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高校生活三回目の十月を迎える。あと高校生活も半年。この時期になると、就職か受験かの二手に分かれた空気が流れていて、居心地は悪い。
朝。おれは洗面台の鏡で身だしなみをチェックしていた。
「セットが崩れないようにドライヤーをかけてと、服装も完璧だな」
まじめに学校なんて行っていたら死んでしまう。舐められないように髪を固めて、制服は気だるく決める。
よし、いつも通りだ。
「あとは、羽花を起こしに行くだけか。なかなか起きないんだよなぁ、あいつ」
羽花――此処風羽花はおれの幼なじみの女の子だ。出会いは小学校の入学式での些細なできごとだったりするのだが、ここでは省略させてもらう。
おれの家がある住宅街から通学に利用する駅までが徒歩十分弱。それを逆行し、十五分のところにある集合アパートが羽花の住まいだ。
毎日そこまで起こしに行く。正直、前述した通り小学校からずっとで、羽花が朝弱いのはもうわかり切っていて面倒だとかは、いまさらない。
雲ひとつない空と人通りも少ない閑静な道中を小走りで抜けたのち、いつものように預かっている合い鍵で年季の入った錆びた玄関を開ける。
「来たぞー」と合図を送るが、当然返事はない。玄関が静かに金属音を立てて閉まる。家の中は朝に置いていかれたように暗い。本当に同じ世界だろうか、と毎日疑ってしまう。
とりあえずクツを脱ぎ、上がってすぐある羽花の部屋にノンノックで突入する。想像するようなエッチなハプニングなど期待していない。
だって――
「うわ……土日のあいだに酷くなってる。臭いもキツい。よく寝てられるな、あいつ……」
お部屋ならぬ汚部屋だからだ。
ドアの開閉ぎりぎりまで散乱した服、雑貨、雑誌、紙くずはもちろんのこと進んでいくと折りたたみ式のテーブル周辺に捨てずに並べ、山のように積まれたペットボトルと弁当容器。整理整頓のせの字もなかった。
そして、汚部屋特有のあからさまな自己スペースとおもしきサークルが。で、真横にはこんもり膨らんだ寝床。なにもかもがだらしない幼なじみだった。
「おーい、おらおらおら、羽ぅぅ花あああぁ、さっさと起きれっての」
激しく毛布の上から揺さぶる。それでもピクリとも反応を見せない羽花。ため息を吐きながら仕方ないので、掛け布団を引っぺがす。
すやすやと心地よい寝息を立て、猫のように寝ていた。
ゆるゆるのTシャツにストライプ柄のショートパンツ。なんとも羞恥心のない格好。
「うー、もう朝?」
「朝? じゃねぇ。あと五分でHR始まるわ」
枕元のスマホで時間を確認するため寝返りをし、身体を仰向けにする。おれたちは十八になった。十八にもなれば大人に相応しい体格をしていて、ましてや男女二人きりの空間にともなれば、喉が鳴るのも自然の摂理ではなかろうか。
なにが言いたいかと言うと、おれの幼なじみ――此処風羽花はスイカップだった。神に感謝した。祈りを捧げた。聖剣の素振りが捗った。
若く成長したその乳房は、ロケットのように上へ上へと腺を張っているし、着ているTシャツも今にでも爆発しそうである。
正直、揉みたい以外の感想がここ数年ない。
「眠い……ボタン押していいなら学校行く」
しかし、寝覚めの顔は酷いもんだ。目の下にクマができている。どうせ遅くまでアニメか漫画でも読んでいたんだろうし、自業自得だ。
それでも寝足りない羽花は時間を確認しておきながらも、おれの首に下げているボタンに指を差す。
「ダメだ。バカ言ってないで起きれ。おっぱい揉むぞ」
バカやる幼なじみには、バカで返した。羽花をまともに相手しては時間が足りないのだ。諦めさせる方向に追いやる。これが一番の対処法なのをおれは知ってる。
おれのバカに羽花は、ムクリ上体を起こした。敗北を喫した戦士のような顔で。
「揉む度胸もないくせに。胸だけに」
あくびをし、胸をたゆんたゆんに弾ませて言ってやったりとおれを一瞥する。そこまでうまいこと言ってないぞ。
「ギャグ言える元気があるなら大丈夫だな。ほら、シロムクが作ったスムージーだ。着替えて飲んだら行くぞ。それまでおれは羽花がポイしてたパンツでも眺めているから、急げよ」
