翼のない天使
完全な暇つぶしです。
天使。
ボク以外の人間がそれをどう形容するかは甚だ知り得ないことだが。おおよそ考えてみることにしよう。
神話に準えるなら、シックスパックに割れた腹筋と厚すぎる胸板に中肉中背のボクのような人間の三、四倍はあろうかという太い腕を見せつけて、さらには純白の翼を持っているような頭がおかしい姿か。
あるいは今風に考えれば、白ワンピースを着て、純白の翼を見るからに美少女以外の表現がわからない少女が生やし、なおかつ後光を輝かせつつ空から舞い降りるなどか。
前者はぜひとも天界にお戻りいただきたい限りだが、後者に至っても親方空から美少女が!! とか叫びたくなってしまうからできれば普通に出会いたいものだ。
ともあれ、どうしてこのような考えを比較的優秀ではない頭で繰り広げているかと言えば、もちろん脈略がないわけじゃない。
ボク――白石白兎は放課後に一人しか部員がいない読書兼創作部という部活が占領するなにもない教室で読書に励んでいたわけだけれど、今まさに天使と呼ばれる体操服を着た少女と出会ってしまった。
「……これは珍しいお客さんだ」
「無理して大物ぶらなくていいから。あんたがコミュ障で人と目を合わせるとキョドる陰キャだって知ってるから」
「ねえ、もうちょっとオブラートに包もう? 幼馴染つったって礼儀ってのがあるでしょ?」
黒川姫華。ボクが天使と表現した少女の名前だ。黒髪ショートの天パで、元気ハツラツなスポーツマンタイプ。これのどこが天使なのかぜひともご教授願いたいが、おそらくはクラスに必ず一人はいる誰にでも分け隔てなく接する“天使”のような存在というやつだろう。
言ってしまえば都合のいい女というやつだ。本人には言わないけど。
で、ボクはこの女と幼馴染なわけで、彼女がこの教室に来るのは本当に珍しい。
先にも言ったが、彼女はスポーツマンだ。スポーツウーマンと言ったほうがいいか。ともかく、彼女はボクのような根暗――じゃない、シャイな人間がほいほい会えるようなカーストの人間ではない。
場違い。ボクはこの状況をそう表現するだろう。
とりわけ急いでいたわけでもないし、幼馴染ということもあってお馴染みのテンパるということもないから本を読みながら姫華が来た理由を問う。
「んで? こんなしがない読書兼創作部に何の御用で?」
「別に? 暑いからエアコンがある教室に来ただけだけど」
「帰れよ。てか部活は」
「休憩」
休憩て……。
休憩で他の部活の部室に来るものじゃありません。帰って、色っぽいから。運動後のなんか女の子の匂いが増したあなたの体は童貞かつコミュ障のボクには害でしか無いから。
もちろん、そんなことを言葉にできるはずもなく、ボクは黙々と本を読み続ける。鼻息が荒いのは、花粉症だからだろう。今は夏だけど。
「今日は何の部活の手伝いしてんの」
断っておくが姫華は決まった部活に所属していないわけではない。とはいえ普段は帰宅部という部活に所属しない者たちが自分たちは部活に入部しない不届き者ではないと便宜上名付けられただけの無所属だが、姫華は大会のシーズンが近くなると手伝いとしてあらゆる部活に顔を出すのだ。
そして、何の手伝いも無ければすぐさま家に帰るはずの姫華が学校に残っているということは、何かしらの部活の手伝いをしている理由になる。だから、どの部活の手伝いをしているのかという話題が尽きたから試しに聞いてみた次第だ。
しかしながらよくもまあこのクソ暑い中、青春という暑苦しい行事に性を出せるものだ。ボクなら熱中症で死んじゃうね。その前に対人恐怖症によるショック死が速いか。
ボクの質問に答える前に、ふてぶてしくも教室に入って適当に空いている席に座って、手団扇で仰ぎながら暑そうに答える。
「秘密」
「なんじゃそれ」
可愛らしく言えばいいってものじゃない。ほんとかわいいな、クソ。ボクがイケメンだったら一瞬で告ったわ。んで断られる。断られるのかぁ……。
まあ、聞いたところでどうにもならないしいいかと、ボクは持ってきたは良いが使用していないタオルを姫華に投げる。
「さんきゅ」
「水が欲しけりゃ買いに行け」
「あいあい」
なおも本を読み続けるボクは、たまにあるこういう時間に慣れていた。
どうせすぐ居なくなるとボクはページを捲りながら思う。
比較的気持ちのいい天気だった。暑さを考えなければ概ね幸せな日と言えるだろう。エアコンも効いてるし。
数ページ読んだところで、何やら我慢の限界が訪れたらしい姫華がぶーぶー言い始める。
「ねえ、暇」
「ならボクが書いた駄作でも読むか?」
「なにそれ。本無いの?」
「生憎、読書兼創作部は部員不足により部費が支給されないんでね。読みたきゃ図書館に行って借りてこい」
「ぶぅ。じゃあ、あんたが書いたやつでいいや」
「え゛」
冗談で言ったつもりだったのだが、どうやら本気に取られた。えー恥ずかしいなー。今更だけど、ダメって言っちゃまずい?
