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アンチ・ワンダーランド

作者: RAINDROP

 青年は大学二年の秋を迎えていた。夏休みと残暑が明け、ようやく夕暮れ時の風が涼しくなってきた頃のこと、彼は図書館での読書を終えて帰宅する途中であった。レンズの厚い黒ぶちの眼鏡を外して乾燥しきってしまった目をこする。午後の講義が休講になり、ちょうどアルバイトもサークルもなかったので、読みたかった参考書や友人から勧められた本を静かな図書館で時間を忘れ読みふけっていたのだった。

 図書館から徒歩十五分ほど離れたアパートまで帰る途中、青年はふと近道しようと思い小さな商店街を抜けていくことにした。暫く進んでいくと人通りが少なくシャッターが閉まっている店舗が目立つ中で、赤と黄のペンキで縞模様に塗られた鮮やかな立て看板が目に入る。灰と錆色ベースの寂れた街でその派手な看板は圧倒的な存在感を醸し出していた。青年は思わず足を止めてその看板を観察する。看板には古めかしい筆文字で「会場こちら」と書かれている。「会場こちら」とあるものの、横に地図があるわけでも矢印のようなものが併記されているわけでもない。

「こちらって、どちらだよ」

 苦笑いしながらそう呟き、あたりを軽く見回してみるが、既に営業をやめてしまった空き店舗が並んでいるだけである。おそらく催事に使った看板を適当によけて置いているだけだろうと結論付けて、青年は再び帰路に着こうとした。

「こちらです」

 オウムの声をもっとしゃがれさせたような奇妙な声が青年を呼びとめた。空耳だろうかと思ったが、看板の方に向き直るといつの間にか燕尾服を着た小柄な老人が佇んでいる。

「会場は、こちらです」

 老人は先程聞いたのと同じ声でそう言った。

「えっと、俺、ち、違います!」

 急に現れた老人に驚き、とっさに応えた青年は何故だか恐ろしくなりその場を離れようと駆け出した。商店街の赤煉瓦敷きの道を出口に向かって走る。しかし、彼はすぐに異変に気付く。……この商店街はこんなに広かっただろうか。ほんの数百メートルの小さな商店街のはずなのに、行けども行けども赤煉瓦の道が続く。前方に目をやると、本来なら出口があるはずの空間は渦を巻いたように歪み、目に突き刺さるような原色の光が明滅していた。その光景に唖然とした青年は立ち止まって荒く息を吐く。

「何だよこれ……」

 気がつけば辺りはシャッター通りとは程遠い異質な世界に変貌していた。店舗の壁は虹色の水玉や花柄に彩られ、陳列棚に並ぶのは万華鏡のようにころころと形を変える不可思議な発光体だ。上を見れば桃色の提灯が縦横無尽に張り巡らされたケーブルに等間隔でぶら下がっている。あちこちに掲げられた看板に書かれているのは、確かに見慣れた日本語の文字列のはずであるのに頭の中にその意味が浮かんでこず、まるででたらめで読み取れなかった。路地端に目を映すと巻き毛のような植物の蔦が生えており、近くの電柱やら壁やらに伸びている。赤煉瓦はガラスのように透き通り、提灯の明かりを反射して紫色に輝いていた。

「俺、何で……どこだよここ」

 生ぬるく甘ったるい匂いの風が頬を撫でるのがひどく気持ち悪い。纏わりつく風を振り払うようにして首を横に振った青年は、はっとして地面から目線を前に戻す。そこにはあの小柄な老人がいた。

「こちらが、会場です」

 明らかに人のものでないしゃがれ声であるにも関わらず、老人の声ははっきりと聞こえた。

「会場って、何の……」

「『夢を見る』会場です」

 青年が質問を言いきる前に、老人は早口で続ける。

「貴方様は本がお好きで。もっと読み続けていたいと。明日にはまた忙しくなると。もっと読みたいと、もっと、もっと、その『夢を見る』ことができる、会場です」

 何故この老人が自分が読書好きであると知っているのだろうか、と青年は訝しげな様子だった。もしかしたら図書館で本を読みふけっていたのを見られていたのかもしれない。だが、それだけでは「明日にまた忙しくなる」という青年の予定まで知っている理由にはならない。老人が言うとおり、確かに彼は明日からアルバイトの連勤で本を読む時間が減ってしまうだろうと考えていたのである。

