5・不遣雨《やらずのあめ》 ――2
「どうした、ニシュンバ」
シュンバは、自分のうしろを歩いているニシュンバを見遣った。「いえ、なにも」
「そうか……、しかしなんだ、やつらを殺せば我ら兄と妹。ふたたび幸せに暮らせるということだ」
シュンバはニシュンバに笑みを向けた。ニシュンバも、それに答えるように笑みを浮かべる。
しかし、内心そうではなかった。目の前のシュンバが何者なのか、そもそも本物なのかどうかもわからなくなっている。
それを悟られないように、作り笑いを浮かべていた。
『自分は――マヒシャの本当の姿を知らない』
いつも目にしていたマヒシャは何者なのか、そもそもマヒシャだったのか、それがわからない。
ニシュンバは幼い頃、ペットの横で、アガダやカーリーから昔話として、マヒシャの事を聞いていたのだ。なににでも変身するという、その能力を。
警戒していることを悟られぬよう、かといってあまり近付き過ぎないように、一定の距離を保ちながら、ニシュンバはシュンバの後を歩いていた。
できれば目の前にいるシュンバを、本物の、大好きな兄であることを願いながら……。
「よし、行くか」
真一は、自分の頬を叩き、気合を入れた。
「アガダさんからの連絡が届きました。準備に少々時間がかかるそうですが、半日もあれば大丈夫だと」
「こっちも、お父さまから着々と作業は進んでいると……。スルジの科学をなめるなといっておりましたよ」
ヴァイシュナヴィーとブラフマーニーが真一に報告する。
「まぁ、こっちもぼちぼち行こうや、あちらさんを倒すついでにな」
真一の言葉にチャームンダーたちは頷いた。
「どうかなされたんですか?」
「え、なにがですか?」
チャームンダーに突然声を掛けられ、麻姫は目をパチクリさせる。「別になにもないですよ。ほら早く行きましょう」
麻姫は、せかせかと先を歩いていく。
「あ、ちょっと堂本さん、待って」
真一たちも、その後を追った。
――さっきから妙に身体が痛い。
麻姫は右腕を掴んだ。この世界に来てから、節々がまるで潰されているように痛みが走っている。
「大丈夫ですか? 先ほどからご気分が優れないようですが」
「あ、大丈夫です。ちょっと気分が悪いだけですから」
できるだけみんなに心配かけさせまいと、麻姫は平然を装った。「そうですか?」
チャームンダーはそう言いながらも、ゆっくりと……歩みを遅くした。
――あれ?
チャームンダーが足を止めた。「どうかしたのか?」
「アンナは?」
周りを見渡しながら、チャームンダーは言った。
「たしかにいないわね。いったいいつくらいから」
「最後に見たのは、たしかブラフマーニーが堂本さんにわざと水を被せた時だよな?」
「たしかにその時は一緒にいました。それから会ってませんね」
チャームンダーが、視線をインドラーニーたちに向ける。
自分たちも会っていないか確認する視線だったのだが、インドラーニーたちは首を横に振った。
「可笑しいですね。仕事をほったらかしにする子ではないのですが」
「おれがマヒシャに襲われる前からいなくなってるよな……」
真一は、目の前を歩いている人影を見るや、小さく驚いた。
――あれは……、アンナさん?
