄化を願う」
カイゼンにとって、メイリンは最愛の妻であり王太子妃であるユーミアを虐げた、許し難い悪女だ。国の為とはいえ、この女に頭を下げるなど屈辱的だった。だが、そんな事を言っていられないぐらい、国の汚染は進んでいる。
「そちらの王太子妃は確か聖女の認定を受けたのではなかったか?我が国の聖女に助力を願う前に、そちらの聖女が浄化を行えば良いではないか」
我が国の、という言葉にやけに力を入れて、ジュードは至極尤もな事を言った。確かに、ユーミアは学園の入学時に聖なる力が確認され、聖女と持て囃されていた。
「左様でございますわね。私はこの国の大教会にお認めいただいた聖女。同じく女神シリスを祀るグラノア王国の大教会がお認めになった聖女様が国の浄化を行うのが道理です」
メイリンが着の身着のまま追放された時、何の見返りも求めず受け入れてくれたのはクロッカス王国の大教会だ。国境から数日間、飲まず食わずで歩き続け、教会の前で崩れ落ちる様に倒れたメイリンに手を差し伸べ、メイリンの素性を隣国から放逐された評判の悪い令嬢だと薄らと察しながらも、温かく迎え入れ、介抱してくれた。その大教会の温かさと優しさに、メイリンは救われた。メイリンが幸いにも聖女の力があると分かった時、彼女は迷わず教会のために力を尽くす事を選んだ。教会に乞われるまま、苦しむ民のためにクロッカス王国を浄化した。
「私の妃は、子を産んだばかりだ。無理はさせられぬ」
ユーミアは数ヶ月前、第一子である男の子を産んだばかり。産後の経過は順調だが、大事にしてやりたかった。
「はっ!だから危険な仕事は俺の妃に押し付けたいと言うわけか、都合の良い話だな」
ジュードは立ち上がり、メイリンをその腕に抱き寄せる。
「俺も、俺の妃が何よりも大事なんでな。なにせ、か弱い女を一人、魔物や盗賊が頻発する国境に身一つで放逐する様な恐ろしい国だ。そんな所に大事な妃を赴かせるなど、俺には出来ん」
こちらに当て擦るような言い方に、カイゼンは苛立った。そもそも放逐されたのは、メイリンが悪事を働いたからだ。しかしその反論はできない。メイリンを罪人だと断じれば、そんな女に助命をしたグラノア王国の品位に関わる事だ。そこは知らぬ振りをして、あくまで隣国の聖女に助命を請う形を貫かなくてはならないのだ。
「ジュード様。その様な事仰らないでくださいませ。私、教会からの聖女に対する願いは、断らぬ事にしているのです」
メイリンの元には、隣国の教会から、こちらの教会に要請があった。
「それに、国王様より助力に関して受け入れる様、宣下があったではありませんか」
子どもの我儘を咎める様に、メイリンはジュードの艶やかな髪を撫でた。王太子ジュードには、父親である国王から、隣国へ助力するよう命が下っていた。隣国へはメイリンの後見人かつ護衛の責任者として、ジュードも一緒に赴く。王太子であるジュードが直々にそのような役割を担うとは、いかにメイリンが隣国で重要視されているかが分かる。
「…分かっている。グラノア王国との関係を拗れさせたいわけではないからな。ただなぁ…。単純にハイハイと聖女としての役目を引き受けていては、グラノア王国はお前がかつての罪を償いたいがために、聖女として働くなどと曲解するかもしれんだろう?お前が瘴気を払ったとしても、感謝どころか働いて当然などと思うかもしれんぞ?」
カイゼンはドキリと胸が鳴った。正に、彼が考えていた事を言い当てられたからだ。
「はっ、やはりな。グラノア王国の王太子殿は随分と表情が分かり易くていらっしゃる」
嘲る様なジュードに、カイゼンは奥歯を噛み締めた。
メイリンはというと、何やら考え込んでいたが、何か良い事を思いついたのか、晴れやかな顔をしている。
「そうですわねぇ。では、こういう趣向は如何でしょうか?」
◇◇◇
クロッカス王国の聖女一行は、グラノア王国の王宮ではなく、女神シリスを祀る大教会に滞在する事になった。同行するのがクロッカス王国の王太子ジュードと聞いて、王宮への滞在を薦めてはみたものの、ジュードは頑として譲らなかった。
「万が一にもメイリンを害す可能性がある者たちが鎮座している場所に、わざわざ行く阿呆がおるものか。俺への気遣いなど無用だ。討伐の際は野宿もしているし、屋根があるだけで十分だ。俺と聖女の身の回りの世話は、同行した我が国の神官と、巫女、侍従や侍女が行う。我らに構う必要はない」
そう言い切って、強引に大教会への滞在を決めてしまった。
同行したクロッカス王国の神官たちは苦笑していたが、ジュードの溺愛は周知の事実なので、特に反発もなかった。
グラノア王国の大教会は、メイリンがよく知るクロッカス王国の大教会とは大きく様相が違った。聖女であるメイリンに対して丁寧に接してくれてはいるが、一線を引いた様な、ヨソヨソしい態度が見え隠れする。それは、この国の王太子と王太子妃の物語の様な恋が貴族や庶民に浸透しており、メイリンがその物語で王太子妃を虐げた恐ろしい悪女として知られているからだろう。
「ではカイゼン殿下。こちらが一つ目の問題です」
メイリンが白いカードをカイゼンに手渡した。女神シリスの紋様が刻印されたそれを、カイゼンは緊張しながら受け取る。
「こちらの質問への答えが分かりましたら、お答えくださいませ。正解でしたら、最初の都市の浄化を致します」
メイリンはあの日、グラノア王国の浄化に拗ねまくるジュードを慮って、カイゼンに対し、風変わりな提案をした。
「グラノア王国の浄化が必要な都市は5つ。全ての浄化が済めば、暫くは瘴気の心配はないでしょう」
メイリンは美しい指を5本ピンと立てて、一つ一つ折っていく。
「私はカイゼン殿下に5つの質問を致します。その答えが正しければ、正解する度に都市の浄化を致しましょう」
「ふうん…?間違えたらどうするんだ?浄化は止めるのか?」
ジュードが興味を惹かれた様にメイリンに問うと、艶やかな笑みが返ってきた。
「いいえ?正解するまでカイゼン殿下には頑張っていただきますわ。勿論、不正がない様に、正解については真実の判定を両国の神官にしていただきますわ。それならカイゼン殿下も御安心でしょう?」
真実の判定とは、その者が述べた事に嘘がないか女神シリスに問うものだ。偽りを述べれば、女神からの神罰の炎に焼かれる。大抵は、紙に質問への答えを書き、それが正しいと宣言して魔力を込め、神官が真実の判定の魔術陣の上に置く。偽りがあれば紙は燃え上がり、正しければ女神シリスの祝福の光が灯る。