「ずっと、読めます、もうそれは、ずっと。『夢』ですから。何でも叶います」

 老人の濁った瞳と皺だらけの口から洩れるしゃがれ声に青年はゾッとした。よくわからないが、この怪奇な世界と老人は青年をどこかに引き込んでしまおうとしているように見えた。

「これを……」

 老人はずいっと一歩青年に近づくと、巨大なウサギのぬいぐるみの頭を差し出した。こんなものどこに隠し持っていたのだろうか、と疑問に思う間もなく、老人は押しつけるようにしてぬいぐるみを青年の眼の前に持ってくる。よく見ると、ぬいぐるみにはちょうど人の頭がすっぽり入るほどの大きさの穴が開いている。遊園地のマスコットや怪獣ショーにあるような着ぐるみの頭であるらしかった。

「なんですかこれ、いらないです、俺は家に帰りたいんですっ!」

 青年が必死に抵抗していると、不意に後ろから何者かに腕をとられ、羽交い締めにされてしまった。

「は、放せ!」

 がっちりと動きを封じられているせいでまともに身じろぎすらできない。ならば足で蹴飛ばしてやろうと試みるが、地面から伸びる蔦が縄のごとくしっかりと足を固定している。

「やだ、やめろ……なんだよこれ、冗談だろおい」

「あなたは夢を見たがっておいでだ」

 着ぐるみの頭に開いた黒い穴がじわりじわりと迫る。ただの着ぐるみならここまで頑なに拒絶しないのだが、先程から頬をかすめるぬるい風はその着ぐるみの穴から吹いていることに気が付いてしまった。吐き気がするほどの甘ったるい匂いに意識が遠のく。

 すうっと、上から幕が下りるように視界が闇に覆われた。



 本だ。本の海だ。忙しくてなかなか読めなかった本、ずっと欲しかったのに買い逃した本、絶版になった雑誌も、高価で手が出ない資料集も、山か塔かというほど高く膨大に積まれている。その巨大な本の柱が何本も何本も辺り一面にそびえている。柱の回りには螺旋階段があり、少し手を伸ばせばどの高さの本も取って読めるようになっている。

 小さい頃に読んでタイトルも忘れていた絵本を見て懐かしさを感じたかと思えば、そのすぐ横に昔から何度も読み返しているお気に入りの小説がある。またその横には図書館でいつも貸出中の人気作、上には大好きな芸術家の画集が並ぶ。どれから見ようか、と迷いながら、青年は試しに何かひとつ捲ってみようとすぐそばの本を手に取ろうとした……

「ダメ!」

 それを制止する叫び声が響く。なんだ、せっかくゆっくり本が読めると思ったのに、と青年は辺りを見回す。

「そんなものより私を見てよ」

 そんなものとはなんだ、と青年が反論しようとしたとき、ちょうど本の山に埋もれる一台の小型テレビが視界に入った。今時博物館にでも行かないと見られないような、ブラウン管式でチャンネルを変えるためのダイヤルつきの、大きなアンテナが上に載っている旧型のテレビである。

「わたしをみて」

 テレビのスピーカーから発せられたのは、研ぎ澄まされた少女の声だった。



 先程まであんなにも辺りを埋め尽くしていた本の柱が霧のように消え去り、異質な商店街の景色に戻っていた。青年はぽかんとして地面に座り込んでいる。

「絶対に私から目を逸らさないで」

 少女の声のテレビが言った。テレビ……なのだろうか、「これ」は。

 旧式の箱型テレビの下にはセーラー服を纏った人間の少女の身体がついていた。いや、セーラー服の少女の頭がテレビになっている、と言った方がよいのか。テレビ、否、頭部だろうか、ともかく箱の左右の側面には束になったオレンジ色の髪の毛が生えており、さながらツインテールである。

「何? 仮装? ていうか本は? あれ? 俺どうなって……」

 青年の脳内は立て続けに起こる非現実的な出来事に混乱せざるを得なかった。何から聞けばいいのか、自分はいったいどうなっているのか、どうすればいいのか、すっかり解らなくなってしまった彼はとりあえずテレビ少女のいうとおり彼女を見つめ続けることにした。