視界の先に、アンナが歩いていたのである。
「おいっ! アンナさん!」
真一の呼びかけに気付いたアンナ……ではなく、麻姫たちがその先を見る。
「本当だ、アンナ」
インドラーニーが声をかけるが、聞こえていないのか、アンナは先へと歩いていく。
「とにかく見つかったんだし、追いかけましょう」
ブラフマーニーがそう言うと、真一たちは頷き、アンナを追いかけた。
……アンナを追いかけながら、ブラフマーニーは周りの景色に違和感を持っていた。
スルジの城への道中であることに変わりはないのだが、人の通りが少なくなってきている。
「くそ、堂本さん大丈夫?」
真一が声をかけると、麻姫はフラフラになりながら、必死にうしろをついてきていた。
「だ、大丈夫です」
「麻姫さまは私が一緒にいますので、みんなは先に」
チャームンダーがそう言うと、真一はわかったと、足を速めた。
見えなくなっていく真一たちを一瞥しながら、チャームンダーは歩みを止めた。
麻姫の様子が、それこそグロッキーだったからである。
「大丈夫ですか?」
「わたしは大丈夫ですから、チャームンダーさんはみんなの後を」
「それはできません。わたしはあなたを一人にできないのです」
そう云われ、麻姫は怪訝な表情を浮かべる。
「わたしはみんなほど強い力を持っているわけじゃない」
「わたしも同じです。なにもできないし、結局みんなに迷惑を――」
「それは違います。麻姫さまは立派に真一さまの役に立ってるじゃありませんか? それこそ羨ましいくらい……いいえ、妬ましいくらいに」
チャームンダーの目にうっすらと涙が浮かんでいた。
「わたしはあの時、真一さまが毒を食らったのに、なにもできず、ただ待っている自分が惨めでなりませんでした。麻姫さまは危険を承知の上でアティガムニヤの中に入り、インドラーニーたちはその後を追った。アンナは看病したり……わたしはなにもできなかった」
「チャームンダーさん」
麻姫は、言葉が掛けられなかった。
目の前にいる、自分と同じくらいの少女は、ドゥルガーの息子である真一に忠誠を誓っているのではない。
知らないうちに、真一自身を惚れていたのだ。
同じ女の子の、直感ともいえる感覚が、麻姫の脳裏を掠め、そう思わせた。
「あなただって、あんなに綺麗な歌が詠えるじゃないですか? 真一くんが言ってましたよね? あなたの歌声は気持ちが落ち着くって」
「だけど、それは戦うためにはなんの役にもたちません」
「相手を傷つけるだけが戦いでしょうか?」
麻姫の言葉に、チャームンダーは目を潤ませた。
「アワクルトの城を出る前、真一くんはみんなの前で言いましたよね? 【別に戦うだけが方法ってわけじゃない】って……」
「――戦うだけが、方法じゃない?」
「あの人、わたしたちの世界では破戒神なんていわれてるんです。暴力沙汰がほとんどなんですけど、でもわたしが助けてもらった時、あの人は相手を殴らす、ただ相手の腕を握っただけで失神させたんですよ」
「でも、それは戦ったってことになるんじゃ?」
その問いかけに、麻姫は首を横に振った。
「その時、真一くんは寂しそうな目をしてたんです。ドゥルガーさんも、あの村で子供たちと遊んでいた時も、そんな寂しそうな表情をしてました」
「寂しそうな……」
チャームンダーが、その場に座った。――その時である。
「キシャアアアアアアアアアッ!」
突然奇声が聞こえ、麻姫とチャームンダーはあたりを見渡した。
「うそ……、いつの間に?」
二人の周りに、多くの魔物たちが取り囲んでいたのだ。
「くくく……」
魔物の群れの中心から、たとえるなら黒板を爪でとぐような、ともかく不快な笑声を上げながら――アンナが現れたのである。
「アンナ? どうしてこんなところ」
チャームンダーはハッとし、顔を歪めた。
「貴様、マヒシャか……?」
「ご名答。いやいや、こんな簡単にわかるとはね」
アンナ――いや、マヒシャはゆっくりと姿を元に戻した。
「アンナは? アンナはどこに?」
「あのメイドか……、そうだな。あいつの本名はたしか【アンナプールナー】だったな」
「それが、どうかしたんですか?」
麻姫の問いかけに、マヒシャはゆっくりと人差し指を突き立てる。
「アンナプールナーは食物の女神でな、食物は食物らしく土に埋もれてもらった」
その言葉を聞くや、麻姫は目の前が真っ暗になった。
「貴様、よくもっ!」
チャームンダーが拳を構え、魔物の群れに突っ込んだ。
「戦う術を知らん貴様らに、我が勝てると思っておるのか!」
