暗黒の夜明け
静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
この程度の低級魔族を屠るなど、あの泥酔した王の前でケーキを切るよりもたやすいことだ。
引き戸に手をかけ、一気に踏み込もうとしたその時。赤子の無邪気な笑い声が、アステリオの脳を冷やした。
(待て……魔物が、自分より弱い種族を育てるなどということがあるか?)
あり得ない。魔族は弱肉強食が摂理だ。ならば、この赤子には「育てなければならない理由」がある。
脳裏に、かつてオヤジが語った伝説の一節が蘇る。
『魔王城を切り裂いた刹那、一筋の禍々しい光が、遥か北の空へと飛び去った――』
「まさか……魔王の、忘れ形見か……?」
その瞬間、アステリオの閉ざされた心に、暗黒の閃光が差し込んだ。
魔族は絶滅などしていなかった。絶望は、最高の好機へと塗り替えられた。
この赤子を最強の魔王へと育て上げ、再び世界を闇に包み込んでやる。そうすれば、あの豚共も、手のひらを返した貴族共も、再び勇者の足元にひれ伏し、慈悲を乞うに違いない。
「……はは、ははは……っ!」
腹の底から競り上がる狂ったような笑い声を、口を覆って必死に押し殺す。
アステリオとしての誇りは、今、雨の中で泥に捨てた。
代わりに手に取るのは、黄金を黒く塗りつぶした「欺瞞」の剣だ。
勇者アステリオは死んだ。
漆黒の騎士、ヴェイル。その伝説が、ここから始まる。
俺は顔に張り付いた笑みをそのままに、静かに、そして力強く引き戸を開けた。




