幸せ求人広告・下
『幸せを知りませんか』
ある日読んだ新聞にそんな広告が出ていた。ぼくはちょっと首をかしげて、片手に持っていたコーヒーのカップを横に置いた。
人探しの広告や誰だか知らない人の訃報などが並ぶなかで、その文言は一種異様な雰囲気を放っていた。
ちっぽけな枠の中には飾り気のない文字で『幸せを知りませんか』とだけ書かれていて、下の方に小さく電話番号が書かれていた。携帯電話の番号のようだった。まっさらな余白が逆に目を引き付ける。
ぼくがどうしてそうしたのかはぼくにもわからない。ひょいと立ち上がって、部屋の隅に転がしておいた電話を手に取った。
ぴぽぱと番号を押したら、すぐにコール音が響き、がちゃ。
『どちらさまですか』
細く柔らかい声だった。
「いえ新聞の広告を見たんですけど」
『ああそうですか。じゃあ見つけられたんですか』
嬉しそうに弾む声に、ぼくは少し胸が痛んだ。このまま切ってしまおうかとも思ったが、結局ぼくはそのまま口を開いていた。
「いえ、そういうわけでは」
『そうですか。じゃあどこかで見つけたらまた教えてください』
次の瞬間にはつーつーという音だけがあった。
ぼくは呆然としたまま、電話を置いた。
コーヒーを飲み終わってから外に出た。
てくてくと道をあるく。途中で数人の人にすれ違った。別に知り合いでも何でもない。挨拶なんてしないし、目も合わせない。一度過ぎ去ってしまえばそこに誰かがいたという記憶だってどんどん消えていく。
次に人が向かってきたとき、ぼくは思い切って顔を上げてその人の顔を眺めた。どうということはないひげ面の親父が、自転車に乗って去っていった。ぼくがそこにいることなど全く気にしていない。ひげ面が通り過ぎた後も、ぼくはその後も頭部を見えなくなるまで眺めていた。
ぼーと道に立つぼくを見て、初めて道をあるく他人がぼくの方をちらりちらりと見た。はずかしいような気もしたが、それをどこかうれしく思う自分がいた。そして気が付くともうあのひげ面は頭のどこにも残っていない。
春から初夏に入った頃の過ごしやすい季節だった。若葉がいつしか青葉になって風に揺れていた。
道に並ぶ何本もの立木の中、その中の一本のわさわさと茂る葉の中に、一枚だけ赤いはっぱがあるのにぼくは気付いた。陽に透ける緑色の葉の中で、なぜかその一枚だけが温かい赤色をして風に吹かれていた。その色は昔どこかで見た洋酒の瓶を連想させる。
ぼくはその木下まで歩き、赤く揺れる葉を見上げた。そのはっぱだけ秋が来たように、赤色は凛と堂々として見えた。それを誇りというのだろうかと、ぼくは考えていた。そして自分が『誇り』なんて言葉を探していることに、少しおかしくなって笑みがこぼれた。道の真ん中でクスリと笑ったぼくを見て、歩く人が怪訝な顔をして足早に去っていった。
いい気分だった。下を見てただ漫然と歩く人に、あの赤い葉は見えないだろう。ただぼーと木々を見ながら歩いていたぼくには見えたのに。あの赤い葉っぱの気品を知っているのは僕だけだ。ほかの人が知っているのは、ただそれを見て唐突に笑ったぼく奇行だけなんだ。
そこでぼくは思い立って電話を取り出した。
履歴の一番上にあった番号にかけた。
ぷるるるる、がちゃ。
『はいどちら様でしょうか』
朝かけたものですが、と言おうとして、でも、やめた。たぶんもう覚えていないだろう。
「いえ新聞を見たもので」
『そうですか。では見つかりましたか』
朝と変わらぬ軽やかな期待に満ちた声だった。
「…ええ。実はいま近所の小道をあるいておりまして」
ぼくは赤いはっぱの話をした。
『そうですか。そうですか』
伝わるはずもないのに声は楽しそうに笑ってくれた。
