2-6
この学校には五十以上の部活が存在し、内三十ほどの文化系の部室のほとんどが、ここを割り当てられている。
走り過ぎていくドアに各々の部活名が書かれたプレートがぶら下がっているのだが、摩訶不思議なのも交ざっていなくもない。
……見なかったことにしよう。いま、おれと羽花が走るのは一本道の廊下だ。元・宿舎だった部活棟は入口を頭に空から見て、逆T字の造形をしている。
階段は一階二階の上り下りだけなら三ヶ所あり、おれたちが上ってきた反対側のシンメトリーあたりと、突き当たりを曲がった廊下の奥にもある。とりあえず、おれと羽花もそこの廊下に入った。
しかし、どうすれば。生徒数に比べ、部屋数の多い部活棟。当然、空き部屋も所々散見される。どこかの空き部屋に身を隠すのも手だが、鍵がかかっていた。当たり前か。
闇雲に一階に下りるわけにもいかず、だからとステイしてはいずれ挟み撃ちの餌食に。と、ぶつぶつ独りで思考を巡らせていると、羽花がどこか懐かしげな語り口で、引っ張られる手を引っ張り返してきた。
「こんなこと、前にもあったねぇ。ある日突然、あーくんが人気者になって。そして、私だけが人気の理由がわからない。あーくんは、いつものあーくんなのにさ」
「そうだな。おれにもさっぱり」
「あーくんそればっか。私は人気者になりたくて毎日がんばってるのにさ。あーくんだけずるいや」
事情を把握していない羽花にとっては、あの群衆もおれの追っかけにしか見えない。なんとも、はた迷惑な追っかけだが、羽花は過激なファンじゃなくとも追っかけがつくぐらいの人気は欲しているらしい。
仕事に熱意のある証拠だ。実際、自覚していないだけで今日追いかけられた生徒以上のファンはついていると思うのだが、灯台下暗しというべきか、羽花は悔しそうに笑った。
「ずるいな、たしかに。でも、おれはこの人気の理由がわからないんだ。けどさ、羽花は人気者になれば、きちんと『人気の理由』がわかるだろ。理由のない人気は、恐怖でしかないんだからさ」
つないだままだった手を放した羽花は、おれの前に歩く。まるで時間を買ったように、周りの音が消えた。危機的状況なのに、羽花の二の句が気になって仕方がない。
三歩ほどの距離を作った羽花は踵を返す。陽光に照らされながら、おれを見てきた瞳は、悪戯心に満ちていた。ついさっきまで浮かべていた顔はどこへやら、となる。
「まーた、あーくんが私を口説こうとしてるー。私の意思を無視して、手ぇつないで逃げるとかどこの映画なのってカンジー。あーくんまさかロマンチストってやつですかー?」
「だーから、違うっての。もしおれが羽花を口説くんなら、もれなくお前のおっぱいを揉ませてくれって口説くから安心しておけ!」
「あはは、なにそれー。面白ぉー。まあ、堂々とセクハラ発言するのあーくんぽいけどー」
けらけら喉元が見えるぐらい口を開けて笑い飛ばす。
心配して損した気分だ。結局は予定調和に落ち着いている。イマイチ掴めない、羽花の気持ち。前日の不満の吐露も最後は茶化されてしまった。
何度挑んでも、羽花はおれを領域に入れさせてくれない。バカのくせに、偉そうだ。バカのくせに、バカのくせに、バカのくせに、とこれまで何度も思った。何度も。
「――そういえばさ、今日はアレ使わないの?」
アレ、とは超音波のことだ。使ったところで時間稼ぎにもならないのは、言うまでもない。音が帰ってきて、足音の近さを実感する。
「アレは使えない。とりあえず走るぞ!」
先の階段を指差して羽花を行かせる。昨日までの日常が嘘みたいだ。生徒どもは、我を忘れた暴徒のようにおれ目がけて、押し迫ってくる。
もう見ている余裕はなさそうだ。おれは向き直り、階段の手前に来た羽花に「外に出ろ」と叫ぼうと、そ、の一文字が口から発する瞬間、何者かによって封じられた。
追いつかれる距離に生徒はいなかったはず。
