「小さな紙切れ」
「タチバナアイリってアイリちゃんの事だろう?」
「そう、ですけどどうして」
どうして知っているの?その言葉は不安からか声に出せなかった。
ティスニアでは生活する上であまり名字は必要とされていないらしい。
と言っても愛梨のいる小さな地域ならでは、かもしれないが。
今まで聞かれた事がなかったのでこの世界へ来てから一度も口にしたことはない。
人にタチバナと呼ばれるのも凄く久しい。
それなのになぜ今ここで、タチバナという名が出たのか。
振り返るとダルガーは首を傾げながら「ほらこれ」と愛梨の方へと腕を伸ばした。
手元には小さな紙を持っていた。
「床に落ちてた、アイリちゃんへだろう」
とんとん、と指で示された先を覗き込むと短い文字。
ひらがなでもなく漢字でもない、ティスニア文字だった。
残念ながら、喋る言葉は不思議とわかるのだが、文字になるとまったくわからない。
ここへ来るまで見た事もなかったのだから当然といえば当然だが、話し言葉がわかる以上、文字も読めるようにしといてよ!なんて、勉強がからっきし好きではない愛梨は常々思っていた。
ただしちまちまと勉強中ではあった、文字を習う時は真っ先に自分の名から勉強をするものだ。
勿論愛梨もそうしていたので、ダルガーが指す文字、英字の筆記体とハングル文字を足して割ったようなティスニア文字には見覚えがあった。
「本当、アイリって書いてある」
ホッとした。
ダルガーから小さな紙を受け取る。
強く触れれば崩れてしまいそうな濁った柔い紙だ。
ティスニアで一般的に使われている紙は水辺に生える草から作るらしく日本で使っていたものとは比べ物にならない程脆い。
地球で言う所のパピルスあたりだろう。
こういう些細な所で、自分がいたのは進んだ時代であった事を再認識する。
その小さな紙は二つ折りにされていた。
名前が書いてあったのを正面に開いてみると中には短い文章が書かれているようだった。
文字の勉強はしているが、ティスニア文字は中々に難解で自分の名前と違い文章になってしまうと簡単には読めない。
自室には手作りの辞書があった、それでどうにか読める事を小さく祈る。
「なんだ? 愛の告白か?」
見上げるとダルガーが口元を緩ませこどものような顔をしていた。
壊れないよう気を付けながら腰元のポケットへ紙を突っ込む。
「もうちがいます! でも、拾ってくれてありがとうダルさん」
頭を下げると、後ろに束ねた黒髪が踊る。
綻ぶ愛梨の笑顔にダルガーは照れながらも片手をあげ自らの席へ戻った。
厨房から愛梨を呼ぶ声と店内からの催促の声が飛んできた。
仕事とお盆を放り出していた事を思い出す。
駆け足で戻りながらも、ポケットの中の紙に書かれた内容を思うと中々手につかない、そんな気がした。
きっとあのメモをよこしたのは、先程現れ消えたお婆さんだろうから。
(いったい何が、書いてあるのだろう)