「電波塔を壊せばあなたは元の場所に帰れる。それまで私から目を離さないでね」

 少女の顔、つまりはテレビ画面なのだが、そこにはカラーバーと砂嵐が交互に映し出されている。

「電波塔……? あんたは一体何なんだ? 俺はどうなってるんだ?」

 少女は乱雑に引っ掴んでいたウサギの着ぐるみの頭を放り投げた。おそらく青年の頭に被らされていたものであろう。

「いいから黙ってついてきて」

 異形頭の少女は青年の腕をぐいと掴んで立ちあがらせると、そのまま彼の手を引いて歩き出した。細い腕からは想像もできないほどの力だった。

「痛いって、ちょっと!」

「私から逃げないで。私を見て。ついてきて。それだけ守ったらここから出られる。信じて」

 信じろと言われても、奇妙な姿をした人物に言われてもどう信じればいいのか分からない。少女は戸惑う青年をほとんどちからずくで連れ歩く。

「逃げないから! もうちょっと優しく! 優しく!」

 数十メートル引きまわされてようやく青年の懇願は少女に聞き届けられた。

 異形頭の少女は青年の腕を開放し、かわりに手を差し伸べてきた。握れ、ということだろうか。青年はおそるおそる彼女の手を握った。ほんのりと温かく、しっかりとした人間の手の感触だった。彼女の手首と指は細く折れそうなほどで、これがいままで腕に食い込んでいたのだからどうりで痛いはずだと青年は一人納得した。

「電波塔を探して。妨害電波があるとダメなの。壊さなきゃ」

 二人は手を繋いで歩き出す。少女がやや先を歩き、青年を導いているような格好だ。

「電波? やっぱり、テレビだから?」

 青年はなんとなしにそう尋ねた。

「……まあ、そんなとこ。夢の世界を作り出す電波。電波塔がこの世界を作り出しているの」

「あの変なじいさんも言ってたけど。『夢を見る』会場だって」

「そう。ここは人間に『夢を見せる』場所なの。でもみんな夢ばかり見ていると誰も私を見なくなっちゃうでしょ?」

「君は誰かに見られたいの?」

 少女は歩きながらこくんと頷いた。

「夢より私を見てほしいの。そりゃ、夢みたいに都合のいいものばっかり映すわけじゃないし、個人の好みにはいちいちこたえられないんだけど、でも、見てほしい」

 テレビだから視聴者が要るのだろうか、と青年はぼんやり考える。

「ん? あれ? でも君も夢なんじゃないの……?」

 少女が急に足を止めた。何か怒らせるようなことでも言ってしまったかと不安になる青年をよそに、少女はじっと遥か空中を眺めている。

 あの生ぬるい風が二人の間を吹き抜けた。青年のパーカーのフードが激しく翻ったが、不思議なことに少女の髪やスカートはぴくりとも靡かない。

「あった、電波塔」

 彼女が指で示す先に、レモンイエローの空に浮かぶ棘だらけの鉄塔が見えた。



 どうやって空中にあるあの鉄塔に向かうのだろうか。青年が少女に尋ねようとした瞬間、上方に強く引っ張られる感覚とともに足が地面から離れた。

「う、わ」

 飛んでいる。異形頭の少女に手を引かれ、ぬるい風を左右に切り裂きながら青年は宙を舞っていた。妖精の粉を振りかけられた女の子のイメージが青年の頭を過る。彼の手を引く少女はさながらネバーランドのピーターパンだろうか。結構な速度で空中を移動しているにも関わらず、嫌な浮遊感や気持ち悪さはなかった。

「なん、なんで、飛べんの!?」

「夢の妨害電波の中だからできる芸当。ちょっと癪だけど」

 二人はぐんぐん飛行スピードを増して鉄塔に近付いて行った。遠目からは霞んでおぼろげだった鉄塔の姿がはっきりとしはじめる。棘だと思っていたものは近くで見るともっと複雑で混沌とした形だった。神社の鳥居、床屋のトリコロール、何かの動物の尻尾、マネキンの手足、観覧車のゴンドラ、水飲み鳥、一輪車、蛍光灯、ポスト、銀杏の木……とにかく街中やデパート、人の集まる所で必ず目にするあらゆる物品が複雑に組み合わさって一本の枝のように鉄塔から伸びている。品物一つ一つが汚れもキズもない新品同様の状態なので、ゴミの山だという印象は受けなかった。あのたくさんの物の中に「何か」、うまく言葉に表せない「何か」があるような気がして、青年は飛行しながらその枝を観察する。

