2・戦女神――5
――悲鳴が聞こえたのはたしかこっちだったはず。
真一は、行き交う人と人の隙間を潜るように走っていた。
「お待ちください、真一さま」
うしろから声が聞こえ、真一がそちらに振り返ると、チャームンダーとインドラーニーが追いかけてきていた。
「――ごめん」
「いえ、それで悲鳴が聞こえたというのは本当なのですか?」
「ああ。あっちの方から聞こえてきたんだけど、こうも人が多くてでかい町だと」
真一は、もしかしたら自分の聞き間違いかもしれないとさえ思ってきていた。
「それなら、私が少々道行くものたちを静めましょう」
チャームンダーはそう言うと、軽く深呼吸した。
「真一さま、耳を塞いでいてください」
インドラーニーにそう云われ、真一は軽く両手で耳を塞いだ。
真一は、チャームンダーが大声を出すものだと思った。
チャームンダーは仮面の下を外し、胸を撫で下ろすや、詠った。
『なんだ、この声……、すげぇ、綺麗だ――』
真一は、思わず耳から手を外した。チャームンダーの声が『生きている』と思ったのだ。
それはまるで小鳥のように優しく清楚な囀りでもあれば、獅子のような勇敢で威圧感のある咆哮にも聞こえた。
いや、真一は仏教の息子であったため、この声の正体がなんなのかがわかったのだ。
『――泣いてる? チャームンダーは誰かのために泣いているのか?』
そう思ったのは、葬儀屋をしている祖父たちの手伝いで聞いた事がある、別れを悲しみ、死者の死を悔いる人々の涙声に似ていたからであった。
「し、真一さま、耳を……耳を塞がなければ――殺されてしまいますよ!」
インドラーニーの言葉に、真一は首をかしげた。
「おいおい、冗談はやめてくれよ。声を聞いたくらいで殺されるわけないだろ?」
真一があきれた表情でインドラーニーを睨んだ。
「うぅ……、やめてくれぇ」「なんだ? このうたは? うたなのか?」
「お願いだ、やめてくれぇ」「やめて、やめて……」
周りの人間たちが蹲り、悲鳴をあげている。
「な、なんだよ、これ――」
「……行きましょう、二人とも」
チャームンダーが、真一とインドラーニーに声をかける。
「あ、ああ……」
真一は、自分の横を通ったチャームンダーを見るや、言葉をかけられなかった。
『――思い出した。たしかチャームンダーって、死をつかさどる女神だ』
そう考えながら、真一はチャームンダーを見やり、遣る瀬無い気持ちになった。
『あれ? でもあの歌声、どっかで聞いたことが……』
「真一さま、なにをされているのです?」
インドラーニーに声をかけられ、真一は彼女たちを追った。
「いやぁあああああっ!」
大きな悲鳴が、町の中をこだました。「うるせぇっ!」
五、六歳ほどの小さな子供を腕に抱えながら、男が大声をあげる。
「お母さん、助けてぇ」
子供が目の前の母親を見ながら、泣き叫ぶ。
「ああ、お願いです。その子を離してください」
「うるせぇっ! さっさと金目の物をもってこいってんだよっ!」
男はダガーナイフを子供の首元に翳した。
「……っ」
子供は恐怖で声を殺した。首に冷酷な感触が伝わってくる。
「ほらっ! さっさと金目の物を持ってこいっ!」
「……わかりました」
母親が観念し、スッと立ち上がった。――その時である。
「霹靂」
男の頭上に雨雲が現れ、雷が轟いた。
それが男に当たったが、子供には傷ひとつついていない。
「マールッ!」
母親が子供に駆け寄り、抱きしめた。子供は、母親に泣きつく。
「おお、あなたさまはインドラーニーさま」
町の人から声をかけられ、インドラーニーは小さくそちらへと振り返る。
「て、めぇ……、こんなことしてただですむと――」
男が立ち上がり、インドラーニーにナイフを向けた。
「るっさいから、寝てろっ!」