返答まで約三秒。ボクは比類なき凡人な脳をフル稼働させて平凡な答えしかできなかった。
「やっぱダメ」
「殴るよ?」
「暴力反対」
すっと立ち上がる姫華に合わせて立ち上がるボク。もちろん、姫華ズジョークだが、なまじそこらへんの男子生徒より筋力があるため、もしもに備えて準備は大切だと思う。
そうして、しびれを切らして姫華は肩を落とす。さらに、自分が座っていた椅子を片手に持ってボクに近づいてくるではないか。それで殴るの? 冗談だよね?
「ごめん」
「何が?」
「いや……なんとなく?」
ともかく先に謝ったもの勝ちだと謝罪してみたが、ボクが座っていた椅子の横に持っていた椅子を置いて、女の子らしからぬ背もたれを前にして座った。いわゆるパンティー丸見えというやつだが、ボクは姫華に男とすら認識されていないようで、どうやら気にならないみたいだ。
だけど、一体なんだっていうんだ。さっき座ってた場所のほうがエアコンの風が当たって涼しいはずだけれど……。
ん……と。手招きされてボクは首をかしげる。
「なに?」
「仕方ないから一緒に読も」
「何を?」
「それを」
言って指さされた先にはボクがここ最近時間を取っては少しずつ読み進めてきた本がある。
もしかしなくとも、これを一緒に読むというのだ。
「……部活は」
「休憩」
「さいですか……」
勝ち誇るように鼻を鳴らす姫華にボクはそれ以上の文句は言えそうになかった。
何より、ボクは別に姫華が嫌いではないし、何だったら隣で座られていると認識するだけで吐き気がするほど幸せだ。うっぷ。
我の強い姫華に負けた形で、ボクは椅子に座って続きを読み始める。姫華はボクの読む速度についてこられているのか怪しいが、文句を言わないからついてこれているのだろう。それから、時間はゆっくりと過ぎていく……。
「あっ」
下校チャイムが鳴った。
時計を見ると、五時を指し示している。
どうやら、読書を始めて一時間が経過してしまっていたようだ。
「日も落ちてきたね」
「そうだな……帰るか」
「荷物持ってくるから待ってて」
返事も待たずに駆け出す姫華の背に、ボクはふと疑問に想ったことを問う。
「部活は?」
休憩を始めて一時間。それほど姫華が好きそうな内容ではない本で、どうして姫華はこんなにもこの教室に居続けたのか。
聞いたところでどうとなるわけではないことは知っている。姫華にとってはこれは休憩で、ボクにとってはそれが疑問であるというだけ。
扉を開いたところで振り返り、姫華は少し考える。
そして、艶めかしいような幼いような、明るくてはつらつとした笑みを見せて、こう言った。
「秘密♪」
まさしく天使と呼ばれる所以だ。遺憾だがドキッとしてしまった。頬も調子が悪いようで緩んでしまう。
そうして飛び出していった翼のない天使を眺めながら、ボクは小さく息を吐いて帰り支度を始める。
ただし、読み終えていない本を片手に持ちながら。