髪は女の命、と日々手入れを怠らない羽花。就寝時も傷まないように、とダンゴでまとめているほどの徹底ぶりだ。
眠気まなこをこすりながら後頭部に手を回して髪を解き、ようやく準備を始める。
「うー、そこ置いてて。あと、あーくんは廊下に出てて」
前言撤回。羞恥心は残っていた。パンツも没収された。
十五分後。走って駅に向かった。次の電車に乗れば、ギリ二時限目ってところか。
秋になり、羽花の夏服も見納めに近い。真っ白いブラウスに膝上の紺スカート。学年ごとに色分けされた青色のネクタイ。
ただ一緒に走るのもなんだ、と両肩にバッグもかけていたし「今日も撮影か?」と会話を挟んでみる。
「あるよ。昨日は雑誌で今日はグラビアだけどね。あーくんと違って忙しいから私。授業終わってすぐスタジオ入って、帰るのも昨日と変わんないかな」
なんか棘のある言い方だな。スマホをポチポチいじり、道路上の安全をおれにまかせているくせに。
「じゃあさ、羽花は卒業したらどうするんだ。いまの仕事続けるのか」
「続けれるなら続けるつもりでいるよ」
顔を上げず、淡々と答える。
羽花は読者モデルとグラビアを掛け持ちしている、いわゆる『モグラ女子』をやっている。
小学校に上がって、すぐのころから読者モデルをやり始めて、雑誌を転々としつつも現在もなお、自前のルックスも相成ってか、たびたびファッション誌からオファーが来るらしい。
グラビアのほうは、高校生になってから解禁した。おっぱいも大きいし、こっちのほうが需要は高いみたいだが。
「でも……やめれるなら続けたくない、かな」
次は、いじっていたスマホから顔を上げて口ごもるように言った羽花。
「どうかしたか?」
「どうもしないよ。モデルもグラビアもお金が欲しいからやってるってだけだし、そうじゃなかったらとっくにやめてたなぁって。とくにグラビアはもうしたくないなぁって。身体のケア大変だし、愛想笑いも疲れたし、なによりエッチな目で見られるのがすごく嫌、ってだけ」
やめてもやることないし、と付け加えるとおれから視線を外した。
腰まで綺麗に流した黒髪、シミひとつ作らないよう全身に気を配った透明感あるツヤ肌、柔らかそうなおっぱい、くびれのついた腰、太って見えないよう引き締まった脚、それら全部。
若いからって、だけの理由で見られても恥ずかしくない身体作りをかかさずやっているのをおれは知っている。
決して美人とは言えない顔立ちも一因なのかもしれないが、羽花が努力家なのを知っている。理不尽な世界に身を投じていて、それでも必死こいて頑張っているのも知っている。
知っているから、すべてひっくるめて思ってしまった。
なぜ急に愚痴になった!?
いやあのさ、当の本人は単に愚痴をこぼしただけにすぎないだろうけど。そこを踏まえてもおれは驚きを隠せなかった。羽花はこの手の不満を一切漏らさなかったから。
ちょっと嬉しかった。もっとほかにも言わないだけでツライ仕事もたくさんあって。せめて助け舟ぐらいになりたい願望はずっとあった。
気を引き締めるんだ。むやみやたらなアドバイスは厳禁。簡単に、嫌ならやめりゃいいじゃん、とか論外、論外。ここは羽花の気持ちを汲み取って……
「気休めになるかわからんけど、おれがやめていいって言ったらやめるっていうのはどうだ。自分でやめるタイミングを見つけるのは難しいしさ、どうよ。おれに委ねるのは」
横断歩道に差しかかり、信号が赤に変わる。ここを抜けたら駅はすぐそこで……。
視線がぶつかった。
羽花は豆鉄砲を食らったようにキョトンとした顔を浮かべている。そこまで変なことを言っただろうか。すげえ不安になってきた。
反対の信号が点滅を始める。急いで横断歩道を渡る人を遠目に傍観していると突如、羽花が笑いだした。
「なにそれ。あーくんキッモー。マジキモいんですけどー。なに勝手に彼氏気取ってんのー? さすがの私もドン引きするよ。何回も言うけどさー、あーくん眼中にナイから!」
道の真ん中でひと目をはばからず、腹をかかえて笑う。口説いたつもりはまったくないんだが、フラれたショックは羽花のおっぱい並にデカい。
「そこまで笑わなくてもいいだろ。真剣に心配してんのに」
