1・破戒神――3
しんとした仏間に、二つの影があった。
ひとつは真一であったが、もうひとつ対面するように白髪の老人が座っている。
彼は真一の祖父であり、二人が向かい合うように坐禅をしてから既に一時間以上経過していた。
――んっ……。
真一がピクリと足を動かす。
「どうした? もう降参か?」
祖父は片目を薄く開き、尋ねた。
「いや、ちょっと痒くなっただけだ」
「そのような言い訳は通じん。心を無とすれば、何事も気にはならんはずじゃ。まだまだ修行が足りん証拠」
「別に、おれは坊さんになる気はねぇよ」
真一が不貞腐れた声で言う。
「わしも、お前を坊さんにする気はない。ただな……、先日理由があったとは言え人様を怪我させたんじゃ」
「わかってる。それに関してはなにも弁解しない。でもさ……、おれは目の前で傷ついている人は見捨てたくないんだよ」
「お前の言いたいことはわかるがな……」
祖父はそう言うと、スッと音も立てずに立ち上がった。
「お前も立て。ちょっと稽古をしよう」
そう言われ、真一が立ち上がろうとすると、「痺れて立ち上がれんじゃろ? ほれ、手を貸そう」
祖父はそう言いながら、手を差し出した。
「あぁ、ありがとう」
真一はそのまま手を借りようとした時だった。
「甘いっ!」
祖父は真一の手を引っ張って立たせるや、その勢いのまま一回転に投げ飛ばすと、バシンッと乾いた音が響き渡った。
「いっつ……」
「油断するでないわ。お前の足が痺れておらんことくらい知っておる」
祖父はナハハハと笑った。
真一はというと、突然のことで受身が取れず、苦痛の表情を浮かばせている。
「くっそ……」
真一が立ち上がると同時に、祖父は真一の胸倉に手を絡めた。
「何度もかかるかよ」
真一は、同じように祖父の胸倉をつかみ、引っ張って倒すと、その勢いで腕に足をからめた。
柔道で言う、引き込み十字である。そのまま、腕挫ぎ十字固めへと変えていく。
「ぐぅっ!」
祖父は呻き声をあげたが、簡単に抜けきった。
「ほれ、かかってこい」
「言われなくても、そうするよ」
真一は構えるや、体を大きく捻り、ローリングソバットを食らわせた。
が、祖父はその足を手に取り、うしろへと投げ飛ばした。
飛ばされた真一は、激しく襖に叩きつけられる。
「あがぁっ……」
「どうした? これで終わりではないだろうな?」
「ま、まだまだ」
真一が、立ち上がろうとした時であった。
「じいさんや、真一はおるかえ?」
廊下から声が聞こえ、二人はそちらを見た。
「おお、ばあさんや、真一はこっちにおるが、なんの用じゃね?」
「いやなぁ、ちょっとお昼なんか用があるかなぁと思ってな」
そう聞かれ、真一は少し考えると、「昼は図書館で勉強しようかなって、自業自得とはいえ、停学中にやっとかないといけないのが山積みでさ」
「ほうかい? それじゃぁ、仕方がないねぇ」
祖母がそう言うと、真一は首をかしげた。
「なんか用があったんだろ? 別に勉強最優先ってわけじゃないし」
「いんや、いいんじゃよ。学生の本分は勉強じゃし、邪魔は出来んて」
祖母は首を横に振った。
「ほんじゃぁ、昼飯の用意が出来たんでな。真一や、出かける前に着替えんとカッコがつかんぞ?」
「わかった」
そう言うと、真一は部屋を出ていった。
「それで朱璃さんや、あの子になにを言おうとしたんじゃ?」
「いえ、まだ確信があるというわけではないのでなんとも言えませんが、近いうちに真一は本当のことを知るでしょう」
朱璃はそう言うと、祖父に頭を下げた。
「やはり、やつは生きていたということか」
祖母はそう呟きながら、グッと拳を握り締めた。
真一が停学中とはいえ、今日は世間一般的に平日である。
祝日でもないのに、東京は賑わっていた。それこそ地方の人間からしてみれば、なにか大きな祭でも行われているのかとききたくなるほど、人が溢れかえっているが、東京では有り触れた状況でしかなく、地元の人間からしてみればこれが日常茶飯事なのである。