『また見つけたら教えてください。待ってますから』
がちゃっという音がして電話は切れた。ぼくはその時になってからまじまじと電話を見た。頬が当たっていた場所には顔の跡が残っていた。いま自分が電話をして、それを聞いた人がいた。それはとても不思議なことだ。
電話をしまってぼくはまた歩き出した。すっと顔を上げてみると、普段からよく歩いた道に様々なモノがあるのが見えた。
建物上のカラスや、窓を覆う蔦や、アスファルトの割れ目から生えたオダマキをぼくは初めて知った。
『幸せを知りませんか』
知らず知らずのうちにぼくはその文句をかみしめていた。
少し歩くと茂みの中に消える細い道がある。傍らには澄んだせせらぎがあって、まるで百年も前から何も変わってないとでもいうような顔をしてそこにたたずんでいた。
ざくざくと下草を踏みながら、ぼくはその道を辿る。顔に当たる草をよけながら、そうかここでも季節は巡るのかと思った。
一分もしないうちに少し開けた場所に出る。そっけない石の階段がせせらぎの方に下っていて、終わりの方は水につかって苔が生えている。道からそんなに離れているわけではないけれど、木々が風に揺れる音の中に、外の喧騒は聞こえない。
すっと腰を下ろして、肩にかけたカバンを置いた。じじじとジッパーを開けると、そこから電話が転がり出た。いつもはもっと奥にしまい込んだままだから、それが少し新鮮だった。
電話を戻し、カバンの底の方から一冊の文庫本を取り出した。余った方眼紙で折ったカバーが、カバンの中でもみくちゃにされて少しよれている。でもそれが不思議と手になじんだ。
ぼくは文庫本を開くでもなく、手に乗せて、さらさらと方眼紙の肌をなでた。
本を手にした瞬間が好きだ。それを開くとか、何が書いてあるとか、そういうのとは全然違った話で、一冊の本が自分の手の中に納まっているというのが好きだ。この控えめな重さが好きだ。
昔、道で子猫を見たことがある。まだ目も空いていないようなクロネコが道の隅にうずくまって、小さく声を上げていた。ぼくはちょうどそこを通りかかって、それを見た。
ぼくが立ち止まったのがわかったのだろうか、子猫はよちよちと歩いてきて、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、ついにぼくの靴に突き当たった。そしてにーと鳴いた。
ぼくは今まで猫なんて遠くから野良猫の喧嘩を見たことぐらいしかなかったものだから、いったいどうすればいいのかわからない。
しゃがむでもなく、腰を大きく曲げて、恐る恐る背中に触った。ごわごわとした毛並みには確かな温かさがあった。
子猫は背中に感じた指を確かめるように、体をくねらせて、ぼくの指に鼻をくっつけた。唐突に訪れたその感触に、ぼくは思わず指を引いてしまった。子猫はそんなことなど気が付かないように、指のあったあたりで鼻をすぴすぴとやって、そしてまたにーとないた。
その時ぼくが何を思ったのか、ぼくは覚えていない。いやむしろ、何も思っていなかったんじゃないかとすら思う。
向こうから人が歩いてくるのが見えて、ぼくはなんだか悪いことをしているような気になって、一歩足をのけた。
子猫は今まで体を摺り寄せていた靴が唐突になくなって、そこを確かめるようにぐるぐると回った。それを見て僕はさらに一歩離れると、まるで何ごともなかったかのようにまた歩き出した。
その時子猫はまたにーと鳴いたのか。ぼくにはもうわからない。
本をなでながらそんなことをうつらうつらと思っていた。細い流れが日を反射してきらきらと光る。底にある小石のせいか、それとも少し水に首を浸す青草のせいか、水面は、あるところでは盛り上がり、あるところではへこみ、曲がり、歪み、流れ落ち、その様はまるで小さな魚の大群が一目散に泳いでいくようだった。