マヒシャの咆哮にあわせるように、魔物たちがチャームンダーに襲い掛かる。
「はあああああああああああああああああああっ!」
チャームンダーは咆哮をあげた。拳を振るわせ、魔物たちを倒していく。
「わたしとて七賢人の一人、戦う術くらいはある」
「ほほぅ、ならばこれはどうだ?」
マヒシャは、ドゥルガーへと姿を変えた。
「ドゥルガーに対する忠義心が強いお前たちだ。こいつを殴ることなどできまい」
マヒシャは甲高い声で笑う。
「はぁ……」
麻姫とチャームンダーは、互いにあきれた表情を浮かべながら、溜め息を吐いた。
「あの、麻姫さま? 真一さまの話によると、マヒシャという魔神はたしかに脅威かもしれませんが……」
「あなたもそう思いましたか? 詰めが甘いというべきか、なんとかの一つ覚えといいますか」
二人の意外な反応に、マヒシャは戸惑いを隠せないでいた。
「ははん、わかったぞ? お前たち、さては主君に歯向かうことができず、時間を稼ごうと」
マヒシャがその先を言おうとした時だった。
「はぁあああああああっ!」
チャームンダーは、その赤い爪でマヒシャの身体を引っかいた。
「ぐぅぎゃぁ?」
マヒシャはたじろぎ、目の前のチャームンダーに視線を向けたが、そこには麻姫し《、》か《、》いない。
「シャァアアアアアアアアアアギャアアアアアアアアアアアアッ!」
チャームンダーは獣のような咆哮とともに、マヒシャの頭上からその影は落ちてきた。
「なっ?」
マヒシャは間一髪、それから避けた。チャームンダーは、魔物の群れの中心に落ちていく。
「お前たち! やつを食い殺せ」
「キシャアアアアッ!」
魔物たちは奇声をあげながら、チャームンダーを食らい殺そうとしたが、返り討ちにあう。
いや、いうなれば返り食いされていた。
チャームンダーの爪と牙が、魔物たちを引き裂く。
それはまさに、屍肉を食い荒らす【ジャッカル】であった。
そもそもジャッカルとは、サンスクリット語で【山犬】を意味し、屍肉を好む不吉な獣であったため、カーリーやチャームンダーなど、死をつかさどる神の象徴とされている。
「くそっ! こんなところでやつは真の力を発揮したのか? しかしなぜだ?」
マヒシャは目の前の状況が理解できなかった。
「マヒシャ覚悟ぉっ!」
チャームンダーは高く飛び上がり、両爪をマヒシャに翳した。
「切断双ッ!」
ふたつの赤い切っ先が、マヒシャの身体を切断した。
「アギャアアアアアアアアッ!」
マヒシャは断末魔をあげながら、その身体を倒していく。
「やった」
麻姫は喜びをあらわにする。チャームンダーも、肩で息をしていたが喜びは隠し切れない。
「――麻姫さま、やつらの始末はわたしが……」
そう云うや、チャームンダーは身体を貫かれた。
「……えっ?」
「くくく……、あれくらいのことどうってことないわぁっ!」
倒したはずのマヒシャが、口が裂けるほどの笑みを浮かべていた。
「あがぁっ!」
チャームンダーの身体から、マヒシャは腕を抜き取る。
「きゃっきゃっきゃっきゃっ! やはり貴様も平和にぼけていたのだ。チャームンダーよ」
マヒシャは、赤く染まった自分の指を舐めた。
「あと一人は……どうした?」
震える麻姫を見ながら、マヒシャは笑みを浮かべる。「ひぃっ!」
麻姫は上擦いた悲鳴をあげる。
「ま、麻姫さま逃げて……」
「ほう、さすがにあれだけでは死なんか?」
マヒシャは、チャームンダーの足に指を減り込ませた。
「どうだ? まだ動くのか?」
歪んだ笑みを浮かべながら、マヒシャは問いかける。
チャームンダーは悲痛な叫びを繰り返す。
「やめて……」
「わたしはなぁ、ドゥルガーの血を持ったやつを殺したいのだよ。つまりはドゥルガー本人とカーリー、その血を持った七母神……いや、今は七賢人というべきか」
マヒシャはゆっくりと麻姫を睨みつけた。
「お前もそのうちの一人なのだよ」
「――え?」
麻姫はその言葉の意味を理解できなかった。
「なんだ知らんかったのか? お前にはドゥルガーの血が流れているのだよ」
「わたしに……ドゥルガーさんの血が?」
「正確には、ドゥルガーの子供の血を輸血したせいというわけでもあるがな」
マヒシャは、麻姫の顎を撫でた。麻姫はそれを蔑んだ目で睨みつける。
「言ったはずだな? わたしはお前たちを殺すために復活したのだ。時空を自在に操る力を得てな!」
「時空を……まさか?」
チャームンダーはハッとした。
「ああそうさ。お前の攻撃も、食らう前に時空の狭間に逃げれば、なんてことはない」