うしろから声が聞こえたのと同時に、脳天に衝撃が走った男は、泡を吹いて倒れた。
「――容赦ないですね?」
「感動のシーンの時は、敵も待ってやるのが礼儀なんだ。水を差すのはルール違反だからな」
真一は腕を組みながら言った。
「知ってるか? 主人公の名乗りの時は攻撃してはいけないという暗黙のルールがあってだな」
「なにを云っているのか、皆目見当つきませんが――」
仮面で他の人には見えないが、あきれた表情を浮かべていたチャームンダーの顔が険しくなった。
「どうかしたのか?」
その異変に気付いたインドラーニーが尋ねる。
「いや、さっき強い気配を感じたのだけれど」
チャームンダーは人込みに目をやった。「なにも感じぬが?」
インドラーニーが首をかしげる。
チャームンダーも、自分以外が気づいていない以上、さっきのは気のせいなのかと思ったのだが、それとは違う気配を自分の傍から感じた。
気を失っていた男が、抱き合っている母子のうしろで、ナイフを振り翳していた。
だが、それとは違うなにかに気付いたインドラーニーと真一は、言葉を出せなかった。
男の背中に、三叉槍が突き刺さっていたのだ。
「あがぁっ?」
男は、ゆっくりと自分のうしろに立っている人間に目をやった。
「――――っ」
ニシュンバが三叉槍を捻ると、血が噴水のように噴出した。
周りの人間たちが悲鳴をあげる。
「なにをしている? ニシュンバ」
シュンバに声をかけられたニシュンバは、男の体から三叉槍を抜き出すと、子供に近付いた。
「や、やめろっ!」
インドラーニーとチャームンダーがニシュンバを止めにかかった。
「ちょっと待てっ!」
真一がインドラーニーとチャームンダーに声をかける。
「どうしてですか? もしかしたらやつはあの母子まで」
インドラーニーが怪訝な表情で訴えた。
「それだったら、ここにいるやつら全員殺されてるんじゃないのか?」
真一は、笑みを浮かべたが、表情に余裕がなかった。
チャームンダーが違和感のある気配を感じていたとはいえ、自分たちが気付くまで、ニシュンバの存在に誰一人気付けていないのだ。
「お前が、シヴァ王が仕向けた使者か?」
シュンバがそう尋ねると、真一は答えるように頷いた。ここで嘘を言えば、殺されると本能的に思ったのである。
いや、今この状況下においても、殺されると思わないほうが可笑しいのだ。
「――大丈夫だった?」
ニシュンバが母子に声をかける。子供は恐怖に振るえ、ニシュンバを睨んだ。
「こ、この子だけは……この子だけは見逃してください」
母親が懇願する。
「……安心しろおばさんっ! そいつあんたたち親子を殺す気なんてねぇよ」
真一がそう言うと、シュンバが首をかしげた。
「ほう、なぜそう思った?」
「第一に、あんたたちがこの親子を助ける動機がみつからない。たぶんそこの嬢ちゃんが自分から勝手に助けたって考えると辻褄が合う」
「なるほど、しかしこうも考えられんか? あの親子をそのまま帰すことはないってことが」
シュンバはそう云うや、剣を取り、構えた。
「真一さま、ここは私が」
インドラーニーの言葉を遮るように、真一は彼女の体を止める。
「どうやら、あちらさんは俺を指名らしい」
「ほう、ただの人間ではないとは思ったが、覚悟だけはあるみたいだな?」
シュンバは不敵な笑みを浮かべる。
「こっちは元の世界に戻りたいんでね。無駄に殺されるよりかは、あんたを倒してからでも遅くねぇだろっ?」
そう告げるや、真一はシュンバの懐に飛び込んだ。その速さに、シュンバは我が目を疑う。
「おらぁっ!」
真一は足払いをし、シュンバを転ばせた一瞬のうち、かかと落としを食らわせた。
「よっしゃっ! たしかな手応えっ!」
「ぐぬぬっ、なかなかやるな」
シュンバは体を起こすと、体勢を低くし、真一の足元にナイフを突き刺そうとする。