「あははは、そっかー、そうだよねー。ごめんごめんって、あーくんのキメ顔がおかしくって。嬉しい、嬉しいよ。心配してくれてるんだぁって。うーん、気持ちだけ受け取っとく」
そう言った羽花は一人で駅の構内に走っていった。バカの相手は疲れる。羽花はまったく、まったく。と、嘆息を吐きつつ後ろを小走りで追いかけ、ホームに上がると三分ほど時間が余る。
朝のピークが終わったホームは閑散としていた。
少ない列に並んで、前にいる羽花がメイクを始め、おれが手鏡で髪の再チェックをする。いつも通りだ。たとえ稀に現れるケースもまた、おれの日常の一部となるのだから。
「あの、首に下げてるボタン、押してもいいですか? ムズムズが止まらないんです」
振り返ると、同じ制服を着た女子がいた。タイの色から察するに一年生のようだ。……んなことはどうでもよくて、思春期の男の子に開口一番に『ムズムズが止まらないんです』と言ってきた子は瞳を潤わせていた。
「すまねぇけどさ、我慢してくれると助かる」
「で、でもでも……! 私、この気持ちにウソつきたくなくて、どうしても……ダメ……なんですか?」
仰々しく、詰め寄るように懇願してくる。知らねぇよ、と顔が引き攣りそうになるが、なにより傍から見れば誤解を招く状況だ。
「何度頼まれてもダメなものはダメだ。おれから五メートルぐらい離れたら押したい気持ちは薄くなる。だからさっさと消えろ」
個人的に用意してあるテンプレートを使って、手であしらった。しかしそう易々と女の子は食い下がってはくれない。
「でも……」
「でもなんだよ。あんましつこいと、エロい要求するぞ? いいんか?」
おちょくる感じに女の子の身体をつま先から頭まで舐めるように目でなぞった。びくびく震えているくせに、逃げない愚か者にはぴったりな代償だ。
――が、本音はまったくそそらない。
起伏のない胴体に、四股の全部がやせ細っている。まるで汚水で育った海水魚のような肉の少なさだ。顔も幼く、いわゆる「ロリ体型」そのものだった。
近年はこのような体型に理想を持つ女の子も多いようで、おれ個人としては悲しい。
「ひ、ひ、ひ……いやあああぁぁぁぁぁ…………出直しますぅぅぅ!」
ニヤニヤを続けていると、涙を浮かべて逃げていった。
ボタンひとつ押すだけで自らの身体を差し出す女の子は存在してはならない。無茶な要求には応じないのが常識。
逃げる女の子の背中を見送りつつ、電車到着の知らせるアナウンスが流れてくる。
もうじき十年を迎えるこの生活。ホッと胸を撫で下ろす日が近いと考えると、ちょっとばかし感慨深い。いろいろあったな、と。
そこへ前に並ぶ羽花が茶化すふうに喋りかけてくる。
「人気あるよね、あーくんって。だからひとけがない時間に登校するんだ。人気だけに」
メイクが済み、桜色のリップを光らせたドヤ顔がお出ましだった。
「ああそうだな、そうだな。ほら、乗った乗った」
羽花のギャグを軽く受け流して、空席の目立つ電車に乗りこむ。
ここらで手短にだが、ボタンに関して、この十年でわかったことを整理しよう。
まずは一定の距離間に踏み入ると、先ほどの女の子がなっていたようなボタンを押したくて堪らなくなる衝動の電波を発信しているらしい。
主な対象は性別問わず、おれの年齢から前後五歳までで、大概の場合がさっきの女の子みたいな我慢ができている状態だ。たまに理性の壁が脆く、襲ってくる輩もいるが逃げればどうにかなる。
そんな危険なボタンを持っているおれが通学ラッシュの電車に乗るわけにもいかず、対策を講じたのが通学時間のずらしであったのだが、やっぱりというか世の中には物好きがいて、わざわざ待ち伏せてまでボタンを押そうとする者もいて、それがさっきの女の子だ。すぐ引き下がらなかったのが今までの経験上、確信を持って言える。
例外はない。歳が近いだろう子が通りすがりに声をかけてきたり、懇願されたり、強引に飛びかかってこられたりするのが、おれの十年間の日常だ。例外はない――。
例外は、なかったんだ。ほかに誰も、どこにも存在しなかった――。
作者は大小どちらも好みます。
次回は11日から13日に更新予定です。
友城にい