2ー3
「晰さま、お気をたしかに」
シャットアウトしていたつもりはなかった、セカヒの抑揚のない呼びかけが当たり前に聞こえる。おそらく何度も呼びかけていたはずだ。
自分が怖くなった。正気に戻り、賢者タイムに近いよものが猛省を兼ねて襲ってくる。これほどの自己嫌悪感に苛まれるとは……。
伸ばした手が行き場を失い、宙をさまようが、虚空を掴んで膝に落ちた。
「あ、ああ……大丈夫。なんでもないんだ。羽花もサンキューな、心配してくれて」
あれ……? 今おれ、どんな顔しているんだ? 確認したくもないが、無理に笑うのは得意じゃない。だからって、今どんな顔を三人に見せているのかだけは由々しき問題だった。
取り返しのつかないことをしようとした。十年間の我慢も、性の衝動の前では為す術がなかった。
また同じ衝動に駆られたとき、おれは理性を保てるのか。その自信のなさが羽花はおろか、おれを全力でサポートしてくれるセカヒとシロムクさえ直視できなくなっていた。
「あーくん、私を見て」
羽花が呼ぶ。羽花は動かず、ずっとおれの前で佇んでいる。俯いたおれの視界は、羽花のおっぱいから下を映し続けた。おっぱいを目に入れるのも苦痛に感じた。散々ガン見しておいて、なんだって話だが、罪悪感がおれの心を蝕んでいる。
「見ないなら勝手に言うよ。私は、あーくんになにされても抵抗しないよ。なんで、って言われたら、私はあーくんを好きにならないから」
返事はあれど告白を挟んだのことは一度たりともないのだが、またまたフラれたようだ。
「けどね――」
だから一瞬、自分の身に起きたことが理解できなかった。
泣きっ面に蜂の言葉をかけて、積年の恨みでもあるのかと思ってしまった。バカのする行動は読めない。本当に、永遠に。
「ちょ、ちょちょちょ!? う、羽花!? いったいなにをやって――」
おれは後ろで手をついた。
ハグをされたのだ。羽花に。
朝から残暑のキツイ中を走って、汗でぐっしょりしているおれの身体に、ギュッと危ないことをやった子どもを叱りながら抱きしめた母親のように。
昨日シロムクと強制的に密接したが、また違うおっぱいの感触が胸板に伝わる。大きさ弾力が、見た目と同等に柔らかい言うよりも、張りが半端なくて形状記憶を持った生き物みたいに羽花が押しつけてなければ、すぐさま元に戻ろうとしているのが直にわかった。
――でもなぜだろう。興奮もヤラシイ感情も出ない。
羽花の体温も、息遣いも、ほんのり香るバニラエッセンスより甘いアクセントもありながらおれは、どこか形容しがたい感情が渦巻いていた。
「私はほかの誰も好きにならないよ。根拠なんてないけど、そんな気がする。求められていることしかできない私だから、あーくんの求めていることは私からしないよ。私からのハグも、これが最後になっちゃう。私がバカなだけだから、あーくんもそんな顔しないで。いつもの目で、私を見てもいいから」
「…………」
複雑だ。おれと羽花の関係は、やっぱり幼なじみ止まりなんだろうか。これ以上の関係を求めてはいけないような気がしていた。
おれが、いいのか? と言うと羽花は包みこむ声で、もうそれで慣れた、とハグを解かないままやり取りが続いた。
幼なじみに慰められる、というのは案外悪くないものだ。と、若干の負い目が残りつつ、目線を上げた先にはニマニマなセカヒと羽花のおんぶのスタンバイをしているシロムクがいた。
「そろそろこの場を離れましょう。彼らも人間です。何度もこちらの企てに嵌まってくれるほど調子のいい存在ではありません。次の暇はないものと考えたほうが晰さまも、気がラクになるとアドバイスを申しておきます」
「無理言っちゃってくれるが、そうだな。学校までおよそ半分。休むより突っ切ったほうがリスクは抑えられるか。足もだいぶ軽くなったし。……あ、それと、羽花」
シロムクの背中に戻る羽花を呼び止める。
膝を立てて、ふくらはぎあたりを力ませてセカヒのアシストを断り、どうにか自分だけで立ち上がるが、地につく足はおぼつかない。うまく走れるか不安だ。
「羽花は今からでも駅に送ってもらって、電車で行ってもいい。ここからなら五分もかからない。正直な話、怖いだろ? 大量の人に追いかけられるのはさ」
さっきの気まずさからさりげなく退却を命じているように見えなくもなかった。事実、そういった思惑みたいなのはあったが、羽花の身を案じたのも本音だ。