「真実の判定を行えば、全ての国民に知らしめる義務がある」
カイゼンの顔には、何故そんな事をする必要があるのかと書いてあった。ジュードの言う通り、表情が読み易い。
「クロッカス王国にも同じ義務がございますわ。グラノア王国と我が国の神官が一緒に真実の判定を行うので、同じ内容を両国に公表する事になりますわね」
つまり、メイリンがカイゼンに出す5つの質問とその答えは、グラノア王国、クロッカス王国の両国に知れ渡ると言うことである。
「私が質問に答えられないのを、嘲笑う気か?」
怒気を滲ませるカイゼンに、メイリンは首を振った。
「いいえ?質問はそれ程難しいものではありませんわ。間違えても何度でも回答出来ますし、答えは調べればすぐに分かる事です」
暫く逡巡した後、カイゼンは警戒しながらも頷いた。
それが、その後の彼の命運を決める事になるとも知らずに。
◇◇◇
「質問その一。グラノア王国の浄化を行うのは誰か。その者のフルネームと、生家を答えよ…?」
カイゼンはカードを見つめ、内心首を傾げた。
彼はメイリンの質問に対応するため、グラノア王国の知識人達を集め、専門のチームを作っていた。グラノア王国の浄化は一刻の猶予もならない。一つの都市を浄化してから次を浄化するのに、聖女の魔力回復を待って5日程は掛かるだろうが、移動などの時間も考えて、全ての浄化を行うのに、最短で一月弱掛かる。このような聖女の思いつきで始まったくだらぬ質問で、予定を滞らせるつもりはない。
「聖女の名はメイリン・アルス。グラノア王国のアルス伯爵家の長女だ」
カイゼンはサラサラとカードに答えを書く。メイリンはそのカードを受け取り、言葉と共に魔力を込めた。
「私はこのカードに書かれた言葉が真実だと宣誓します」
カードは神官の手に委ねられる。グラノア王国の神官とクロッカス王国神官がカイゼンの書いた文字と、メイリンの宣誓の魔力を確認し、真実の判定の魔術陣に乗せた。その途端、フワリと柔らかな光がカードの紋様に宿った。
「真実の判定を行いました。ここに書かれた言葉に間違いはありません」
神官たちの宣言は、直ちに両国に伝えられる。両国の王家を通じて、国民達に流布されるのだ。
「第一問目は正解です。それでは、一つ目の都市を浄化いたしましょう」
メイリンは慈悲深き笑みを浮かべた。
「随分と簡単な問題で浄化をしてやるんだな?」
一つ目の都市の浄化を終え、ぐったりと寝台に臥しているメイリンの髪を梳きながら、ジュードは詰まらなそうに呟いた。
「何を考えている?」
「…私は聖女に選ばれましたが、慈悲の心などございませんわ。私は私のために動いているだけ…」
ジュードの手を取り、メイリンは頬を擦り寄せた。
「私は、貴方の為になるなら、何でもしますわ」
「…ほう?私の妃は、頼もしいな」
ジュードが可笑しそうに喉をククッと鳴らすと、メイリンは目を輝かせ、甘える様にジュードを見上げた。
「私、頑張っているのです。ご褒美を下さいませ。今日は側にいてください」
頬を赤らめ、恥ずかしげなその様子は、非常にあざとい。あざといと分かっていても、逆らえる気がしない。
「っ!お前、普段はそんな事言わないくせに、こんな時だけ。疲れ切ったお前に手を出せないと知って、よくもそんな酷い事が言えるな?結婚までは清い関係でと我慢を強いておいて、よくも…」
「ダメですか…?」
悲しげに顔を曇らせるメイリンに、結局ジュードは勝てない。大きく溜息をつき、上着を脱ぐと寝台に身体を滑り込ませ、メイリンの身体を抱き寄せた。
「…お前、婚姻後は、覚えてろよ。全く…」
無邪気に縋り付いてくるメイリンに、ジュードはうめき声を上げる。黒き獅子の異名をとる彼も、この婚約者には滅法弱かった。
◇◇◇
「昨日の浄化は素晴らしかった、聖女様!お陰でザダグの街は救われた!」
興奮冷めやらぬ様子で、カイゼンは挨拶もそこそこ、賞賛した。偽りではない心からの感謝の言葉に、メイリンは頷く。
「それはようございました。申し訳ありませんが、次の浄化まで5日程はお時間を下さいませ。魔力が回復するまで、時間が掛かります」
「心得ている!しかし本当に素晴らしかった。霧が晴れるように瘴気が消え去り、女神シリスの神々しい光が満ち溢れる様と言ったら、まるで神話の様だ!」
「光栄です」
メイリンが口角を上げて上っ面だけ笑んでいる事にも気付かず、カイゼンは女神の偉業を讃えていた。カイゼンはメイリンにズカズカと近づき、その手を取った。
「国の恩人に、いつまでも不便を掛けるのは申し訳ない。今からでも、王宮へ移られては如何だろうか。これまでの禍根は、水に流そうではないか」
ジュードの地雷をぶち抜きまくっている事にも気付かず、浮かれたカイゼンにそんな事を提案されたが、メイリンは丁寧に辞退した。このままだとキレたジュードにクロッカス王国へ連れ戻されそうだ。それは、メイリンの本意ではない。
「ではカイゼン殿下。魔力が回復するまでの間、次の質問について解答をお考えください。時間を無駄にしてはいけませんわ」
メイリンが白いカードを出すと、カイゼンは意欲的に頷く。
「では第二問、アルス伯爵家で、私は家族や使用人から何という愛称で呼ばれていたでしょう?」
「はっ…?」
朗らかに出された問題に、またしてもカイゼンは虚を突かれた。第一問といい、第二問といい、一体なぜこんな問題を解かせるのか。
「メイリンだから、メイ?とかかな?」
馴れ馴れしい調子のカイゼンに、ジュードの頬がピクリと引き攣る。メイリンは首を振った。
「違いますわ。名前に因んだものではございません」
カイゼンは困った。それでは見当もつかないではないか。
「カイゼン殿下がお一人で考えなくても宜しいのです。どなたかに確認しても構いませんわ」
アルス伯爵家に確認しても問題ないと言う事か。それならば答えはすぐに分かるだろう。絶縁した娘の事だから、アルス伯爵家はいい顔はしないだろうが、国の危機なのだ。すぐに答えてくれるだろう。なんなら、自分の妻に聞けばいい。メイリンの妹なのだから。嫌がらせを受けていても、妻は最後までメイリンの身を心配していた。快く協力してくれるに違いない。
「分かった。では、明日にでもまた訪ねよう!」
意気揚々と部屋を出ていくカイゼンを、メイリンは道端の虫でも見ている様な目で見送った。
翌日、カイゼンは困惑した様子で大神殿を訪れた。
