第八話:恋する広報官、その秘密の残香
「ヒック……ヒック……」
暗い自室の片隅で、丸くなって泣いていたリリスだったが。ふと、何かに導かれるように顔を上げ、窓の外の月を見つめて深い溜息をついた。
あの日――彼女は確かに王都にいた。
ヴェイルに追及された時のために「プライベート」という建前を用意してはいたが、本心はゲリラライブの下見である。
王都の街並みに馴染むため、慣れない淡い色のワンピースを纏った彼女は、魔族であることを知らなければ誰もが二度見するような、都会的で華やかな美しさを備えていた。
だが、ライブの下見だけのつもりが、つい魔が差した。流行りのカフェで最新のスィーツに舌鼓を打ち、お洒落なショップで買い物を楽しんでいるうちに、気がつけば周囲は薄暗くなっていた。
「早く、帰らなきゃ……」
ヴェイルにバレるわけにはいかない。彼女は慌てて店を飛び出し、大通りへと駆け出した。
その時だった。前方から歩いてきた男と、強く肩がぶつかった。
「大丈夫かい? ごめんよ、少し考え事をしていたんだ」
差し出されたその手を取り、男の顔を仰ぎ見た瞬間。
リリスは、生まれて初めて「運命」という不確かなものを信じたいと思った。
端正な顔立ちは深い知性を漂わせ、すらりとした立ち姿は洗練されていながらも、決して華奢ではない。月明かりの下に立つその姿は、まさに物語から抜け出してきた王子様そのものだった。
「……大丈夫、です。私の方こそ、すみません」
立ち上がろうとした時、ワンピースの裾が泥で汚れていることに気づく。
リリスが慌てて泥を払おうとするよりも先に、その男が白いハンカチを取り出し、迷うことなく膝をついて汚れを拭い始めた。
「素敵なワンピースを汚してしまったようだね。申し訳ない。私はこの先の屋敷に住んでいる、ヴィンセントという者だ」
男――ヴィンセントは、穏やかな微笑みをリリスに向けた。
「今日は少し急ぎの用があるんだ。お詫びをしたいから、もしよかったら後日、屋敷までお越しください」
「い、いえ……大丈夫、ですから……っ!」
リリスはそれだけ絞り出すように言うと、弾かれたように通りを駆け出した。
なんだろう、この胸の鼓動は。
今まで味わったことのない、熱く、甘苦しい感情に戸惑いながら帰路を急ぐ。早く、冷たい城へ帰らなくては。
近道をしようと飛び込んだ路地裏で、下劣な笑みを浮かべた四人の男に囲まれたが、今の彼女にとって彼らは羽虫同ぜんだった。一瞬で「片付け」、立ち止まることなく再び走り出す。
「ドキ……ドキ……する……っ」
あの凛とした声、あの優しい指先。
路地を抜ける風に吹かれながら、彼女はただ、自分の高鳴る心臓の音を聴いていた。
…………。
窓の外から視線を戻し、リリスはまた一つ、深く、長い溜息を吐いた。
あの男が、自分たちが滅ぼすべき「敵」の中枢にいる騎士だとは、この時の彼女はまだ、知る由もなかった。