「うーん、でも私ね。シロムクちゃんの背中気に入っちゃった。揺れないし、静かで快適なんだもん。シロムクちゃん、ダメ?」
「シロムクは一向にかまいません。羽花さんはお名前の通り、鳥の羽のように、一輪の花のように軽いので、支障はありません」
「やったー、私、シロムクちゃんと結婚するー」
「嬉しいお言葉です。直ちに承りたく存じます」
はは……ただ授業に出たくないだけだな。睡眠時間を延ばす気だ。それを露知らず、羽花の煽てを素直に褒めてもらったと取ったシロムクは、笑っているようにも見えた。
うまいこと口車に乗せたものだ。乗るのは羽花だけど……。
さておき暴れ馬にしがみつくようにシロムクの背中に委ねた羽花はもう、遊び疲れた子どもみたいに寝息を立てていた。母かと思いきや子だったようだ。
では、リスタートと行こう。
「千里眼で茂みの周りを確認しましたが、現在はいませんでした。しかし、出て左右分岐の右奥二十メートルから数名が血相を変えて走っています。左からも来ていますが、強行突破しましょう。晰さまの次なる作成はそのあと、お聞き願いたいと思います」
さらっとバトル漫画のチートキャラみたいな技名を言わないでくれ。怖いから。
「わかった。左だな。じゃあ、二人ともサポート頼むぞ」
休めたのは何分だったろう。五分かそこらだ。
草むらを飛び出し、アスファルトを蹴り上げる。脱兎を見つけ、後方から凄まじい勢いで飢えたゾンビたちが足並みを揃えて追いかけてきた。
おれは脱兎だ。捕まって、ラビットゾンビになるわけにはいかないのだ。
足の疲労も思った以上に取れている。これなら、とモチベにし、まずは立ちはだかる壁に突進をかましてやる。
「どけぇ! どけどけどきやがれー! 怪我したくねぇんなら道を開けろやーっ! あけれねぇってんなら――」
住宅街の路地の幅なんて普通車がギリ二台通れるぐらいだ。高を括られたのだろう。そこに分散した捜索グループの少人数のところに、運悪く突破を図るおれらが出くわした。
手を広げ、目いっぱいに進路を封鎖している。まったくどいつもこいつもおれの怒鳴り声に、聞く耳を持ちやしない。
あんまし気乗りしないが、突進しか方法がなくなった。選択されるべき戦術は、明らか非力であろう女子生徒のあいだを割る隙間。
それを思慮していたうちに、やはり体格差で痛めつけるメリットは躊躇いが生じたので、できるだけ丈夫そうな男子生徒の片足を、これまたできるだけ体勢を低くしてのタックルをお見舞いしつつ、強行突破を試みる。
男子生徒はおれのタックルに、よろめく。横も黙っておらず、矢継ぎ早に掴みかかってくるが回避し、おれはまた長い到達点へのゴングを鳴らした。
「さっそくですが、お聞きします、晰さま。策のお考えはあるでしょうか。晰さまの疲労と一分間の移動距離を計算しますと、二十分以内に確実にバテます。どこかからペース配分を落とされませんと学校まで持ちません」
「ある。作戦は考えてある。少し実体験を基にしているが、心理的な訴えかけにはかなり有効だと踏んでいる」
そもそも論がおれにはあった。
そもそもおれは、有名人ではない。群衆の誰とも知り合いでもない。悪事を働いた不届き者でもない。
おれ自身に一銭の価値はなくて、おれの所持するボタンから発せられる押したい衝動に価値がある――わけでもなく、そもそも、『なぜ追いかけているのか』わからず走っている人もいるんじゃないか、とおれは考えた。
「作戦の使うのは、あれだ――」
これは良心に語りかける〝賭け〟だ。
並走するセカヒに、街中でありきたりに存在する公共物を指差す。
「……カーブミラー、ですか?」
「ああ、題して、『一番の警告は自分だ!』作戦だ」
ここまでお読み頂き、感謝いたします。
今日の更新で4万字を超えると思っていたのですが、少し足りなかったようです。
次回に持ち越しですね。頑張ります。
この話で晰の精神に一悶着あった方がいいな、とここで導入しました。18歳で、性的な制限をかけられまくった男の子の爆発の果てはどうなるのか、作者自身わからないのでこのような仕上がりになりました。
どうにか前回より早くお届けできましたので、次回はもっと早くお届けできるよう、ない頭を捻らせて執筆いたします。よろしくお願いします!
友城にい