「妻やアルス伯爵家に確認したが、聖女様の愛称など、思い付かないと言われた。普通に、名前で呼んでいたからと。もしやと思うが、回答は『愛称はない』ではあるまいな?」
「試してみますか?」
メイリンは質問が書かれたカードをカイゼンに渡す。戸惑いながら、カイゼンはカードに『愛称はない』と書き付ける。
「私はこのカードに書かれた言葉が真実だと宣誓します」
一問目の時と同じ様にメイリンが魔力を込める。真実の判定のための魔術陣の上で、カードは忽ち燃え上がった。
「真実の判定を行いました。ここに書かれた言葉は、偽りです」
念の為にと、『メイリンと呼ばれていた』と書き記したカードを判定しても、同じ結果となった。
「アルス伯爵家の皆様は、絶縁した娘の呼び名など、忘れてしまったのかしら?寂しいことね。あらでも、このままでは浄化出来ないわ」
「聖女様。何かヒントを頂けないか?!」
必死に食い下がるカイゼンに、メイリンは微笑む。
「まあ、ヒントは前に出していますわ。名前に因んだものではありません。それ以上は…、そうですわねぇ。ヒントと言うよりは助言を。アルス伯爵家の方は忘れていらっしゃるかも知れませんが、使用人達はどうかしら?私は使用人達にも家族と同じように呼ばれていたから、きっと覚えていますわ。執事のカーストや侍女長のケイシーならきっと、覚えているでしょう。あの家で私が16年も呼ばれ続けていた呼び名を忘れるはずないわ。カイゼン殿下、頑張って思い出す様に命じられてはどうかしら?」
◇◇◇
翌日、昼も過ぎた頃に現れたカイゼンの顔は強張っていた。
「アルス伯爵家使用人達も、皆、『知らない』と答えた」
「まぁ…」
困って首を傾げるメイリンに、カイゼンは平坦な声で続けた。
「アルス伯爵家に以前勤めていたという使用人を見つけた。バードという、下働きの男だ…」
メイリンは記憶を巡らせる。酒好きで賭け事好きで、いつも金に困っていた太った男を思い出す。3年ほどアルス伯爵家に勤めていたが、屋敷の調度品を盗み出してクビになった男だ。
「その男が、金と引き換えに教えてくれた。君の、屋敷内での呼び名は『薄汚いドブネズミ』だったと…。アルス伯爵も夫人も君の義妹弟たちも使用人達も、そう呼んでいたと…」
カイゼンの言葉に、ジュードがメイリンを守る様に背に庇った。その表情は悪鬼の様で、憎々しげにカイゼンを睨み付けている。
「今なんと言った、カイゼン・グラノア!私の妃を侮辱する気か?」
「わ、私だって信じられない!だが、バードという男は、確かにそう呼ばれていたと証言したんだっ!」
口の固いアルス伯爵家の使用人達に比べ、金を貰ったバードは気持ち良く証言してくれた。メイリンという名前を呼ぶと、伯爵や夫人に叱られるため、皆でそう呼んでいたのだと。
「では、そう記入なさっては如何です?」
ジュードの後ろから顔を覗かせたメイリンは、殺気立つ二人に朗らかな声を掛ける。カイゼンの先程の侮辱的な言葉など、気にもとめていない様に。
カイゼンはカードに躊躇いつつも記入した。こんな汚い言葉を綴ったのは、生まれて初めての経験だった。メイリンが宣誓し、魔力を込めたカードが、魔術陣の上に乗せられた。胸に広がる薄らとした不安が、カイゼンを落ち着かなくさせていた。
神官たちが真実の判定を行う。
その結果は、あっさりと出た。フワリと光る、女神の恩恵。
「真実の判定を行いました。ここに書かれた言葉に間違いはありません」
無機質な神官たちの宣言が、カイゼンの胸の不安を、しっかりと形作った。
「第二問目も正解ですね。では、魔力が回復次第、二箇所目の浄化をいたします」
聖女は慈悲深き笑みを浮かべる。
◇◇◇
二箇所目の都市の浄化を行い、再び寝台の住人となるメイリンに、ジュードはピタリと張り付いている。他国であろうとも、王太子であるジュードには政務がある。ジュードの裁可待ちの書類は溜まる一方だが、それ以外の政務については侍従達が率先して片付けていた。ジュードの時間を出来るだけ多くメイリンに割いてもらいたいという、侍従達の総意故であった。
聖女のグラノア王国行きに付いて来た侍従達は、皆一様にグラノア王国に怒りを持っていた。聖女メイリンは、瘴気に覆われ、魔物の脅威に晒されていたクロッカス王国を救った大恩人だ。侍従達は彼女がどれ程の献身で国を救ってくれたか、ずっと共に過ごしてきて、具に知っていた。クロッカス王国でメイリンを疎かにするような者は、誰一人としていないのだ。
だがこのグラノア王国のメイリンに対する態度は、酷いものだった。表立って嫌がらせをする者はいないが、陰口や遠回しな嫌味、粗雑な対応などは否が応でも目につく。メイリンもふとした時に「早くクロッカス王国に帰りたいわ」などと弱気な声を漏らすのだ。侍従達のメイリンに対する庇護欲が高まっていた時、トドメの様にあの第二問目の質問と解答が両国に公開された。結果、全員、大激怒である。
その筆頭である王太子ジュードは、クロッカス王国の者以外がメイリンに近づくのを禁じた。王の遣いであろうが、主だった国の重鎮であろうが、大教会の上位神官であろうが、軒並み門前払いだ。屈強な護衛達がジュードとメイリンの部屋の前に仁王立ちし、近づく者を容赦なく切らんと、殺気立っている。
「過保護です」
浄化により疲れ切っているので侍女達に成されるがままになっているが、それにしても厳重過ぎる体制に、メイリンは不満を漏らす。大神殿の庭の散策すら許されなくなってしまった。
「この国の者達は信用ならん。お前を侮辱し傷付ける者は、我が国に牙を剥くのと同じ事。全力で叩き潰すのみだ」
剣呑な言葉とは裏腹に、ジュードの目はメイリンへの気遣いに溢れている。愛する女が聞くも悍ましい呼び名で長年呼ばれ続けていたのかと思うと、はらわたが煮えくり返る思いがして、何がなんでも守ってやらねばという気持ちになる。
「陛下の命に叛くことになるが、この国への助力はこれまでと遣いを出す。これ以上、この国に尽くす意味もあるまい。お前の身体が回復次第、帰国するぞ」
「嫌です。最後まで浄化をします」
「ならん!これ以上、お前をこの国に置きたくはない!」
頑ななメイリンに、ジュードは怒気を露わにした。メイリンに甘い彼にしては、珍しい事だった。
「私がする事を、信用してくださらないのですか?」
「この俺が、お前が侮辱され、傷付けられるのを許す訳がないだろう!」
「私はあの様な言葉を侮辱と感じたり、傷付いたりはしません。私は16年間、あの様に呼ばれ続けてきました。今更ですよ」
