予兆
暗い。
いつからここに立っているのか分からない。
そもそも、自分は目を開いているのか―――それすら分からないほどの闇。
この空間がどこまで続いているのか、測れない。すべてを飲み込み、虚無へ還す深淵―――。
(ここは・・・・・どこだ? 僕は・・・・・誰なんだ?)
自問しながら、掌を顔の前まで持ち上げた。しかし、目の前にあるはずの自分の手さえ、この闇の中では見ることができない。
自分の姿さえ見えない。自分の名すら思い出せない。
(怖い・・・・・)
底知れぬ闇が恐怖をもたらした。
飲み込まれる。存在が失われる。必死に手を伸ばし、何かを掴もうとする。しかし、その手は空を掴んだだけだ。
そのとき、目の前にぼんやりと赤い炎が浮かんだ。炎が闇を薄れさせ、辺りを照らす。自分の手が、ようやく視認できた。
―――恐れるな。
その炎が呼びかけてきた。
―――恐れるな。受け入れよ。この闇は、お前の心の闇そのもの。お前自身。お前の闇をお前に戻せ。
(受け入れる・・・・・?)
―――憎め。憎め。憎め。
―――受け入れよ、受け入れよ、受け入れよ。
炎は言葉を繰り返しながら突進してきた。顔を腕でかばったが、無意味だった。炎は全身をつつみこみ、あっという間に燃え上がらせた。
悲鳴を上げる。生きながら炎に焼かれている。その感覚が分かった。
目の前に現れたのは自分の姿を映す鏡。そこに映る姿を見て、彼は絶句した。
青かったはずの自分の瞳は、真紅に変化し燃え上がっていた。
――――――――――――・・・・
「・・・・・っ!?」
一瞬で目を覚まし、飛び起きた。額には汗が浮かび、寝着として着ていた青いシャツも冷たく濡れている。
荒い呼吸をしながら、ぼんやりとあたりを見回す。天井は板張りではなく、布。自分が寝ていたのは分厚い毛布を重ねただけの敷物で、その下はごつごつした堅い地面だ。
ああ、テントか―――なんとかそう認識した。昨日この場所にテントを張り、眠ったはずだ。
「夢・・・・・だったのか・・・・・」
額の汗をぬぐい、深く息をつく。不吉な夢だ。おかげで寝起きは最悪である。
枕元に黒い鞘に入った長剣が置かれている。いつ敵襲があっても飛び出せるようにだ。その傍には、拠点である砦から持ってきた軽い荷物がまとめて置いてある。
今日もまた、いつもと同じ日常が繰り返される。
「アシュレイ!」
外から声がかけられた。はっとして慌てて返事をする。
「あ、ああ・・・・・どうぞ?」
その声で入ってきたのは、むすっと不機嫌そうな顔の青年だ。年は自分と同じくらい―――若干背が高い。
「遅ぇぞ! もうキーファたちは準備しはじめている。よくまあ出先のテントで爆睡できるよな―――」
言いかけた青年はふっと黙ると、目の前に膝をついてじっと顔を覗き込んできた。青年の瞳に、自分の姿が映っている。
よかった。自分の瞳は青かった。炎のような鮮血の色ではない。
「な、なに・・・・・?」
そう問いかけると、青年は額に手を当ててきた。
「・・・・・どうかしたのか? すげえ顔色悪いぜ。熱でもあんじゃねえだろうな?」
まるで責めているような口調だが、かなり心配してくれているのである。口は悪いが優しい、心を許せる親友―――そう、親友。
彼の名はシルヴァス。やっとそう実感できた。
「大丈夫だよ、シルヴァス」
「本当か?」
「うん。ちょっと、変な夢を見ただけだから・・・・・」
しかしシルヴァスは信じていなさそうだ。もう一度微笑み、立ち上がる。
「本当に平気だから。心配しないで」
「・・・・分かった。なら、早く行ったほうがいいぜ。もう任務にでかけるってよ」