「私から目を逸らしちゃダメ」

 鋭い声色で少女が注意すると、青年はハッとして視線を少女に戻した。

「着地する」

 続けざまに少女から合図があった。二人は鉄塔の頂上からやや下方の混沌の枝の上に降り立つ。遥か上空にあったあの電波塔にいるのかと思うと、余計に少女から目を逸らしづらくなる。というか、下を見たくない。

「てっぺんへし折ってやる」

 少女が意気込むようにそう言って進もうとしたとき、塔の内部から聞き覚えのあるしゃがれ声が響いてきた。

「夢は終わらない、終わらせない」

 小柄な老人が塔の奥からぬうっと現れ、二人を睨む。その背後には何人もの奇妙な人物が並んでいた。全員が様々な動物やキャラクターを模した被り物を頭につけ、腕をだらんとさせて俯いている。服装や体系も多種多様で、小さい子どもから女性までいるようだった。

「ワンダーランドは永遠だ!」

 老人が叫ぶと、背後にいた被り物の一団が一斉に二人に向かって突進してきた。

「わ、うわああああっ」

 青年は思わず後ずさりしそうになるが、それを少女が引きとめる。

「面倒なことになった」

 舌打ちとともにそう少女が呟いたのを青年は聞き逃さなかった。舌はどこにあるのだろう、と思ったが口も見当たらないので今更追求する気にはなれなかった。強いて言えばスピーカーが口の役割をしているのだろうが、その発信源は何処なのか……。考えれば考えるほどに不思議な存在だ。

「あなたがてっぺん折ってきて!」

 少女は首に巻いていたリボンを解いて青年に握らせると、勢いよく被り物の集団に飛び込んで行った。いきなりとんでもない指示をされた青年は一瞬頭が真っ白になる。

「……へ?」

「早く! 私がこいつらの相手をする! やばくなったらリボンを見て!」

「ちょ、ちょっと……」

「早く!! あなた帰れなくなるよ!」

「……ああああ、もう、わかったよ! やってみる!」

 半ばやけくそ気味に返事をした青年は、テレビ少女のリボンを握り締めて電波塔の頂上に向かうことにした。といっても、戦闘中の一団を避けて上方に向かうには他の枝に飛び移っていかなくてはならなさそうだった。

「あそこまで行けっていうのかよ」

 さっきは少女と手を繋いでいたおかげで飛んでいても不安はなかった。いくら夢の電波の力があるといっても、この高さから空中に踏み出すには相当な覚悟がいる。青年が巣立ち前の雛のような心境でいると、被り物を着けた二、三人が少女をかわしてこちらに向かってきた。

「ひ、ううううううわああああああああ!」

 青年は思わず足元の片目の達磨を思い切り蹴った。すこん、という小気味よい音と共に被り物の一人に達磨がぶつかる。と同時に青年はバランスを崩し、枝から落ちそうになった。心臓が縮むような感覚。こんな所から落下したら……想像したくもない。しかし敵は待ってくれなかった。青年が蹴りあげた達磨で一瞬怯んだものの、被り物たちはまだ向かってくる。

「ばっかやろおおおおおおおお!」

 がむしゃらだった。当たって砕けろ、という勢いで青年は右斜め前方にある別の枝めがけて思い切り跳んだ。

 青年の身体は理想的な放物線を描いて目当ての枝に飛び移った。普通ならまずとどかないであろう距離を跳んだ、いや飛んだ彼の顔にはびっしりと汗が吹き出ていた。もたもたしている暇はない。夢の電波の恩恵を受けているのは自分だけではない、この場にいる全員がそうであるはずだ。被り物たちに追いつかれる前に電波塔の頂上に辿りつかなくては。

 もう上方に枝は見当たらない。青年は格子状に組まれた鉄塔の柱を足場にして登っていくことにした。少女から渡されたリボンをしっかり手首に結び付け、ロッククライミングの要領で上を目指す。足場に靴底が当たるたびにかつんかつんと音が鳴る。音は自分のものだけでなく、他にもいくつか聞こえる。嫌でも追われているのだと実感し、心臓の鼓動が激しくなる。