メイリンは起き上がると、寝台に腰掛けていたジュードの首に手を回し、引き寄せる。
「あんな言葉は、私を何一つ傷つけません。私はただ、貴方の側に居続けるために、こんな事をしているのです。私が何をしようとしているか知ったら、貴方がどう思うかと不安で、言えなかったけれど…」
メイリンはジュードにしがみつき、その胸に顔を埋めた。自分が今している事は、慈悲深く清廉であれという女神シリルの教えとは、かけ離れた事だ。余りに利己的で、自分勝手な。
それでもやめられなかった。漸く心の底から愛しいと思える人に出会えた。その手を離すぐらいなら、死んでしまったほうがマシだ。でもこんな事を企んでいると知ったら、ジュードはどう思うだろうか。嫌な女だと、嫌われるかもしれない。ジュードの方が惚れ込んでいると思われがちだが、メイリンの方も、なかなかに拗らせているのだ。
「お前は、何を言っている」
酷く不機嫌な声がして、視界が反転した。ぐっと両手を押さえ込まれ、寝台に押し倒された事に気付く。
「俺がお前の事をどう思うかだと?まさか今更、お前に愛想を尽かすとでも?戯けが」
ギラギラした緑の瞳に射抜かれ、メイリンは身動き一つ出来なかった。
「お前が何をしでかそうと、それこそ過去が噂通りの悪女であろうと、俺はお前が欲しい。お前が始めた、可愛らしい悪戯なんぞで、俺の元から逃れられるなどと思うな。全部ひっくるめて、お前の芯まで可愛がってやるから、二度とその様な世迷言を吐かすな」
噛み付く様に口付けられ、メイリンは息も継げずに翻弄された。
「何を企んでいる?」
ようやく口付けから解放されたメイリンは、壮絶な色気を湛えたジュードに優しく囁かれた。
「愛しい我が妃よ。その企みを吐け。俺にもお前の愉しみを分かつがいい」
メイリンに、抗う術など何もなかった。
◇◇◇
メイリンが起き上がれる様になってすぐ、カイゼンからの面会の申し出があった。すぐさま、ジュードは許可を出す。
「浄化のお礼を…申し上げる、聖女様」
カイゼンが、歯切れ悪く挨拶を述べる。その顔には、疲労の色が濃かった。
反対に、ジュードは上機嫌だ。鼻歌でも歌い出しそうなほどに。メイリンの側にピタリと寄り添い、時折、髪を掬って口付けたり、手を絡ませたりと、メイリンが可愛くて仕方がないのを、隠そうともしない。メイリンが、ジュードへこの問答の目的を洗いざらい話した後から、この調子だ。溺愛に拍車が掛かった。
「では次の質問を致します。第三問目は、私がアルス伯爵家で、よく食していたものはなんでしょう?」
質問が書かれたカードを受け取り、カイゼンは縋る様な眼を向ける。
「第二問目の質問に対し、国内で混乱が起こっている…。第三の質問に答えたら、どうなるのだ?」
「正解でしたら、三箇所目の浄化を行います」
メイリンの答えは簡潔だ。カイゼンの甘ったれた発言に、ジュードは鼻で笑った。
「そんな事、自分で考えろ。貴殿はこの国の次代の王となるのだろう?浄化に伴う条件として、貴殿が引き受けた問答ではないか。その結果何が起こるかなど、己で考えよ」
そんなことを言われても、カイゼンには分からなかった。妻のユーミアも義理の父であるアルス伯爵も第二問目については強く否定した。メイリンをあんな酷い呼び名で呼んではいないと。ユーミアなど、私のことを信じていただけないのですかと、涙ながらに訴えていた。だがこの質問は真実の判定を受けているのだ。メイリンがグラノア王国を陥れようと嘘をついたとしていたとしたら、あのカードは燃え尽きていた筈だ。可憐で心優しいと思っていた妻の、公正で頼りになると思っていた義父の、知らない一面が垣間見え、カイゼンを落ち着かなくさせる。
だがカイゼンはグラノア王国の王太子として、聖女の質問に答えると明言した。その引き換えに、聖女は浄化を行うと約束した。国を代表するものとして、それを簡単に翻すことはできない。そしてこの問答を止めれば、浄化はしてもらえなくなる。再び、国の危機となるのだ。
考える事を放棄して、カイゼンは第三問目の答えを探すべく、大教会を後にした。
◇◇◇
第三問目の質問をしてから5日後、メイリンの魔力がすっかり回復した頃、カイゼンはやってきた。
「第三問目の答えを調べてきた…」
カイゼンの金髪は乱れ、輝かんばかりだった美貌は見る影もなく萎れている。一気に年をとった様だった。
「…最初、アルス伯爵は、君の好物は仔牛のローストだと言っていた」
「あら、まあ。第三問目の質問は、私がアルス伯爵家でよく食していたものは何か、ですわよ。私の好物を聞いたものではないわ」
クスクスと笑うメイリンに、カイゼンは力のない目を向ける。
「アルス伯爵家の料理人を王宮に召喚した。君があの家にいた時に食していたものは何かと聞いたら、伯爵と同じく、仔牛のローストを好んでいたと…」
メイリンは呆れた様に息だけで嗤った。仔牛のローストか。確かに美味しい。クロッカス王国で初めて食べた時、肉の味が口に広がり、あまりの美味しさに涙が出た。安価な料金で食事を提供する平民向けの食堂でも、一般的に食べられるメニューだ。勿論、お貴族様の屋敷で出るようなフォークの背でも切れそうな柔らかなものとは違い、筋が多くて硬い肉だったが、メイリンにとってはご馳走だった。
「料理人に、その答えが間違っていたら、料理人自身も料理人の家族も処罰をすると言ったら、その男は、アルス伯爵に仔牛のローストと答えるように指示されたと白状した。本当は、本当は…、あの家で、君に出されていた食事は、カビの生えたパンと、腐ったスープだったと…。伯爵達と同じテーブルに着くことは許されず、犬の様に、台所の床で這いつくばって食べさせられていたと」
震えながら、平伏して答えた料理人の言葉を、カイゼンは聞いた。そんな食事でも、与えられていた方がまだマシだったと。伯爵夫人には、こんな穀潰しは死なない程度に食わせればいいと、食事を与えない日も多くあったと。
怒りの余り真っ赤な顔になったジュードの手を宥めるように握り、メイリンは微笑む。
「お陰で、滅多なことではお腹を壊さなくなりましたし、食事の有り難みが嫌というほど分かるようになりました」
メイリンが、民が飢えぬ様、貧民の支援や炊き出しに意欲的な理由が分かり、ジュードはぎりりと奥歯を噛み締めた。そうでもしないと、目の前で微笑む女を、掻っ攫って誰の目にも触れぬ場所に隠したくなりそうだった。自分の手で大事に大事に守ってやりたいと思うのに、当の本人はひらりひらりとすり抜けては、コマネズミの様に働いている。全く、御し難い。
