2・戦女神――1
砂埃が吹き荒れる荒野の中を、一人の少女が必死の表情で走っていた。
いや、走っていたと記していいのだろうか? 正直、普通に歩いている人間でも抜きされるような速さで少女は走っていた。
少女の足には無数の傷跡があった。そこはいまなお傷を負わされている。
小鳥くらいの小さな魔物たちが少女の周りを飛び回り、鋭い嘴で足を痛めつけていた。
「――っ!」
少女はバランスを崩し転倒した。少女の悲鳴は魔物たちの荒々しい羽音にかき消されていく。
「よし、お前たち下がれ」
少し盛り上がった岩の上から男の声が聞こえ、魔物たちは少女の骸から離れていく。
「ほうほう、これはこれは……」
男の隣にいる背骨が弓なりに曲がった猫背の老人が含み笑いを浮かべる。
少女がいた場所には骸骨と血溜まり以外なにひとつ残ってはいなかった。
「気が済んだか……祈祷師どの」
「いえいえ滅相もございません。大変貴重なものが手に入りましたよ」
祈祷師と呼ばれた老人は、懐から小瓶を取り出した。中身は毒々しい色をしており、プクプクと泡を出している。
「カニヤールルゥッディルラアド アハムアグルラグル」
と呪術を唱えるや、小瓶を血溜り目掛けて放り投げた。
すると、小瓶は落ちて割れることなく血溜まりの上に浮かんだまま、ゆっくりと口を下にしていく。
中身が沸騰して膨張すると、小瓶が割れ、水蒸気で周りが見えなくなってしまった。
「さぁさぁ、復活せよっ! 殺戮の神ニシュンバよっ!」
男――マヒシャが虚空から三叉槍を取り出すと、それを煙の中に放り投げた。
立ちこもっていた煙が徐々に薄れていき、その中央に白髪の少女が、一糸纏わぬ姿で跪きながら、マヒシャと老師を沈んだ瞳で見上げていた。
「さぁニシュンバよ、その槍を持てっ! そして我らが受けた苦しみ、怒りをっ! 復讐という名の剣として果たそうぞ!」
マヒシャが叫んだ。
「――復讐」
ニシュンバは気だるい表情で呟きながら、目の前に突き刺さった三叉槍を見遣った。
そしてゆっくりとそれを手に取ると、光が迸り、ニシュンバは踊り子のような、胸を強調させる衣装を身に纏っていた。
「さぁ、ニシュンバ。私とともにこいっ! お前の兄シュンバもすぐに復活するであろう」
マヒシャの言葉を聞きながら、ニシュンバはゆっくりと彼の近くへと歩み寄った。
「――それはまことか?」
松明の火が灯った洞窟の中でナンディンが叫んだ。年老いたその表情は驚きに満ちている。
「はい、どうやら『祈祷』なる怪しき術を使う者がおるらしく、その者によって殺された他国の娘や若い男衆の血を媒体とし、マヒシャやシュンバ、ニシュンバを復活させていたようです」
ローブを纏い、フードを深々と頭に被った少女が、膝を突いて申し立てている。
「他の国との連絡は?」
「今のところまだ……、他の国の王にこの事を伝えるよう、阿修羅を使いとして放ってはいますが」
マーヘーシュヴァリーが口を閉ざした。
「どうした、なにかあったのか? シュヴァリー」
「それが、私たちが送り出した阿修羅が戻ってきていないんです」
代わりに、マーヘーシュヴァリーの隣にいたカウマーリーが理由を述べた。
「おそらくですが、魔物か魔神に襲われたものと――」
「しかし、わが国以外に襲われているという報告も受けていない。そうとなれば――。さきほど復活している魔神は【マヒシャ】、【シュンバ】、【ニシュンバ】と云ったな?」
確認するように、ナンディンは跪いている六人に尋ねた。
「はい。町の者が魔物に襲われていたところを目撃し、後を追った阿修羅からの報告では、そのようだと……」
「もしかすると、やつらの狙いはわが国ということになる」
「それはいったいどういう事ですか?」
「復活した魔神が、すべてわが国に伝わる伝説で倒されているからだ」
それを聞くや、チャームンダーは顔を上げた。他の巫女五人と違い、彼女だけは面を被っていて素顔を見せていない。
「つまり、やつらの目的はわが国への復讐ということですか?」
カウマーリーが尋ねると、ナンディンは頷いた。そして頭を抱え項垂れる。
「まずそう考えても間違いないだろうな」
「マヒシャだけでも倒せる術はあるはずです」
「しかしだな、もしやつが伝記通り、戦女神にしか殺されないとしたら、戦えるのはお前たちドゥルガーの血を持った巫女しか」
ナンディンがそう告げると、「ならばその力を持った私たちがやつらの塒を」
インドラーニーが声をあげた。