「こっちに来て」
女生徒の声が背中越しに聞こえて、布ハンカチで塞がれたまま、どれかの部室に強引にさらわれる。
咄嗟のできごとすぎて、抵抗ができなかった。女生徒は後ろ手で部室のドアに鍵をかけて、おれを元・居間だったとおもしきフローリングに突き飛ばす。
「ここなら見つからないし、捕まらないでしょ?」
上履きを脱いで、不利な体勢のおれに被さってくる。
ネクタイの色から二年生のようだ。ショートボブに見つめてくる目と顔は可愛い部類で、前屈みのおっぱいは申し分ない大きさ。……じゃなくて、ヤバいことになった。
「なにが狙いだ。おれを独り占めして」
「そんなの言わなくたってわかってるくせに、いじわる。そんなの、里仲せんぱいの――」
なぜおれはこのとき期待していたのだろう。手足は自由に動かせるのに、シチュエーションと指令の『性的衝動』に胸を膨らませていた。
おれは見事に『性的衝動』を一面性でしか捉えていなかったのだ。
女生徒はスカートのポッケをもぞもぞ漁って、鋭利に光る文房具を指で持った。
「おち●ちんを去勢するために決まってるじゃないですか」
これ見よがしにハサミの刃を交差させて、興奮とヨダレで可愛い顔が歪んでいく。
「ギャーーーーーーーーーーーーーッ! そんなもん誰がさせんだよ!」
性的衝動の意味合いがセックスしか頭になかったおれを殴ってやりたいが、まずはこの子から逃げなければ。
「私、小さい頃からおちん●んが大好きで、いつか本物のお●んちんをコレクションしたいって思ってたの。里仲せんぱいが栄えある第一んちんよ。勃起した? はぁはぁ……」
「玉ヒュンしてるわ! いいからどけ。どかねぇなら、力づくでどかすぞ!」
マウントポジションに腰を落とす女生徒を払い除けるように、じたばた暴れるが、走った疲れでうまく身体が機能しない。
「諦めた? せんぱいは、学校でも随一の荒くれ者とお聞きしていたんだけど」
万事休す。走るのやめた途端、ドッと足が重くなる。さらば、おれのおいなりさん。……なんぞ、できるかー!
「せんぱい、せんぱい。はぁはぁ、もう我慢できない。せんぱいのおちんち●は、私のモノになるんですか――ら……」
足が動かないなら手で抗ってやると裾やスカートを掴んで、ぐらぐら揺さぶってやる。どさくさに紛れて、おっぱいを揉んでやるとも考えていた矢先、女生徒がおれに倒れてきた。
鈍い打撃音を立てて。
「不純異性交遊は許されません!」
凛とした渾身の正義の鉄槌。女生徒は余韻なく、目を回していた。やり過ぎに思えるが、おれとしては助かった。
「ありがとう委員長」
「うん。え、あれ!? 気絶してる? わたしそこまで強く叩いたつもりないんだけど……」
どこでもミニマムな女の子――野々河琲色が、後頭部らへんを叩いたであろう部活棟の防犯用に設置してあったサスマタを持ちながら、おどおどしだした。
「興奮状態だと落ちやすいらしいからな、気にしなくて大丈夫。それより、よく入れたな、鍵かかってたはずだが」
「えっと、田畑先生に『里仲を探してくれ』って、マスターキーを預かって、で、二階に上がったら知らない制服の人もたくさんいて、その先に偶然、晰くんが口を押さえられて入っていくのが見えて、すかさずサスマタを装備した、のです」
視線を合わさず俯いて、しどろもどろに話してくれる。男性恐怖症を知らなければ誤解を受ける反応だが、いじらしい感じを見るに、やはり委員長にも衝動の影響はない。
……うん? あれ? それって……。
『開いてるぞー! かかれー!』
ああああ、完全に手遅れだ。瞬く間に人ごみが流れこんでくる。廊下に逃げる選択は途絶えたに等しい。
ベランダに出るか? いや、ダメだ。脱出できる高さじゃない。残されている道は……。
「委員長! そこの部屋に立てこもるぞ!」
「え? でも、そこってたしか……」