「お前、本当に、婚姻後は覚悟しておけ。骨の髄まで、甘やかしてやろう」
甘やかな声で耳元で囁かれ、メイリンは背筋が寒くなった。これ以上、心配させないようにフォローしたつもりだったが、余計にジュードに火をつけたようだ。なぜだろう。ジュードの思考が読めない。
「それでは、第三問目の答えを、カードにお書きください」
カードに『カビの生えたパン』『腐ったスープ』と記入する。みっともないほど、震えた文字だった。カイゼンはそれを、メイリンに渡す。
「私はこのカードに書かれた言葉が真実だと宣誓します」
魔術陣の上に載せられたカードを祈るような気持ちでカイゼンは見つめた。燃え上がれ、燃え上がれと。だが、カイゼンの中の冷静な部分では、燃えるはずがないと分かっていた。あの料理人が、自分の命と、家族の命を懸けて、嘘をつく理由はない。あれは真実なのだと。それでもカイゼンは、一縷の望みに縋るしかなかった。
カードの紋様に、美しい光が灯る。
「真実の判定を行いました。ここに書かれた言葉に間違いはありません」
神官達の言葉を、カイゼンは静かに受け入れた。分かってはいても、真実は痛い程胸を切り裂いた。
「では、三箇所目の浄化を行いましょう」
カイゼンの痛みと引き換えに、聖女は街を救うために立ち上がった。
三箇所目の都市の浄化を終え、メイリンは眠っている。
長く輝く銀の髪を寝台の上に散らし、あどけない顔で眠る姿は、稀代の聖女には見えない。弱く儚げな女だ。
しかしジュードは知っている。その細い身体には女神に愛された証拠の類稀なる聖魔力と、汚れも厭わぬ慈悲深さと、底知れぬバイタリティが秘められれていることに。
ジュードとメイリンが知り合ったのは、聖女がクロッカス王国に現れたという噂を聞いた彼が、大教会を訪れたのがきっかけだった。クロッカス王国の前の聖女が老衰で亡くなり、以降十数年、クロッカス王国には聖女が現れなかった。聖魔力を少量持ったものは幾人かいたが、聖女といわしめる程の力を持つ者は現れず、ジュードが物心つく頃には、国は瘴気にまみれていた。他国の聖女に力を借りたり、自国の聖魔力を持つ者達での小規模な浄化を繰り返し、なんとか凌いではきたものの、焼石に水だった。浄化が途切れれば魔物は活性化し、強化される。クロッカス王国は国を守るために軍事に力を入れ、ジュードも幼い時から魔物討伐に出た。初めは旗頭として、次第に軍を指揮する力をつけ、自らも魔物を討伐した。そうしなければ、国は滅びてしまう。軍事に金を割けば、その分、民への還元は少なくなる。国の整備に金を割けなければ、国力は落ち、さらに民達の生活は苦しくなる。ギリギリの状態で、クロッカス王国は何とか生き繋いでいた。
そんな時の聖女の噂。ジュードは藁にも縋る思いで、大教会に赴いた。今までも聖女を騙る者はいた。今回もそれかと、半信半疑のまま出会ったのが、メイリンだった。
聖女として大教会で傅かれているのかと思っていたジュードの予想は大きく外れた。メイリンは、長い髪を無造作に束ね、簡素で古ぼけたワンピースに身を包み、大教会で目まぐるしく働いていた。魔物討伐で怪我をした兵の治癒をしていたかと思えば、炊き出しの手伝いをし、神官達から浄化を学ぶ。話しかけたジュードを制し、「神官様達から今、指導を受けています。あと7日お待ちください。必ず浄化できるようになってみせます」と言い切り、また忙しく働き始めた。聖魔力の使い方で手こずっており、一日数時間しか浄化の訓練ができず、それ以外の時間は大教会での手伝いをしていると聞いて、ジュードは驚いたものだ。メイリンはいつ休んでいるのかと思うほど、クルクルと楽し気に働き、そんな彼女を大教会の神官や巫女達が微笑ましく見守っていた。
何とか浄化を身につけたメイリンは、準備もそこそこ、国中の浄化の旅に出た。その傍らには、魔物討伐も兼ねてジュードが付き添った。一つの都で浄化を行い、移動中に馬車で休み、次の街の浄化を行う。屈強な兵士も音を上げるような強行軍だったが、メイリンは文句一つ言わずにやり切った。
そうして国中の瘴気を払う偉業を達成したメイリンは、澄み切った空気が広がる草原で、ようやく立ち止まった。クルクルと忙しく動き回っていたのが嘘のように、ゆったりと、草原を泳ぐように堪能した。
「綺麗ですね、女神様の恵みは」
報酬の話をしても、メイリンはいらないと笑うばかりだ。寝て、食べて、安全で、そんな生活が出来るだけでありがたいと。誰かの為に働けるのが楽しいと。大教会で働ければ満足だと。
「私のささやかな働きに、皆様、感謝の言葉を下さいます。それだけで、十分です」
ふわふわとした歩きで、草原を歩くメイリンを捕まえ、ジュードは「では」と提案した。
「この国の王妃になれ、メイリン。民達の、寝て、食べて、安全な生活を守るため、私と共に働けばいい」
初めて会った時から、美しい女だと思っていた。着飾らなくても、内から輝く美しさに、ジュードはすっかり惚れ込んでいた。クルクル働くところも、慈悲深いところも、他者に厳しいが自分にも厳しいところも、魔物に対峙して恐ろしい癖に、全く面に出さずに隠れて震えるところも、笑顔が可愛いところも、全部がジュードを魅了してやまない。
「は、お、王妃?ジュード様。頭でも打ちました?王妃って、ジュード様の奥様じゃないですか。無理です。私には無理。絶対無理」
はっきりと残酷な事を言い切るところも。そんな事を言えば、ジュードが余計に燃え上がることに、全く気づいていないところも、ジュードを惹きつけて止まない。
そこからは大変だったが楽しい過程だった。外から内から、ジュードはメイリンを囲い込み、籠絡し、ようやく婚約者として彼女を手に入れたのだ。周囲は呆れ、国王と王妃にはほどほどにしないと嫌われると諭されたが、ジュードは決して諦めず、湧いて出てくるライバル達を力づくで排除し、メイリンの心を勝ち取った。
ジュードはメイリンの素性について、本人の口からも聞いたし、調べもした。義理の妹弟を虐げた覚えはないとしか、メイリンは弁明しなかった。隣国の悪い噂など、メイリンを見ていたジュードは最初から信じなかったし、国を救った聖女が王太子妃になる事を、諸手をあげて歓迎する国民達は気にもしなかった。