陽がだいぶ高くなってからぼくはそこをたった。
もと来た道を戻ると、また一分もしないうちに道に出た。白い車が目の前を横切っていった。どうしてかあの子猫を思い出す。
そのときぼくは自分の手にまだ文庫本があることに気が付いた。方眼紙が少し汗を吸っていた。
カバンを開くと電話がぽんと飛び出してきた。ぼくはそれをやっとの思いでつかむ。電話はやけに冷たくて、しんと何かが指にしみた気がした。
一瞬朝の新聞が脳裏によぎった。
ぼくは本を戻し、そして電話をまたしまった。
学食にいって昼食をとった。
白く平べったいカウンターで、メニューを見て注文する。後ろにも人がつかえてるもんだから、いつも最初に眼に入ったものを頼む。
いつものように出てきたどんぶりを盆にのせて、その時ふと顔を上げてみれば、厨房では何人もの人がせわしなく動いていた。ぼくは次の人に押されるようにその場を立ちさった。
ごはんは美味しかった。
そこで片手にどんぶり、片手に箸をもって、カバンからごそごそと電話を取り出し、ダイヤルを押して肩と耳の間に挟んだ。
ぷるるるる、がちゃ。
『はいどちらさまでしょうか』
「いえ、大したようじゃないんですが」
『はあ』
少し迷ったが、ぼくはそのまま口にした。
「……昼食が」
『はい?』
「いえ、昼食が美味しかったので電話しました」
『……』
言ってしまってから、ぼくは無性に申し訳なくなった。なんだかとんでもなく自分勝手なやつに思えてきて、顔が赤くなった。慌ててどんぶりと箸をおいて、電話を両手で包むように持った。
電話の向こうから何も聞こえてこない。
いや、小さく笑い声が聞こえた。
『……いえ、すみません』
声の主は最初と変わらぬ声でそう言った。
「いえこちらこそ」
『また何か見つけられたら電話してください』
電話が切れた後もぼくはしばらくそうしていた。
うれしいような縮こまるような不思議な気持ちだった。
電話というのは不思議なものだ。どんなに離れていたって、声を届けることができる。電話をかける方は、自分がそれをしたいと思ったときにダイヤルを回すのだろう。電話を受ける方は、なんの前触れもなく誰かが呼んでいることに気が付く。
ぷるるる、がちゃ。相手が電話に出れば、そうとわかる。相手が電話を切れば、それもわかる。でも電波の先にいる人がどんな顔をしているのかは一向にわからない。
ぼくは電話をしまって、どんぶりに残った飯を掻き込んだ。
外に出ると雨が降っていた。
ひっかいたような細い筋が遠くの窓に流れるのを見た。
ぼくは冷たい雨が好きだ。カバンの中にはちゃんと折り畳みの傘が入っている。でもそれを差すことはあまりない。
つむじのあたりに何かが落ちてくる感触がして、むき出しの手にも雨粒が落ちた。足元の地面にはぽつぽつとした跡ができ始めていた。
ぼくは朝来た道を辿って、家に帰った。
扉をくぐるころには、髪はぐっしょりとぬれぼそっていた。このところひたひたと近づいていた夏の気配も、今日はもう退散したようだ。
温かい風呂に使ってから、窓辺に立つ。
黒いアスファルトは街灯の光を受けてぬらぬらと輝いていた。灰色の雲は厚く広く。まだ雨は続いていた。
誰もいない一室を見渡すと、机の上に置かれている新聞が目に入った。その傍らには洗い忘れたコップが置いてある。
『幸せを知りませんか』
その文字が自然と目に入ってきた。
幸せをしりませんか。それをなぜ求人欄に乗せたのかは、わからない。でもあの声はきっとそれを本気で探しているのだろう。
夕飯を食べて、布団に入った後も、ぼくの頭の中にはあの広告があった。