「有難う」
シルヴァスは頷き、テントを出て行った。それを見送ってから急いで毛布を畳み、着替えた。何年も愛用してきた厚手の、刃さえ防げる革のコート。腰帯を回し、長剣を佩く。やり慣れた動作だ。
僕の名はアシュレイ―――魔獣狩りクラン「アルシャイン」の一員だ。
★☆
この世界に無数生息する「魔獣」―――決して人に馴れることはなく、人々を無慈悲に襲う凶暴な生き物である。犠牲者は後を絶たず、狩ろうとする者も多く命を落とした。
これを見かね、ひとりの剣士が名乗りを上げた。大陸一の剣士と謳われ、何度も騎士団に勧誘されたがすべて断り続けている最強の男、ヴェイ―――彼が魔獣狩りクラン「アルシャイン」を立ちあげた。
クランとはそもそも血族が集まった集団のことだが、ヴェイはそこまで深く考えてはいない。ただ団員はみな家族―――血のつながりはなくともそれ以上の絆を持つと、彼は明言する。そういう意味では、クランとは間違っていない。そこに集う者は多く、いつしかファル・アレイ帝国に正式に認められた、巨大な魔獣狩り専門の集団へと成長していた。他を認めない帝国が、何度も協力を要請するほどの強さだったからである。しかしヴェイは必要以上帝国の要請を受けようとはせず、いつでも市民の義賊団体目線で魔獣を狩っていた。
この日、ようやく冬の雪が溶け、春の暖かな太陽が照らし始めていた。「アルシャイン」のメンバーは魔獣討伐の依頼を受け、帝国北部の森へと来ていた。
アルシャインは依頼を受けてから戦うのが通常だが、それ以外でも年に何度か拠点にしている南の砦を空け、帝国を旅してまわることがある。その旅先で魔獣を狩り、困っている人を助けるのだ。そして貧しい人々からは決して報酬を受け取らない。
今も彼らは巡業中である。南端から北の端まで通常ならば10日ほどのはずなのだが、あちこちで寄り道していたので3倍以上の日数がかかっている。そうして北の森手前に陣を張り、あたりに出没する魔獣を討伐することを、かれこれ2日続けている。
2日目の任務を終えてテントにアシュレイが戻ったのは、夜半過ぎだった。この周辺では魔獣が頻繁に出没し、近くの村を襲っているのだ。その護衛をほかの団員と交代して、ようやく任務から解き放たれた。
テントは通常2人1組で使用しており、アシュレイは友人のシルヴァスと共同だ。
「やっと終わったのか。今日も長かったな」
シルヴァスは木の板を組み立てた粗末な机の上に紙を広げ、書き物をしている。振り返らずにシルヴァスはアシュレイに声をかけた。アシュレイは剣を置いてコートを脱ぎ、汗に濡れた服を脱いだ。程よく鍛えられたしなやかな上半身を晒したのもほんの数秒で、すぐに彼はシャツを着た。
「うん・・・・・僕は昼間の担当だったからいいけど、これから寝ずに村を護衛するみんなは、もっと大変だよ」
「そうだな。まったく、毎日毎日魔獣ばっかり狩って。そろそろ飽きてくるよな」
シルヴァスの言葉にアシュレイは首を振った。
「飽きるなんてそんなこと言うのは駄目だ。魔獣のせいで被害に遭う人が、たくさんいるんだから・・・僕たちが守らなきゃいけない」
「わかってるっつの。堅苦しいねえ、お前ってやつは。けどよ、実際・・・・そろそろきついんじゃないか?」
アシュレイは瞬きをした。
「飽きているとは言わねえ。けどお前、すげえ疲れた顔してやがるぜ。2,3日休んでもいいんじゃねえかと俺は思ってる。守ろうって正義感に燃えるのはいいが、その前にお前が倒れちゃ元も子もねえんだよ」
「・・・・・・」