 風の匂いが強くなってきた。



 少女は被り物集団と対峙していた。いつの間にか群れの向こうに移動した老人が、気味の悪い歪んだ笑みを浮かべ、じっと彼女を睨みつけている。

「ワンダーランドを壊す邪魔者めが」

 忌々しげなしゃがれ声が響く。

「壊してないわ、否定しているの」

 少女はその頭部と同じ無機質な声色で言った。

「夢の否定が世界の崩壊に繋がる! お前のような悪魔の姿をを見られぬよう、声を聴かせぬよう、私達は人々を保護しているのだ!」

 あいつを追い出せ、と老人が被り物たちに命令すると、彼らは一斉に少女に向かって突進してきた。

 少女の四方を取り囲むようにして迫る被り物たちを、彼女はひらりとステップを踏んでかわす。次々と襲いかかる敵を避け続けていた少女は、攻撃の隙が大きい者を素早く見分け、むんずと柔らかな毛に覆われたネコの頭を掴んだ。

「ひとーつ」

 ぽん、と軽い音を立てて被り物が脱げる。いや、脱がされる。少女は手にした空の頭部を敵の群れの遥か遠くに放り投げた。流れるような動作で逆の手を被り物の「本体だった」ものに伸ばし、襟首を掴むと、今度は塔の遥か下目がけて投げ落とす。

「ふたーつ」

 そうやって隙ができた者から順に、被り物と本体とを切り離し、別々の方向に投げ分けていく。イヌが飛び、キリンが飛び、笑顔のピエロが飛ぶ。

「みっつ、よっつ、ゴーロクシチハチ」

 異形頭の少女による仕分けはどんどん進み、被り物は積もり積もって山となり、高くなっては崩れ、高くなっては崩れを繰り返す。そのうち辺りは被り物が一面にばらまかれた海のようになっていった。

「よん……じゅう? だっけ?」

 向かって来るものがいなくなると、少女はようやく動きを止める。スカートを軽くはらい、左右で高さの違うボーダーソックスを元通りに直してから、顔色を青白く染める老人に目……否、画面を向ける。

「お前で最後」

「ひ、ひい、なんで、何でお前にそんな力が残って……!?」

「……あんたらが考えているより、『ここ』を否定したいって視聴者ひとがまだ、いるから」

 少女は素早く老人に詰め寄り、スカートが激しく翻るのも気にせず、片足を高く振り上げる。

「『アンチ』め……!」

 少女の脚が顔面に振りおろされる瞬間、老人はそう呟いた。

 ばき、と硬い物が砕ける音がした。



「あれだ!」

 青年の視界に塔の頂点らしきものが映った。あともう一歩登れば手が届く。だが、その一歩が踏み出せなかった。足が、重い。

 足首を掴まれている。おそらく追いつかれてしまったのだろうが、目を合わせてはいけない気がして確認はできなかった。青年は必死に足を動かして振り払おうとするが、鉄の枷でもはめられたかのように自由が利かない。

「く、そ、あと少しなのに……」

 リボンが巻かれた手を伸ばし、もがくように身体を動かした。だがやはり届かない。こうなったら怖がっている場合ではない。殴りつけてやろう、と青年は足元を見下ろした。

 そこにはクマを模った着ぐるみの頭があった。クマの頭を被っている身体は工事現場でよく見かける作業着を纏っている。足首にかかる力が次第に強まる。青年は片手で身体を支え、もう片方の手で思い切りクマの頭を叩いた。が、何も変化はない。

「邪魔、すんな、この……」

 数度強く叩いたり押したりしたものの、一向に足が開放される気配はなかった。青年は抵抗をしているうちに、意識がぷつぷつと途切れる感覚があることに気付く。頭に雑音が入って思考がかき消され、「何か」に上書きされていく。このまま症状が続いたら自分はどうなってしまうのだろう。

 身体から力が抜け、腕がだらりと下がりかかる。青年はふと、少女の声を思い出す。

『やばくなったらリボンを見て』

「リ、ボン……?」

『わたしをみて』

 青年は手首に巻いた臙脂色の細いリボンを見つめた。すると、霧が晴れるように意識がはっきりしていくではないか。

「ぐ、く、放せ!」

 リボンの効果なのかはわからないが、急に足首を掴む力が弱まり、その隙をついて青年は渾身の拳を被り物の頭めがけて振りおろした。

 鈍い音とともにクマの頭が作業服の身体から外れ、青年の足も開放される。遥か下に落下していく被り物の中の人物の顔は、ごく普通の中年男性だった。

 青年はそれを気にすることなく一目散に電波塔頂上のアンテナに手をかける。が、いくら力をかけても折れないどころか曲がりもしない。

「なんだこれ……くっそ、びくともしない」

 太さ直径三、四センチほどの棒の先から甘さを伴ったぬるい風が溢れだす。青年は意識を失う寸前のところで手に結び付けたリボンを見つめ、なんとか復帰する。アンテナを折ろうとする間、何度か意識を手放しかけ、その度にリボンを見つめて思考を保っていたが、青年は段々とリボンの効力が薄れていくのを感じた。