その言葉に、チャームンダーは苦痛の表情を浮かべる。と同時に、意識が朦朧とし始めていた。
「さて、まずはお前から殺してやろう」
マヒシャは爪を麻姫に翳す。
その時、誰かが笑った――。
閃光が迸り、マヒシャは吹き飛ばされた。
「くぎゃぁああああっ!」
地面に叩きつけられ、マヒシャは身体をバウンドさせる。
「こ、これはいったい……」
チャームンダーは朦朧とした意識の中、麻姫の目の前に人影が現れたのを目にした。
「あ、あなたは……」
麻姫は、目の前にいるカーリーに声をかけた。
「あなたの声が聞こえた。助けてほしいって」
「くぅ……、なぜここにいるとわかった?」
マヒシャは立ち上がったその時である。
「テヤァアアアアアアアアアアアアアッ!」
三つの咆哮が聞こえ、マヒシャは空を仰いだ。
「き、貴様らッ! いったいどこから?」
目の前に現れたのは、カウマーニー、マーヘーシュヴァリー、ヴァーラーヒーの三人である。
「理由は簡単さ、あんたと同じように空間を超えてきたんだよ」
カーリーの言葉に、マヒシャは信じられない表情を浮かべる。
「そ、そんな……そんな馬鹿な……」
「わたしは、殺戮の戦女神であると同時に、時をつかさどる巫女でもあるのさ! あんたが使った時空も、わたしにとっては庭みたいなもんだからね」
マヒシャは自分のうしろに殺気を感じた。振り向いた瞬間、その身体は宙を浮く。
「でりゃぁああああああああっ!」
ヴァーラーヒーが鉤爪を構え、マヒシャへと突進する。「惡殿候ッ!」
カウマーリーの叫びが天に轟く。マヒシャの頭上にメスのような小さな刃物が現れ、雨のように降り注いだ。
「バカめっ! そんなことをすれば貴様の味方も巻き添えを食らうぞ!」
「百も承知!」
ヴァーラーヒーはマヒシャの懐に飛び込む。
「せぇあぁりゃぁっ!」
鉤爪をマヒシャの顎目掛けて突き上げた。マヒシャは、瞬時にそれを避ける。
カウマーリーの放った刃の雨が、ヴァーラーヒーに降り注いだ。
「バカか? 結局は避けれんではないか?」
マヒシャが笑った。――その時である。
金属と金属がぶつかる音が上空に響いた。「……円月輪か?」
マーヘーシュヴァリーの両人差し指に円月輪と呼ばれる、円状の武器が回転されている。
「はっ!」
マーヘーシュヴァリーは、二つの円月輪をマヒシャ目掛けて放ったが、マヒシャは刀を振るい、円月輪を落とす。
「シャアアアアアアアアアアッ!」
その雄々しい咆哮に、マヒシャは我が目を疑った。「な、なんだと?」
目の前には、瀕死状態だったはずのチャームンダーが牙を剥いて、マヒシャに突進していた。「切断双ッ!」
マヒシャは、身体を切り裂かれる。今度こそ――と、チャームンダーは警戒心を解かず、マヒシャを見やった。
マヒシャの身体は二つに裂け、地面に落ちていく。
「まだだっ! まだやつの気配は消えてない!」
カーリーが叫んだ。
「そうだ。わたしはお前たちを殺すまで、死ぬことを……」
マヒシャは言葉を止めた。一瞬だったが、自分よりも邪悪な気配を感じ取ったのだ。
ゆっくりと、その視線の先を見やる。
「……ま、まさか――きさま」
マヒシャの視界の先にいたのは、麻姫であった。
「きさまっ! その血を我が物にしていたのかぁっ!」
マヒシャは咆哮とともに、麻姫に突進した。ゆっくりと麻姫はてのひらを向けた。
「――え?」
チャームンダーは、言葉が出なかった。他の者たちも同様である。
「マヒシャが……動かなくなった?」
「いや、違う……。彼女は姉さんの血を持った真一を介して、わたしと同じ力を得ていた。それは時をつかさどる力、いや、空間をつかさどる力」
カーリーは驚いた表情で言った。時空とは、そもそも時間と空間のふたつが合わさった言葉を意味している。
「ぐぅっ! ぎゃ……ぎぃ、ぐぅっ!」
マヒシャの身体は徐々に潰れていく。
麻姫が空間を、マヒシャがいる空間を潰しているのである。
「やめぇろぉっ! 死にたくない」
マヒシャは足掻いた。いや、空間に逃げ込めばいいのだ。
しかし、その空間を開く力が麻姫の力に勝らなかった。
マヒシャのいた空間が潰れ、そこには、なにも残らなかった。
「か、勝ったの?」
カウマーリーがそう尋ねる。「みたいね。まったくとんでもない力だわ」
「――みなさん、真一くんを追いましょう」
麻姫はそう言いながら、ゆっくりとカーリーたちを見る。
「ラクタビージャは、すぐそこまで来ています。ニシュンバさんを連れて」