「無理もねえんだよ。毎日戦って、魔獣倒して、休めるのは夜だけ。そんな生活してたら身がもたねえ。まじで言ってるんだぞ?」
シルヴァスはクランに所属しているが、戦闘員ではない。彼は治癒術師だ。
この世界には魔術が存在する。その系統は幾つにもわかれるが、オーソドックスなのは自然界の力を操る4元素魔術、つまり地水火風の力を操る魔術だ。そのほかにもさまざまなものがあり、そのひとつが治癒術である。
その名のとおり、外傷を人為的に治癒させるものだ。病は治せないが、怪我は一瞬で治ってしまう。シルヴァスはその性格で治癒術師という役が似合わないにもほどがあるが、本当に優れた術師だ。彼ひとりがクランの怪我人をすべて診ている。
そのシルヴァスが言っているのである。人の目には、本当に無理をしているようにしか見えないのだろう。正直、疲れたという気持ちもある。
アシュレイは肩をすくめた。
「・・・・・そうだね。じゃあ、早めに休むよ」
「おう。俺はもうちょっと起きてる。明かりは小さくしとくぜ」
「うん、有難う」
シルヴァスはランプの明かりを小さくし、アシュレイは地面に横になった。そんなに眠くはないと思っていたのだが、どうやら身体は無意識に休息を要求していたらしい、垂直にアシュレイは眠りに落ちた。
10分もたたずアシュレイの静かな寝息が聞こえてきて、シルヴァスはほっと息をついた。アシュレイが無理をしているのはいつものことだが、それに気づかない彼の鈍感さがシルヴァスには危うい。
しばらくシルヴァスは静かに書き物を続けていたが、不意に背後で横になっているアシュレイがうめき声をあげた。
「・・・・っ・・・・・う・・・・・!」
「アシュレイ!?」
シルヴァスは驚いて振り向いた。そしてアシュレイの傍に膝をつく。
アシュレイは大量に発汗し、苦しげに表情をゆがめていた。身をよじり、襲いくる何かから逃げようとしているようだ。
「おいっ、しっかりしろ!」
「う・・・・ぅ・・・・来る、な・・・・来るな・・・・・っ!」
「アシュレイ!」
大声でシルヴァスが名を呼ぶと、ふっとアシュレイの身体から力が抜けた。シルヴァスが抱き起すと同時に、アシュレイは薄く目を開けた。
「気付いたか!?」
「・・・・シル、ヴァス・・・・・」
「うなされてたんだぞ。また妙な夢でも見たのか?」
アシュレイは身体を起こし、頷いた。
「今朝と同じ・・・・同じ夢だった」
「話してみろよ」
「・・・・・暗い、何も見えない場所に一人で立っていて・・・・・そのうち、炎に包まれて・・・・」
アシュレイはまだ息が整わないようだ。
「その炎が僕に言うんだ。憎め、受け入れろ、この闇はお前自身の憎しみだ、って」
「憎しみ・・・・・」
「僕が何を憎んでいるって言うんだ・・・・?」
アシュレイは膝を抱え込んだ。シルヴァスは腕を組む。
「アシュレイ、お前本当に少し任務を休んだほうがいいんじゃねえのか?」
「・・・・・いや、そうはいかない。ただでさえ人数が少ないんだから・・・・・」
「言うと思ったぜ・・・・・」
シルヴァスはため息をつき、荷物の中から一錠の錠剤を取り出してアシュレイに差し出した。
「ほら、鎮静剤。とりあえず今日はゆっくり寝ておけ」
「うん・・・・」
アシュレイは頷き、薬を口に入れてシルヴァスが同じように差し出した水で流し込んだ。
アシュレイは再び横になり、今度こそ鎮静薬のおかげで深い眠りに落ちた。
シルヴァスは悶々と、その傍で看病を続けていたのであった。
―――憎め、憎め、憎め。
―――受け入れよ、受け入れよ、受け入れよ。
お前の心のうちにある、その心の闇を・・・・・。