「っと、んな見え見えの攻撃が……」
シュンバの攻撃を避けた真一は、空中で体を翻した。ニシュンバが上空から三叉槍で突き刺したのだ。
真一の横腹に三叉槍の刃がかすり、真一は体勢を崩した。
「あがぁっ!」
地面に叩きつけられた真一は、悲鳴をあげる。
「うがぁっ!」
腹部に重い感触が伝わり、そちらを見上げると、ニシュンバが馬乗りになって三叉槍を翳していた。
「さぁ、やれっ! ニシュンバッ!」
ニシュンバのうしろからシュンバの声が聞こえてくる。ニシュンバは三叉槍を真一目掛けて振り下ろした。
「よっ! とっ!」
真一は腰を大きく上げた。
その衝動でニシュンバは体勢を崩し、真一の体から落ちた。
「きゃっ!」
落ちたニシュンバが小さく可愛らしい悲鳴をあげる。
「あいててて……、祖父ちゃんからブリッジを練習させられていたのがこんな形で役に立つとはなぁ」
真一は腰を擦りながら、祖父に感謝するのであった。
「くっ!」
シュンバが苦痛の表情を浮かべる。ニシュンバも体勢を整えるが、頭上から気配を感じ、二人は空を見上げた。
夥しい数の鳥が羽音を立てながら、空を埋めている。
「苅谷くんっ!」
麻姫の声が聞こえ、真一たちはそちらを見やった。「この鳥は、シュナヴィーか?」
インドラーニーがそう言うと、ヴァイシュナヴィーが頷いた。
「くっ! ニシュンバッ! ここは引くぞ」
「逃がさぬっ!」
インドラーニーと、ヴァイシュナヴィーが槍を持ち、構えた。
「――――っ!」
ニシュンバも体勢を整え、三叉槍を構える。
「なにをしておる?」
声が聞こえ、全員がそちらを見た。「これはホウェーどの」
シュンバとニシュンバが、老人の前で膝を突き、頭を下げた。
「て、てめぇっ! あの時のジジィッ!」
真一はワナワナと体を震わせ、老人を指差した。
「ひょひょひょっ! まさかとは思ったが、やはりお前さんだったか?」
老人は、歪んだ笑みを浮かべる。
「あの時、何人の人が死んだと思ってんだぁこらぁっ!」
真一が老人に飛び掛った。「やれッ! ニシュンバッ!」
ホウェーがそう命ずると、ニシュンバは三叉槍を、真一の腹部に突き刺した。
「…………っ?」
真一は、ゆっくりと体をうしろへと倒していく。
「し、真一さまっ!」
チャームンダーが倒れた真一に駆け寄った。
ニシュンバは、突き刺した三叉槍を抜き取る。
「あがぁっ!」
「こいつっ! ただではすまさんぞっ!」
インドラーニーとヴァイシュナヴィーが、ニシュンバに襲い掛かった。
それをニシュンバは三叉槍で応対する。
「苅谷くん! 苅谷くんっ!」
「い、急いで治療を……」
「ニシュンバ、もうよいっ!」
ニシュンバは、インドラーニーとヴァイシュナヴィーを吹き飛ばす。
「……待てよ。ニシュンバ」
真一は、ゆっくりと体を起こした。その顔は蒼白に染まり、大量の汗をかいている。
「――まさか、毒?」
「帰る前にひとつ教えてくれ。なんでこんなことをした? お前の力だったら、こんな毒なんて使わなくても、おれなんて倒せるだろ?」
真一の言葉に、ニシュンバは一瞬だけ怪訝な表情を浮かべた。その表情は青褪めている。
「くだらん。戻るぞ」
ホウェーがそう言うと、シュンバとニシュンバは、その場から姿を消した。
「おいこらっ! 逃げんなぁっ! ちゃんと説明しやがれぇっ!」
「うるさい人間だ。わしが直々に答えてやろう。その毒はなぁ、ただの人間なら即死なんじゃよ?」
「おいっ? それってどういう意味だよ?」
ホウェーの言葉に、真一は尋ねる。
「お前さんがただの人間ではない……ということじゃ」
ホウェーはそう言い残し、姿を消した。
――なんだよ、それ……。
「苅谷くん?」
麻姫が驚いた声をあげる。
真一は、死んだように気を失った。