だが、メイリンの環境は、本人が語らなかっただけで、ジュードが思っていたより過酷なものだったようだ。酷い呼び名に食事。それだけで彼女のアルス伯爵家での扱いが知れるというものだ。ジュードの調べでは、アルス伯爵の後妻は男爵家の未亡人だったが、男爵家に嫁ぐ前からアルス伯爵との付き合いが噂されていた。アルス伯爵とメイリンの母である前妻は完全な政略結婚で、本当は後妻を妻に迎えたかったが、後妻の身分が伯爵家と釣り合わず、その願いは果たせなかった。後妻の連れ子と言われているユーミアは、アルス伯爵と面立ちが似ており、伯爵の実子ではないかと言われていた。前妻が亡くなり、これ幸いと後妻とユーミアが家にやってきた時、メイリンはどう思ったのだろう。父とよく似た義妹を見て、どれほど辛い思いをしたのか。
グラノア王国に着いた当初から、アルス伯爵家からは厚顔無恥にも、メイリンに対し絶縁を解くという申し出が来ていた。ジュードはそれを一顧だにしなかったし、メイリンには知らせもしなかった。実の娘にあんな仕打ちをしていて、よくそんな申し入れが出来るなと、ジュードは呆れ果てた。
すやすやと眠るメイリンの額に口付け、ジュードは寝台を離れた。目を覚ましたメイリンに、彼女が好む果物を準備させるために。他には何を喜ぶかと、ジュードは思考を凝らす。豪奢な宝石より、海辺で拾った磨かれた石の方を喜ぶような女だ。何を贈るか、いつも悩まされる。しかし、彼女の幸せは全て自分の手で整えてみせると、ジュードは心に誓っていた。
「では、第四問目です」
カイゼンはメイリンの声に、ノロノロと顔を向けた。
ここ最近の、国内を駆け巡る様々な騒動に、カイゼンは対応を迫られていた。国内では貴族達が割れ、大論争を巻き起こしている。クロッカス王国を始めとする他の国々からの批判に対しての対応にも追われていた。いっそ浄化を取りやめてはとの意見も出たが、今ここで撤回すれば、王家は何か不都合なことを隠していると思われる。対内的にも、対外的にも、それはまずいと思われた。
カイゼンの妃、ユーミアにも批判が集まっていた。義姉に害されながらも、その仕打ちに耐えていた健気な令嬢を、雄々しき王太子が守り、悪女である義姉を国外に追放した。手を取り合って悪女を廃した王太子と令嬢がやがて結ばれるという物語の様な恋に、皆が心酔していた。それが、事実と異なるどころか、ユーミアの方が、家庭内で孤立する義姉を害していた悪女だったとは。そんな女を妻にした王太子にも、批判が殺到していた。
「聖女様。報酬はお望みの通りにいたします。ですから、質問はもう…」
「まあ。私、報酬など何も。質問に答えていただければ、私は満足ですわ」
無邪気を装う聖女に、カイゼンは瞬間的に怒りが湧き起こる。目の前の聖女は、清廉で慈悲深き聖女などではない。幸運にも聖なる魔力を手に入れただけの、悪魔のような女だ。
「貴女の質問で、私の立場が危うくなっているんだ!我が国をこのような混乱に陥れ、クロッカス王国はどうするつもりだ?侵略でも狙っているのか?」
激昂するカイゼンとのメイリンの間に、ジュードが立ちはだかる。
「我が国はこの国の浄化など、止めても良いのだ。我が国とて、未だ魔物の脅威から逃れたばかり。本来なら他国を構う暇などない。友好国の危急に、手を貸しただけだ」
カイゼンを射抜く目は、凍てつきそうな冷ややかさだ。
「選ぶがいい。自分の立場か、国か」
カイゼンに選択肢など、初めからなかったのだ。クロッカス王国に浄化の助力を願い、聖女が聞き届けた時から、全ては決まっていたことだった。脱力したカイゼンは、それでも精一杯の矜持で、立っていた。
「…次の、質問を。聖女様」
「第四問目。私が学園に通っている時に流れていた、家族や使用人を虐げていたという噂は真実かどうか。誰にどう聞いても構いませんわ。カイゼン王太子の目で耳で確認し、私がそのような非道をしたかどうか判断なさってください」
メイリンはカードにサラサラと文字を書きつけながら、楽しげに語る。カイゼンは受け取ったカードを、絶望と共に握り締めた。
「…答えを…確認してこよう」
たった一枚の小さなカードが、とてつも無く重く感じた。フラフラした足取りで、カイゼンは答えを求めて歩み去った。
数日後、カイゼンはメイリンの元にやって来た。
「答えがわかったよ。聖女様」
何か吹っ切れた様な、静かな表情で、カイゼンはカードに文字を書き込む。
メイリンはカードを受け取り、書かれた文字を読み上げた。
「第四問目 私が学園に通っていた時に流れた噂で、家族や使用人を虐げていた噂は真実か。答えは、真実ではない」
メイリンがカイゼンに視線を向けると、カイゼンは静かに語り出した。
「アルス伯爵家、使用人、学園の生徒達、学園で働く者達に全て話を聞き取った。まずはアルス伯爵家の者達。彼らは一様に君が家族や使用人達に暴力を働いていたと証言した。私の妃も含めてだ。アルス伯爵家の使用人達。彼らは初めはアルス伯爵家と同じ証言をしていた。しかし、一人の侍女が真実を告白した途端、堰を切ったように彼らは証言を翻した。日常的に暴力を受けていたのは君の方だと。殴られ、蹴られ、鞭打たれ、夏の暑い日に水を与えられず木に縛り付けて放置し、冬の凍えるような寒い日に薄着で庭に出されたと。家族と使用人が加担していて、君の味方は誰一人としていなかった。そして学園の者達。彼らは、ユーミアが学園内で君に虐げられていると話す事は聞いたことがあったが、実際目撃した事はなかった。平民の生徒の中で何人かが、ユーミアに罵られる君を見かけた事があったが、自分の見た事が信じられずに、口を閉ざしていたと。街で君の幼い弟が、馬車に繋いだ君を走らせたいと侍女達に駄々を捏ねているのを見た事がある者もいた」
カイゼンは、真っ直ぐにメイリンを見た。出会ってから初めて、こんなにも真摯なカイゼンを見たような気がする。
「君は家族や使用人を虐げてなどいない。君が、被害者だったのだ」
調べた結果を、複数の証言も揃えて、アルス伯爵に問い質した。何故、血を分けた実の娘に、こんな仕打ちをしたのかと。彼は初めは否定していたものの、複数の証言を前に、渋々と、口を開いた。前妻との結婚が苦痛だったと。一緒になりたいと思った後妻の身分が足りず、不満ながらもメイリンの母を娶ったが、愛することは出来なかった。幸いにも前妻が病で死に、今度こそ想い人を迎え入れることができたが、後妻がメイリンを受け入れられなかった。あの娘がいると、前妻のことを嫌でも思い出させると泣き、憎み抜いた。後妻との間には可愛い娘が既にいたので、メイリンなど要らなかった。嫡男が生まれた後はますます、メイリンの存在が不要になり、虐げることで前妻に対する鬱憤を晴らしていた。