(やばい、これは、もう)

 頂上にしがみついていた青年の身体がぐらりと宙に向かって反り返る。手から足からあらゆる所の力が抜けていく。枯れ葉が木の枝から離れるように、ふとした拍子に青年は鉄塔から落下した。

 重力を感じないせいでどれくらいの速さで落ちているのか、あとどれくらいで地面なのかはっきりしない。ただ、着地するであろう場所には、空になった着ぐるみの頭が大量にばらまかれているのが分かった。

 被り物のプールにあと頭ひとつで突入するか、というところで、青年は横から強い衝撃を受けた。

「うべっ!」

 青年は情けない声をあげる。

「……無理させてごめん、あとは私がやる」

 いつの間にか、彼はテレビ頭の少女の脇に抱えられていた。青年を抱えた少女は鉄塔の足場から足場へ軽快に跳んで頂上へと登っていく。

「待て、この世界、は、終わらせな……」

 しゃがれ声の老人が二人を追いかけてくるが、文字通り少女が鋭い蹴りで一蹴する。

「しつこい」

 蹴りによる重々しい振動は抱えられている青年にも伝わってきた。老人の腹をジャンプ台がわりにして、少女はより高く跳躍する。凄まじい速度で上昇した二人の眼の前に、電波塔の頂上にあるアンテナが飛び込んできた。

「有害電波……」

 景色が縦に一回転する。脇に抱えられていた青年は一瞬手放された後、素早くパーカーのフードをつかまれ少女が突撃する勢いのまま引っぱられた。

「排除ーーーーーーーーーーーー!!!」

 少女の足先はしっかりとアンテナの中心をとらえた。アンテナはいともたやすく歪み、そして無残に折れて真っ二つになってしまった。同時に、あの生ぬるい風も止んだ。

 ぱちん、と小さな破裂音がした。電波塔が弾けている。チーズが融けたように塔の表面が液状になって崩れたかと思うと、薄い膜の泡となって膨らみ、次々と割れていく。破裂音は次第に大きく大量に聞こえてくるようになり、その現象は塔だけでなく空間そのものにまで及んでいく。

「夢が終わる」

 少女が呟いた途端、二人は急降下する。先程までとは打って変わって、しっかりと重力を伴った落下だった。内臓が浮き上がる独特の浮遊感が青年を襲う。なんとか抑えていた恐怖が奥底から押し上げられた。

 息を飲んだまま、何も言えずに口をぱくぱくさせている青年の両頬に少女の手のひらが添えられる。

「私を見て」

 青年の視界が彼女の顔……テレビ画面で占められる。ずっとカラーバーか砂嵐だった画面には、どこかで見たことがある灰と錆色のシャッター通りが映っている。

「おかえりなさい」

 異形頭の少女は優しげな声色でそう言った。無機質なはずの彼女の表情が笑っていたように見えた。



 気が付くと、青年は商店街の道端に佇んでいた。まだ頭が朦朧とする。さっきまでのは夢だったのだろうか。彼はなんとなく商店街を一度往復してみたが、あの「会場こちら」と書かれた派手な看板はどこにも見当たらなかった。

「……帰ろう」

 気が済んだのか、青年は再び家路についた。明日のために早く寝よう、などと考えながら。

 はらりと青年の手首から何かが解け落ちたが、彼は気が付かず歩き出す。それは一本の細いリボンだった。地面に落ちたリボンの端に、色あせた糸で文字が刺繍されている。


『コガ ウツミ』


 青年が夢の中で出会った少女の名を知ることはなかった。




異形頭の少女を出したかったがための雰囲気ファンタジーです。

某文芸部誌に掲載した短編に若干加筆したものです。


私もよくウツミから目を逸らしたり、逃避したりします。

うっかりワンダーランドに迷い込んだりもします。

そのたびに彼女は「私を見ろ」とやってきて視聴率を維持(物理)するのです。

怖いけれど優しい娘です。

ちゃんと目(画面?)を合わせなきゃならないなと思います。


おわり。

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