「ならぬっ! たしかにお前たちの力を持ってすれば可能ではあろうが――」
ナンディンは言葉を止め、再び苦悶の表情を浮かべた。
平和が長く続き、自分も含め、彼女たちも戦争というものを知らない。つまりは戦う力があっても、戦えないのが現状なのだ。
云ってしまえば、日本の自衛隊みたいなものである。
国を守るために組織されてはいるが、国を守るのみで、攻めることを目的にはしていない。
「ならば、こちらもその祈祷師と同様、魔神を復活させるという手は?」
ヴァイシュラヴィーがそう申し出ると「それはいったいどういう意味だ……?」
ナンディンが戸惑った表情で尋ねる。
「方法は簡単です。やつらが【血】を媒体として魔神を復活させていたとすれば、我々も同様に【血】を媒体とすればいいのです。その方法でドゥルガーさまを復活させることができれば」
「しかし、もし成功したとて、それがドゥルガーさまだとは限らないだろ?」
「事態は一刻を争いますっ! このままこの国が滅びるより、やってからのほうがよろしいでしょ?」
ヴァイシュラヴィーの言葉に圧倒され、ナンディンは苦悶の表情を浮かべながら、ゆっくりと頷いた。
「しかし、その血はいったいどうやって手に入れるのだ? もしわが国の民の血を使うのであれば、賛成はできぬ。おそらくシヴァ王さまも同じだろう」
「わかっております。ですから、私たちの血を使うのです。私たちは幾千年もの昔から、ドゥルガーさまとともにありましたから」
ヴァイシュラヴィーを含んだ彼女たち六人の七《、》母《、》神《、》は、ドゥルガーの分身として伝えられている。
彼女たちはその末裔であるため、ドゥルガーの血を少なからず受けついていた。
「――他の者たちも同意の上か」
ナンディンは周りの少女たちを見やった。彼女たちは静かに頷いてみせる。
「わかった。ならばお前たちに託そう。すぐに準備をしろ!」
……ナンディンが彼女たちに命じた時であった。
「ぐわぁっ!」
外の方から、護衛をしていた阿修羅たちの悲鳴が、洞窟の中に響いて聞こえてきた。
「くそっ! 貴様、いったい何者だ――? がはぁっ!」
二メートルはあるだろう。大きく、異形な姿をした魔物が護衛兵の頭を握り潰した。
その残酷な光景に、兵士たちは戰いでいた。
「なにをしている! やつを止めろ」
兵士長がそう命じる。兵士の一人が目の前の魔物に攻撃を仕掛けたが、槍は魔物の胸をひと突きしたが、そこからドロリと、兵士は槍ごと溶かされた。
「くくくっ! しかし簡単に進入できた。破壊の神の余裕というところか。他の国には無用心に近付くことすらできなかったがな」
魔物は洞窟の入り口に目をやった。
「匂う。匂うぞ! 女だっ! 女の匂いだ。甘くておいしい処女の匂いだ!」
魔物は牙を剥き出し、涎をたらしながら、奥のほうを覗いた。「ここか? ここにいるのか?」
魔物はゆっくりと洞窟の中へと入っていく。
「くっ! お前たち、ここは私が食い止める。お前たちは早くその『祈祷』とやらで、ドゥルガーさまを呼び出すのだ」
魔物の気配を感じたナンディンがそう云うや、両手の指を絡める。
「出でよっ! 獅子王っ!」
そう叫ぶや、ナンディンの前に白い体毛を纏ったライオンが姿を現した。
シンハは高々と気高い咆哮をあげる。
「なんだぁ? そんなもん」
魔物は体を低くし、突進した。
「風花」
シンハは口から冷たい息吹を吐き出し、魔物に浴びせた。
「そんなものきかぬわぁっ!」
魔物は口を大きくあけるや、シンハの横に回りこみ、喉笛を噛み潰した。
まるで間欠泉のように、血が噴出し、周りに飛び散っていく。
「シンハッ! くそっ、まだか? まだなのか?」
ナンディンはうしろを見遣った。
チャームンダーたちは円を作るように立っており、それぞれの左腕を前に出していた。
そして、右手に持った小さな剣で左手の薬指に傷を付けると、血が床に垂れ落ち、六芒星のような魔法陣の形を作り出していく。その線に沿って、赤々とした光が放たれている
「カニヤールルゥッディルラアド アハムアグルラグル」
チャームンダーが呪術を唱えた。
すると、彼女たちの中心から煙が立ち上り、周りを包んでいく。
「なんだ? なにが起きている?」
魔物が驚きを隠せず戸惑ったが、途端身の毛も弥立つほどの殺気を感じ、瞬時に危険だと判断するや、チャームンダーたちに襲い掛かった。
――その時である。
「セェラァッ!」