アルス伯爵の言葉を聞いて、カイゼンは目の前の男が同じ人間だとは思えなかった。そんな下らない理由で、血を分けた娘を虐げていたのかと。伯爵の腕に縋るようにしている夫人も、別の生き物に思えた。それぐらい、理解できない思考だった。
ふと、彼らの娘である、妻のことを思った。可憐で優しく、慈悲深いと思っていた妻。義姉に虐げられながらも、健気に義姉との距離を縮めようと奮闘していた妻を。断罪された義姉を、悲しげに、心配そうに見送った妻を。愛しいと思い、護ってやりたいと思い、国母に相応しいと思い、子まで儲けた妻を。あれは、全て偽りだったのか。あの妻は幻影で、本当は笑いながら義姉を鞭打つような女だったのか。
そう思ったら、妻が途端に恐ろしい化け物のように思えた。あの儚げな美しさの下に、悍ましい化物が隠れていたのだ。あれほど可愛かった我が子も、その血を引いていると思うと、カイゼンには別の生き物の様に思えて、気持ち悪かった。
ユーミアと生まれたばかりの子は、今、王宮の一室に軟禁されている。アルス伯爵家やユーミアに対する風当たりが強すぎて、外に出ることは危険を伴った。本性を現したユーミアは、彼女を閉じ込める侍女や侍従達に暴言を吐き、部屋の中で大暴れをしている。子の世話も放棄して、ずっと乳母に任せきりだ。
「私はこのカードに書かれた言葉が真実だと宣誓します」
魔術陣の上にカードが乗せられる。結果は分かっている。カードの紋様に、美しい光が灯る。その残酷な美しさが、今のカイゼンにとって、唯一の慰めだった。
「真実の判定を行いました。ここに書かれた言葉に間違いはありません」
聖女は神官達の言葉に頷く。
「四箇所目の浄化を、行いましょう」
聖女の言葉に、カイゼンは深く首を垂れた。
四箇所目の都市の浄化を終え、寝台で休むメイリンを背後から抱き込んだジュードは、メイリンが意外に元気そうなのを不思議に思っていた。疲れてはいるようだが、これまでよりはぐったり感が軽い。
「なんだか、聖魔力が増えているような気がします。まだ余力がありますし、回復も早そうです」
「今まで以上にか?」
過去の文献や他国の情報と照らし合わせても、メイリンの浄化の力は桁違いだ。それがまた、増えているというのか。
「私は、此度の事で、聖女たる資格を失うかもしれないと思っていました」
慈悲の心と清廉さを持てと教える女神シリル。メイリンの振る舞いは、カイゼンと妹の仲に亀裂を入れ、生まれた子を不幸にし、魔物の襲撃で疲弊しているグラノア王国を混乱させる。女神の教えに反していると思っていた。
「俺の妃は何も間違った事はしていない。グラノア王国を正しい形に戻しただけだろうが」
ジュードの意見は正反対だ。偽りだらけの恋物語を正し、民を欺く王太子妃の嘘を暴いたのだ。褒められる事はあっても、怒りを買うはずがない。
「でもその動機は、褒められたものではないです」
シュンと項垂れるメイリンに、ジュードは悪戯っぽく笑った。メイリンの動機は、ジュードを喜ばせるものだった。
「俺の側に居続けるために、だったな。愛故に、女神がお許しになったのだろう」
メイリンの聖魔力が増えた事がその証拠だ。むしろ女神は、やってしまえと応援しているのではなかろうか。
それにしてもと、ジュードはメイリンの顎に手を掛け、上向かせた。揶揄うようにその銀の瞳を覗き込む。
「そうか。お前はそんなに俺の事が好きなのだな。知らなかったぞ。メイリン」
こう言えば、メイリンは真っ赤な顔をして、慌てると思っていた。そこを、また揶揄ってやろうと思っていたのだが。
「はい。ジュード様が好きです。私の初めて出来た大事な人。一瞬だって、離れたくない…」
そう素直に返されて、潤んだ瞳で甘えるように擦り寄られ、ジュードの喉は息を飲み込み損ねて、変な音を立てた。控えていた侍従達が、思わず吹き出すほど、狼狽している。迫るのには慣れているが、懐に入られると弱い。こんなジュードなど、ここ数年侍従達は見たことがなかった。
「お前…。本当に、覚えていろ…」
今宵も甘える聖女を突き放す事が出来ず、黒獅子は悶々と眠れぬ夜を過ごす。
メイリンが回復したと知らせを受け、カイゼンはすぐに大教会にやってきた。
「今回は回復が早いようですが、ご無理をなさってはいませんか?」
カイゼンは純粋にメイリンを気遣っているようだった。メイリンは朗らかに首を振る。
「問題ありません。聖魔力が増えたようで、回復も早いのです」
カイゼンはその言葉に悲しげな笑みを浮かべた。
「そうですか。女神様も、この事態を望んでいらっしゃるのですね…」
そして少しためらった後、カイゼンは話し始めた。
「ユーミアが学園の入学時に聖魔力がある事が分かり、我が国の聖女として認められていましたが、あれは誤りでした。ユーミアの聖魔力は、貴女の聖魔力に影響され、一時的に発現しただけでした。仮性魔力です」
稀に、近しい者の魔力が強いと、その魔力の影響を受け、発現する事がある。家族や夫婦間で起こるもので、魔力はすぐに無くなるのが『仮性魔力』と呼ばれる現象だ。
「ユーミアに聖魔力があることから、私は事実を見誤ってしまった。聖女たる資格がある者が、嘘をつくはずなどない、清廉と慈悲の聖女が、そんなことをするはずがないと、思い込み、事実を確かめる事を怠った。そして、そんな嘘に塗れた女を、王太子妃にまで据えてしまった」
カイゼンは一旦、言葉を切った。目をギュッと瞑り、そして、真っ直ぐにメイリンを見つめる。
「私は、聖女様が全ての浄化を終えた後、王太子の座を辞し、王籍から外してもらえるよう父に進言し、受け入れて頂きました」
深々と頭を下げ、カイゼンは願った。
「聖女様、最後の質問をお願いします」
メイリンは頷き、白いカードを手渡す。
「第五問目。私は、何の罪でグラノア王国を追放されたのでしょうか?」
予期していた質問に、カイゼンは胸を張って答えた。
「お答えいたします、聖女様。冤罪です。貴女はこの国から追放されるような罪など、何も犯していなかった。それどころか、悪しき心を持つ者達から守られるべき、被害者でした。私は、助けを求めることもできないぐらい傷つき、弱り切った貴女を救えませんでした。許してほしいなどと、口が裂けても言えませんが、どうか、罪なき民達をお救いください」