そんな人込みの中、真一はリュックを片腕に通して歩いていた。図書館に行く途中で、顔が見えないようパーカーのフードを被っている。
こうすれば、不良に見つからないだろうと考えてのことであった。
「さてと、ちゃっちゃと終わらせて……って、さむっ?」
図書館に到着するや、冷房の冷たさに一瞬体を震わせた。暑い日差しの下や、コンクリートからの熱気に当てられていたため、体が突然の気温変化についていけなかったためである。たとえば、脱衣所のような冷たい場所から、いきなり熱いお湯の中に入ろうとすると、熱さを通り越して痛みを感じるのと一緒だ。
真一は一度深呼吸をして心を落ち着かせ、図書館内の勉強机へと向かった。
リュックを机の上に置き、中身を取り出していると、人気のない奥の方から声が聞こえてきた。
「なにかお探しですか?」
司書の女性が、館内を徘徊している老人に話しかけている。
「ここに****の*をもった人間がいると思ったんじゃがなぁ……、お前さん知らんかえ」
腰が弓なりに反った老人がそう尋ねたが、歯並びが悪く、言葉がうまく聞き取れなかった司書は――「おじいさん、もう一度ゆっくりと話してくれませんか?」
と、お願いした。
「じゃからぁ、****の……、あぁ、そうじゃなぁ……」
老人は杖を地面から離し、その先を司書の胸に突き刺した。「――えっ?」
司書は、なにが起こったのか理解できなかった。
杖で胸を穿られ、血は落ちるどころか、まるで杖に吸われているかのような感じがしていたのだ。
「ほう、処女ではないか、血が穢れておる」
老人は、ゆっくりと司書の胸から杖を抜き取った。
司書の骸は干乾び、ミイラとなって床に崩れ落ちた。
「きゃああああああっ!」
悲鳴が館内に響き渡った。図書館の中にいる人間たちがなにことかと思い、老人の近くに集まる。
「ほほほっ? たかだか一人死んだところで悲鳴とは……、軟弱軟弱」
老人は、一瞬で本棚の上に飛び上がり、壁伝いに走っていく。
「な、なんだこれ?」「すげぇ、映画の撮影じゃね?」
と、若者が壁を走っている老人を写真におさめようと携帯を向けた。
シャッター音が、館内に響き渡っていく。「首切風」
老人がカメラを撮っている若者たちの周りを飛び交うと、その全員が首を落とされ、悲鳴はさらにヒステリックなものとなり、本や周りが血だらけになっていく。
「ひょっひょっひょっひょっ! どうやらここにはいないようだ……。まぁ、やつは冷酷な戦いの神だからなぁ、これくらいのことでは見向きもせぬかぁっ?」
老人はゆっくりと床に降りた。
「っらぁっ!」
老人が床に足をつけようとした一瞬をついて、真一が下段横蹴りを食らわせようとしていた。
それを老人は杖で止め、うしろへと宙返りしながら間合いを離していく。
「ほほほっ、お前さんいい目をしておるなぁ。相手を殺そうとする綺麗な眼じゃ」
老人はケラケラと哂いながら、真一を指差した。
「あんた、ただの爺さんじゃねぇだろ?」
「お前さんに答える義理はないよっ!」
この騒動に気付き、誰かが通報したのだろう。外からサイレンの音が聞こえてきた。
「ひょひょひょ、まぁいい」
老人は窓に視線を向けると、歪んだ笑みを浮かべた。
「では、また会おう――カーリーよ……」
そう言葉を残すや、老人は突然窓に向かって全速力で走り出した。「――なっ?」
真一は蛇に睨まれた蛙のように動くことができず、老人の姿を目で追うのが精一杯だった。
窓が割れ、下の方から悲痛な叫びが聞こえてくる。
痺れが取れた真一は窓辺まで走り、身を乗り出すようにして下を見たが、割れたガラスに当たって血を流し倒れている人や、救急車を呼ぼうと携帯を扱っている人間はいたが、先ほどの老人の姿を見つけることはできなかった。
――カーリー?
真一は、老人が最後に云った言葉を頭の中で呟いていた。