咆哮にも似た叫びが洞窟の中で響きわたると同時に、大きな影が飛ばされ、壁にぶつかった音が轟々と響いた。
「ぐぅ、ぐぐぐっ? な、なにものだぁ?」
魔物が崩れた体を起こしながら、視線を向けた。
「あ、あなたさまは?」
チャームンダーは、虚ろな目を浮かばせながら見上げた。目の前で魔物に敵意をむき出しにしている影は、誰かに似ている。
「こ、これは……いったい? いったいどういうことだ?」
ナンディンが悲鳴にも似た声をあげる。
魔法陣の中心にいたのは――苅谷真一と堂本麻姫の二人であった。
「ぐぅぬぬぬっ! どうやら儀式は失敗のようだな」
魔物は笑みをこぼした。「そのような人間風情に我が倒せると思っているのか?」
魔物は立ち上がり、咆哮をあげた。
「――はて? たしか変な二人組に絡まれてて、そいつらぶっ飛ばしてたら突然空間が歪んで」
「あぶないっ! 避けてっ!」
マーヘーシュヴァリーが悲鳴をあげた。「死ねぇっ!」
魔物が拳を振り下ろした。激しい爆発音が洞窟の中で鳴り響いていく。
「ああっ! 駄目だ……儀式は失敗だ」
ナンディンは跪き、蹲った。
「がはははっ! おれはマヒシャさまより与えられた力によって、無敵の力を手に入れた。お前たちがどれだけ攻撃しようとも、おれに傷ひとつつけることはできん。おれを殺すことなど到底不可能」
魔物は笑い声をあげた。
「――でもよぉ? さっきはおれの蹴り食らってたじゃねぇか?」
魔物の拳の先から声が聞こえ、ナンディンと七賢人はそちらを見遣った。
「な、んだと……」
魔物は小さく呻き声をあげ、自分の拳の先にいる影を睨んだ。
殺したと思っていた真一が、魔物の拳を受け止めていたのだ。
「さぁ、どういうことだろうな?」
真一は小さく笑みを浮かべる。
「き、貴様、何者だ?」
魔物が上擦いた声で尋ねる。
「俺《、》か? てめぇみてぇな、ちょっと出の雑魚に名乗る名前なんてねぇよっ!」
真一は魔物の拳を振り払い、一瞬にして懐に入った。「せぇらぁっ!」
垂直に飛び上がり、魔物の首元に蹴りを入れた。
「ぐぅぼぉらぁっ?」
魔物は崩れるようにして倒れていく。
「す、すごい……」
インドラーニーは自分の目を疑った。いや、ここにいる全員が、この状況が信じられないでいる。
「くぅそぉっ! 人間風情がっ!」
魔物は咆哮をあげ、口を大きくあけると、真一に襲い掛かった。
「くっ!」
真一は間一髪、それを避けた。
「まだまだぁっ!」
魔物は体勢を整え、ふたたび真一に襲い掛かる。真一がそれを避けると、魔物の口が岩にぶつかった。
が、それをいともたやすく、魔物は噛み砕いている。
「嘘だぁっ?」
真一は冷や汗をかいた。
「さぁ、どうした? ここで殺されるかぁ?」
魔物は余裕の笑みを浮かべる。
「んなわけのわからねぇ状況で殺されてたまるかよ?」
真一は魔物に対して、あっかんベーをする。
「そうか……。ならば、わけのわからぬまま殺されてしまえ!」
魔物は口を大きくあけ、真一に遅いかかった。
――あの口をどうにかしないとっても、岩は簡単に砕いてるし、他に方法は……。
真一は魔物の攻撃を避けながら、松明が岩壁にかけられているのが目に入った。
――ちょっと試してみるか?
その松明を手に取った真一は、ジッと魔物を睨んだ。
「お前の口ってさぁ? もっと大きく開かねぇのか? そんなお猪口みたいな小さい口じゃぁ、俺の首噛み切れねぇと思うんだよなぁ?」
「な、なにを云って……」
ヴァイシュナヴィーが表情を険しくする。
「殺されてぇみたいだなぁ。いいだろう。お望みどおり食ってやる」
魔物は口を大きく、限界まで広げた。
「さぁ、これで終わりだっ!」
――終わるのはお前のほうだよっ!
真一は、松明を魔物の口目掛けて放り投げた。それを魔物は一口で飲み込む。
「き、きさまぁ、こんなことしても無駄だっ! わたしはお前たちの力では倒されることは……? がはぁっ!」
魔物は口から黒い煙を噴出し、大きな音を立てながら崩れ落ちていく。
「ど、どういうこと? 彼はいったいやつになにを?」
「お前はこう云ったな? どれだけ攻撃しても、傷ひとつ負わせることはできないって、おれの渾身の蹴りにも耐えていたってことは、外からの攻撃には利かないってことだろ? だったら中はどうだ?」
真一の言葉に、魔物は驚きを隠せないでいた。
「あ、あついっ! あついっ! 体が……、体がっ!」
その断末魔を最後に、魔物は激しい炎とともに燃え散った。