もしも、とカイゼンは思ってしまう。
もしも、あの断罪の時、一片でもユーミアの言葉を疑っていたら。彼女の言葉だけを信じずに、きちんと裏付けをとっていたら。噂の真偽を確認していたら。
今もメイリンはグラノア王国に居て、聖女としての能力を開花し、無辜の民達の命を散らすこともなかったのではないか。
民を殺したのはカイゼンだ。守るべき者を間違え、愚かだった。唯一無二の聖女をクロッカス王国に渡してしまい、これからグラノア王国はどれほど厳しい時代を送る事になるのだろう。こんな男に、王たる地位は相応しくない。後悔ばかりが、カイゼンの胸を占めていた。
白いカードに『聖女は冤罪により国外へ追放された』と記す。愚かな罪は、白日の元に晒される。
「私はこのカードに書かれた言葉が真実だと宣誓します」
カードの紋様に、女神の慈悲の光が灯る。一際強いその光は、聖女の汚名を濯ぎ、グラノア王国を正しき方向へ導いた。
「真実の判定を行いました。ここに書かれた言葉に間違いはありません」
神官達の厳かな声が響き渡る。メイリンは心の底からの笑みを浮かべた。
たった五つの問答で、メイリンの汚名はそそがれた。
一つ目の質問で、浄化を行う聖女がかつて悪女と言われた、アルス伯爵家の長女だと知らしめ。
二つ目の質問で、聖女の酷い呼び名を晒し。
三つ目の質問で、聖女の置かれた過酷な環境を知らしめ。
四つ目の質問で、誰も虐げていない事を立証し。
五つ目の質問で、己の無実を証明した。
「では、最後の浄化を行いましょう」
全ての都市の浄化を終えたメイリンは、ようやく帰国の途についた。
帰国に至るまで、ジュードはグラノア王国と今後の浄化についての協議を行い、新しい王太子の立太子にもクロッカス王国の代表として立ち会い、ついでに外交上の取り決めも幾つか交わした。ちなみに、新しい王太子はカイゼンの二つ下の弟だ。有能と噂の弟王子は、ジュードの目から見て、爽やかな皮を被った腹黒だった。あれならグラノア王国も大丈夫だろう。
色々とあったグラノア王国だったが、ジュードは結果的に満足していた。メイリンが今回の問答で齎した成果が、非常に大きかったのだ。だがそれ以上に、あまり本心を言わないメイリンの心の内が知れたことが、一番嬉しかった。
メイリンがこの問答を始めたのは、ジュードの為だった。
メイリンはジュードに求婚された時、自分の出自故に、どんなに彼に惹かれていても、受け入れるつもりはなかった。しかし、ジュードの熱心さに負け、完全に外堀を埋められ、彼の求婚に頷いた時、誓ったのだ。諦めていた、過去を正そうと。ジュードに守られるだけの妃には、なりたくないと。
メイリンはクロッカス王国では聖女として尊ばれていても、隣国グラノア王国では、家族や使用人を虐げた悪女だ。クロッカス王国の王太子妃、その後の王妃として立つのならば、その汚名は何が何でも濯がなくてはならなかった。王妃に弱みがあっては、外交上、相手の思うままにされてしまう。メイリンが失敗すれば、それはジュードの瑕疵になる。
メイリンは王妃という立場に執着はなくても、ジュードを愛していた。初めてメイリンを愛してくれた人だ。求婚を受け入れると決めた時にはもう、何が何でも離れたくなかった。そのために王妃の座になくてはならないなら、石に齧り付いてでもその座を死守する。そう決めていた。
だが真っ向から冤罪を主張しても、それを証明するにはこちらに手立が少なすぎた。相手は隣国の王太子妃、しかも、すでに嫡男まで儲け、その地位は盤石だ。メイリンに有利な証拠や証言を得られたとしても、地位に任せて揉み消されてしまう恐れもある。
そんな時に、グラノア王国が危機に瀕した。聖女として求められた時、どうにかして冤罪を晴らそうと、思考を巡らせた。そして、グラノア王国の使者として現れたカイゼンを利用する事にした。呆れるほど素直で、正義感が強く、人が良い。正直、彼がこのままグラノア王国の王になる事も不安材料だった。人が良いだけでは王は務まらない。周りを囲んでいる、メイリンの父の様な悪辣な貴族に利用され、国を傾けることになれば、領地を接するクロッカス王国まで、迷惑を被ることになりかねない。
正直、カイゼンがメイリンの提案を受けて5つの問答を受けるかは賭けだった。これが弟王子だったら、そう簡単にメイリンの手には乗らなかっただろう。何でも真偽を明らかにする『真実の判定』を使用するなど、慎重な者なら、絶対に避けるはずだ。
しかしカイゼンは簡単にメイリンの提案に乗った。メイリンを悪と信じ、自分を取り巻く環境に何の危機感も持っていなかったが故に、彼はあっさりと受け入れてしまった。その時には、すでにメイリンの望みは殆ど叶っていたのだ。
今、グラノア王国は揺れている。王太子の犯した過ちにより、聖女が隣国に流出し、新しい聖女と思われていた王太子妃は、聖女を害した悪女だったのだ。アルス伯爵と元王太子妃ユーミアは王族を謀った罪で処刑され、その家族は投獄された。アルス伯爵家は取潰しとなり、カイゼン王子とユーミアの間に生まれた子どもは、王籍を外され、同じく王籍を離れ男爵となったカイゼンの元で育てられることになった。
グラノア王国の貴族や平民達から、メイリンにグラノア王国へ戻ってほしいと多くの嘆願が寄せられたが、ジュードが一蹴した。
メイリンの元には、グラノア王国からだけではなく、他国から縁談の申し込みがひっきりなしに舞い込んでいる。ジュードの婚約者であるにも関わらずである。5つの問答について、全ての内容はグラノア王国、クロッカス王国の国民達に流布され、彼らを通じ他国の知ることとなり、メイリンの聖魔力の強さ、賢妃たる素質に人気が高まったのだ。熱狂的なファンも出来てしまった程だ。お陰で、ジュードの怒りは頂点に達し、クロッカス王国史上、最短の早さで王太子の婚儀は終わった。
婚儀を挙げたその足で、黒獅子が聖女を抱え寝所に消えて行くのを、誰も止める事は出来なかった。
その後。クロッカス王国の王太子と王太子妃の間には、双子の姫を皮切りに、次々と子宝に恵まれた。長く続いた暗く冷たい時代は過ぎ去り、明るく平和な未来の兆しを見せ始めていた。
産まれたばかりの姫達に強い聖魔力が発現し、聖女と認定されたがために、グラノア王国の王太子を始めとする求婚者が諸外国から殺到し、妻同様、子ども達を溺愛する黒獅子が、再び怒りを爆発させたのは言うまでも無い事だった。