なにか言いかける委員長のサスマタを借りて、威嚇をしながら部屋の奥に冷蔵庫を横に置けるぐらいの通路とドアがあるのを見つけた。とにかく後先考えずに突入したのだが。
「――せ、狭い……あとここって……」
「ご、ごめんね。言いそびれちゃって。ここはデッドスペースを利用したシャワールームになってるの。簡易だから、一人用らしくて、ごめんね。知ってたのに」
「まあどちらにしても逃げ道はなかったし、知っててもおれは入っただろうから謝らないでくれ。それより、大丈夫か。委員長の身体、震えてる」
天井の電気にオンオフがあり、オンにしてようやく委員長の状態がわかる。このシャワールームは委員長の説明の通り、最低限の設備しかない。おれ一人なら屈伸ができる狭さで、委員長とは目と鼻の先だ。
委員長は小刻みに震える手をもう片方の手で押さえる。委員長を連れたのは正解で、間違いだった。外に男子生徒も多く、委員長を苦しませたくなかったのに。知っていれば、委員長だけでもベランダに行かせる選択を取れたかもしれない。これでは本末転倒だ。
「……晰くんは、信頼してるから、だいじょうぶだよ」
絞りだしたような気弱な声に胸が締めつけられる。過剰な息遣いが密閉空間にいるせいで、余計に耳に届いた。
早く現状を打破しなければ、という焦りがおれの冷静さを奪う。果報は寝ていられない。そのとき、シャワールームの向こうにいる生徒どものドアを蹴破る一身の激突に動揺し、シャワーを作動させてしまった。
きゃ、と可愛らしい反応が漏れる。
「す、すまない委員長。わざとじゃないんだ……。こっからどうすればいいか考えてたらレバーに手が当たって……」
水はすぐ止めたが、お互いずぶ濡れになった。濡れた委員長の髪は艶っぽく光る。結んだお下げからは水が滴り、真っ白なブラウスは当然のように透けていた。
委員長は重ねて着ていないようで、オレンジ――違うか、緋色のヒモが肩に浮かぶ。ラッキースケベな場面だが、ただただ謝り倒す。
「いいよ、気にしないで。どうせ暑かったから。で、でも……あっち向いててほしいかな。恥ずかしいから」
「すまん! 詫びにおれのシャツでよかったらタオル代わりにでもしてくれ……」
可動域が少ない中、どうにか転回してシャツを渡した。おれはスクーツシャツの下にもう一枚着ているから、半裸にはならない。
なんだかラブコメな雰囲気を醸すが、ドアは殴る蹴るのダメージを受け続けている。安価なプラスチックでできたドアが丈夫なわけがなく、見るも無残にへこむ様を眺めることしかできないでいた。
マズい、マズい、マズい。最後の砦も時間の問題だ。いつ壊れても不思議じゃない。もし、壊れたらどうする。委員長を盾に情けなく逃げるのか。嫌だ、委員長を盾に使うぐらいなら、ここで権利を失うほうが千倍もマシだ。
「ねぇ晰くん、教えて。これってどうゆう状況なの。みんながただ晰くんを目当てに追いかけているとは、わたし思えない。みんな怖い顔してた。まるでなにかに取り憑かれたみたいに」
「…………」
「……やっぱり、晰くんがずっと首にかけてるボタンは、関係あるの」
委員長にボタンについて聞かれるのは珍しくない。教室の配置やセカヒシロムクの存在にも、疑問を呈されたことがある。羽花のように誤魔化しが効かない分、丁寧を答えた。
「ボタンは関係ない。この騒動もなにかの誤解が招いた結果だ。おれ自身も理由がわかってなくて今調べを進めてて事態の収拾を待ってるところで。委員長は、心配いらない」
出まかせを早口に吐く。
良い気はしないが、真実は言えない。壁に向かっていたから言えた言葉だった。委員長は納得していない声音で、そうだったんだね、と言った。
そこに不意に強い衝突音が消え失せて、指で叩いたノックがされる。
「晰さま、屋上に来てください。三分以内で」
