「ここが始まり」
この世界へきて2年と数日、私が元の世界へ戻るには私をここへ飛ばした張本人……露店で占いをしていたあのお婆さんを見つける事だけだと思っていた。
***
突然現れた事に動揺したのか、愛梨はその場を動くことが出来なかった。
が、ものの数秒の事だっただろう。
手に持っていたはずのお盆が床で盛大な音を響かせたのが聞こえた。
騒がしかった店内は突然の衝撃音に静まり返った。
しかしその音が、愛梨が落としたお盆だと気が付けば、再び騒がしく会話を始める。
愛梨の料理目当てに来る客は多く、また愛梨が働き者かつそそっかしい性格と言うことも周知の事実であるからだ。
料理だけでなく愛梨の人柄に惹かれ通う常連客も多い。
そんな事、愛梨はまったく気が付いていない訳だが。
けたたましく落とされたお盆も、おっちょこちょいめ、と皆が微笑ましく思った中、傍にいたダルガーだけは、愛梨の様子がいつもと違う事に気がついた。
「……アイリちゃんどうかしたのか?」
「あッいえ、大丈…」
一瞬、一瞬だ。愛梨は一瞬だけ視線をダルガーへ向ける。
途端、扉の前に立っていたはずのお婆さんの姿が視界から消えたのだ。
愛梨はその場から弾かれたように扉へと駆け寄った。
いない。
見回しても店内に姿はない。
店を出て行ったのだろうか? いや、出て行ったのなら扉のベルが鳴るはずだった。
「う、うそ……」
いない。
がっくりとその場に項垂れてしまいたかった。
一筋の希望は煙にまかれたようにこの場から、ものの数秒で消えてしまったのだ。
なぜ一瞬でも目を離す様な事をしたのかと、なぜすぐさま掴みかからなかったのかと、己を叱咤した。
「本当にどうかしたのか?」
背後から声をかけてきたのはダルガーだった。
様子がおかしい愛梨を心配しているのが声色でわかる。
「いえ、知り合い……がいた気がしたんです」
もしかしたら見間違いだったのかもしれない、それに人を異世界へと飛ばす様な相手だ、こつ然と消えてしまっても何も不思議ではなかった。
「気のせいだったみたいです。私、厨房にもどりますね」
乱れた心を静めて何事もなかったように笑顔で振り返る。
ダルガーの方へ顔を向けると背丈の違いから大分上の方を向かないといけない。
心配そうなダルガーは腑に落ちない様子だったが愛梨の笑顔を間近で見ると照れたように視線を落とし頬を掻いた。
何を隠そうダルガーも愛梨の料理だけが目当てではない。
愛梨はその横をすり抜け厨房へと足をむける。
嘆いても仕方がない。
嘆いても現状は変わらず、生きるには働くほかない。
働かざる者食うべからず、だ。
2年間、毎日のようにその言葉を反復している。
それにしても、なぜお婆さんは姿を見せたのだろう、冷やかしにでも来たのだろうか。
「趣味悪い……」
考えても無駄だ、もう考えるのはやめようと、かぶりを振った時だった。
「タチバ、ナ アイリ」
背後から聞こえたのは愛梨のフルネーム。
その声の主はダルガーだったが、彼が愛梨のフルネームを知っている訳がない。
この世界で橘愛梨と名乗った事は一度もなかった。