ぼくは長い間目を閉じて、そしてついにあきらめて起き上がり、カーテンを開けた。
雨に濡れた街の赤信号が目に入った。歩く人はまばらだ。
僕はそのまま暗い部屋に一人佇んで、夜の街を眺めていた。
そして気が付いたらまた電話を掴んでいた。
白く光る液晶が目に染みた。なぜかその無機質な光が何かを損なってしまうような気がして、一瞬手を放しかける。でもどうしてかぼくはその時無性に誰かの声が聴きたかった。
ぷるるる、がちゃ。
『はいどちら様でしょうか』
今が何時かなんてわからない。声は変わらずそこにあった。
「いえ、朝新聞を見たものですけど」
『ああ、そうですか。では見つかりましたか』
咽喉の奥で言葉が詰まった。誰でもいいから声が欲しかったんです。そうは言えなかった。
「…あの、どうしてあんな広告を?」
ぼくは知らず知らずのうちにそう尋ねていた。
『いえ、実は幸せを探してまして』
こともなさげにそういった。ぼくにはそれがうらやましい。
『もうずっと探してるんですけど、これがどうにも見つからなくて、新聞で探せば見つかると思ったんですが』
「…はあ、そうですか」
そうとしか言えなかった自分が恨めしい。
『幸せ、どこかで見かけませんでしたか』
どこまでも軽やかに、電話口から声が流れた。
自分は今夢を見ているんじゃないか。ぼくは唐突にそう思った。電話の向こうには誰もいなくて、ただまどろみの中にある声を聴いているだけなんじゃないか。電波によってつながった窓の先には、誰もいないんじゃないか。
『幸せを知りませんか』
「……いえ、知りません」
ぼくは絞り出すようにそう言った。胸にちくりと痛みが走った。ぼくはその痛みをもう一生忘れることはないだろう。そんな予感があった。
『そうですか』
電話の主は少し寂しそうな声でそう言った。
『では、いつか幸せを見つけられることを願っています。その時はどうか私にも教えてください』
次の瞬間には電話は切れていた。
ぼくは硬質な光を放つその画面をまじまじと眺めていた。
町は静かに煌めいていた。
気が付くと朝になっていた。ぼくは壁に背を預けたまま眠っていた。立ち上がると、背中からバキバキという音がした。
時計を見るともうだいぶいい時間で、ぼくは慌てて身支度をすると、ごみ袋を掴んで家を出た。
路面はまだ濡れていたけれど、雨上がりの空気はどこまでも透き通っていた。
ゴミ袋を出してから大学に走る。また今日も、今日が始まる。
一通り講義を終えて、昼になって、その時ぼくは大変なことに気が付いた。
さっき放り投げたごみ袋の中にあの新聞紙を突っ込んでしまったことを思い出したのだ。
慌てて家の前につくと、ごみ捨て場にはもう何も残っていなかった。
電話を取り出してみれば、履歴の一番上に見慣れないあの番号が残っていた。ぼくは理由もなくそれを押して、耳に当てた。
『おかけになった番号は現在使われておりません』
硬質なアナウンスだけがそこにはあった。ぼくはあきらめきれずにしばらく電話を耳に当てていたが、やがて切った。
もうどこにも雨の跡は残っていない。
あれ以来あの声を聴くことはない。
あれからも繰り返し履歴を辿って電話をかけたが、いつもきまって機械的なアナウンスが流れた。いつしかそれもやめた。
それでもぼくの脳裏にはあの軽やかな声が残っている。
いつかまたあの声に出会えるかもしれない。
いつかまたあの求人広告が載るかもしれない。
眠れない夜はよく思い出す。
いつか、いつの日か、また電話をするだろう。
その時には
『幸せを知りませんか』
「うーん、そうだね。そういえばこの前……」、なんて。
言えるように生きていきたい。
そんな日が来ることを願っているんだ。