セカヒの声だとわかり、急いでドアを開けたが、セカヒはいなかった。セカヒもいなかったが、神隠しに遭ったように生徒どもも最初に襲ってきた女生徒ごといなくなっていた。
謎のホラー要素に寒気を催すが、いったいどんな手を使ったのか。時間確認にスマホを取り出すと、羽花から一件メッセージが来ていた。そういえば、あの場に置いていってしまったのか。
「えっと、『あーくんいなくなったから、教室で寝てる』。なんの心配もいらんかったか」
「そういえば、髪、いつもと違うね」
どこの何部かもわからないフローリングの真ん中に向かい合って立った委員長が、さっきとは打って変わっておれの目をジッと見てきた。
「髪? ああ、朝急いで出てきたからセット忘れてな」
おれが渡したシャツをタオルにせず、委員長は袖を通していた。サイズに差がありすぎて、かなりぶかぶかで、彼女に着てほしいランキングに入る格好なのは間違いない。
男性恐怖症の症状は千差万別かもだが、委員長の行動は逸脱してそうな気がする。
こんなことされると、おれが恥ずかしくなった。
「じゃあ、おれ、屋上に行かなきゃだから……」
「好きです――――」
「……え?」
ドアに歩くおれのTシャツの後ろ裾を掴んだ委員長からの九百十回目の告白をされた。
「好き。ずっと好きです。はじめて会ったときから、晰くんへの想いは誰にも負けません。わたしと、付き合ってください」
誰かに「好き」と言われる幸せを、おれは忘れたことはない。たとえ同じ人から九百十回の「好き」だとしても、おれは世界一の幸せ者だと断言する。
でも、肯定も否定も強くできない。シロムクのアドバイスの通り丁重に断りを入れる。
「ありがとう。こんなおれを好きになってくれて。でも、付き合えない。ごめん」
「そ、そっか。今日も……だめだったんだ。うん、わたしこそ、時間ないのに告白を聞いてくれてありがとう。また、あとでね」
涙袋を潤わせて、おれを見送った。抱きしめてぇ、めっちゃ抱きしめたくなるがおれは廊下に飛び出した。
閉まるドアの向こうの委員長を想像しないように、おれは屋上だけに頭を埋めて走る。やはり生徒はいない。
冗談抜きで神隠しを起こしたのか、と脳裏をよぎったがカラクリはすぐにわかった。
「正体はこれか……」
窓から見下ろすと生徒どもは皆、外に追いやられていたようだ。呻き声がガラス越しに聞こえてくる。色気作戦はうまくやったようだ。
だが、三分の制限を設けていたのはバリケードの持ち時間なのだろう。一階から続々、起死回生の雄叫びが上がる。
うかうかしていられない。おれは屋上の階段をギシギシ膝で軋みを覚えながら上っていく。階段の下に迫った生徒どもが振り絞ったようにおれの足を掴もうと駆け上ってくる。
「こんなところで捕まるような、柔な生き方をおれはしてねぇんだよぉぉぉぉぉ!」
屋上のドアには「立ち入り禁止」の張り紙がされているが、おれは歯を食いしばって、激突を図った。鍵はかかっていたのだろうが、おれとおれの足を捕まえた生徒どものおかげで鍵が衝突に耐えられず、屋上に入ることに成功していた。
「……っ。あれ? 朝なのに、やけに空が暗い。そして、身体が軽い」
おれにのしかかった生徒どもがいつの間にか、いなくなっていた。足腰に力を入れなくても、すんなり立ち上がることができた。なんだこれ。
「まるで無重力だ。どうなってんだ」
どこを見ても果てのない銀河。屋上は宇宙だった。
そして、ポツンと立つ一人の少女の姿。
どうにか一週間後に更新できました。
本当はもっと早く更新する予定だったのが二倍以上にオーバーしてしまい、遅れました。大ボリュームなので許してください(汗)
二話で委員長の出番初だったので張り切ってしまいました。
告白シーン好きや。
次回は謎の少女が登場。はたしてその正体とは。次回をお楽しみに(早めに頑張ります)
友城にい




