貴方はいつ、私と婚約なさったのですか?
王宮の大広間で催された春の舞踏会。
貴族たちが優雅にグラスを傾けるその場で、一人の青年が声を張り上げた。
「この場を借りて、皆様にお伝えしたいことがあります!」
アッシュブロンドの髪に碧眼。整った顔立ちに自信に満ちた笑み。私の幼馴染である侯爵家の嫡男レオナルド・ヴェルムンドだった。
広間が静まった。視線が一斉にレオナルドへと集まる。
彼はその注目を浴びて、むしろ背筋を伸ばした。
「私は本日をもって、リゼット・アシュフォード公爵令嬢との婚約を破棄します!」
ざわり、と波紋が広がった。
リゼット・アシュフォード。それは私の名前だ。
「彼女は公爵家の令嬢でありながら、貴族としての品位に欠ける振る舞いが多く、私の妻としてはふさわしくない。よって——」
「あら」
私は、持っていたグラスを静かにテーブルへ置いた。
周囲の視線が、今度は私に移る。
同情、好奇、あるいはほのかな嘲笑。それぞれの目が、私の次の反応を待っていた。
泣き崩れるか、取り乱すか、みっともなく縋りつくか。
彼らは、きっとそのどれかを期待していたのだろう。残念ながら、その期待には応えられない。
「レオナルド様。一つお伺いしてもよろしいですか?」
「……何だ」
「貴方はいつ、私と婚約なさったのですか?」
ざわめきが困惑に変わった。レオナルドの眉がわずかに動いた。
「何を言っている。幼い頃からの約束だろう。父上同士が——」
「お父様同士が、何をなさったのでしょう」
私は一歩、前に出た。
「確かに、私たちは幼馴染です。お互いの屋敷を行き来して育ちました。けれどレオナルド様。婚約とは、両家の当主が正式な文書を取り交わして、初めて成立するものです」
広間の空気が張り詰めていく。
「私の父、アシュフォード公爵は、ヴェルムンド侯爵家との間に婚約の書類を交わしたことは一度もございません。確認なさりたければ、王宮の記録を調べていただければすぐにわかります」
レオナルドの顔から、余裕が消えた。
「……馬鹿な。父上は確かに言っていた、リゼットとは将来——」
「将来、良いご縁になるかもしれませんね、と。そうおっしゃったのでしょう?」
私は記憶を辿って、静かに言葉を紡いだ。
「私もその場に居合わせました。あれは私たちが七歳のときにお茶会の席でのこと。侯爵様が冗談まじりに『この子たちはお似合いだ』とおっしゃって、お父様が『そうですね、将来が楽しみです』と返した。それだけのことです」
広間に、小さなどよめきが起きた。
貴族同士の社交辞令。子供を前にした大人たちの何気ない会話。
それを彼は、ずっと婚約の約束だと思い込んでいたのだ。
「そん、な……」
レオナルドの顔が蒼白に変わった。彼の隣に控えていた女性——おそらく彼が私の代わりに選んだ相手だろう——が、不安げに彼の袖を引く。
「つまりレオナルド様。貴方が今夜なさったことは、存在しない婚約を破棄するという大変珍しい宣言です」
くすくす、と誰かが笑った。それは瞬く間に広がり、あちこちで扇の陰に隠された笑い声が漏れ始めた。
レオナルドの顔が赤く染まる。
「さらに申し上げれば」
私は感情を抑え、淡々と続けた。
「貴方は今、大勢の前で公爵家の令嬢を『品位に欠ける』と中傷なさいました。婚約関係にない相手に対して、公の場でそのような発言をすることが、貴族としてどのような意味を持つか。侯爵家の嫡男であれば、ご存知ですよね?」
名誉毀損。しかも証人は、この広間にいる数百人の貴族たち。
レオナルドの顔からは完全に血の気が引いていた。自分が仕掛けたはずの断罪が、一言も声を荒げていない相手によって、静かに、しかし完璧にひっくり返されたのだ。
「わ、私は……」
「レオナルド様」
私は最後に、かつて幼馴染だった青年を真っ直ぐに見つめた。
「幼い頃、貴方と庭園を駆け回った日々は、私にとっても楽しい思い出でした。けれど思い出は、婚約ではありません」
広間はもう、誰もレオナルドの味方をする空気ではなかった。
私はドレスの裾を軽く摘み、礼をした。
「お騒がせして申し訳ございません。皆様、どうぞ舞踏会をお楽しみください」
踵を返す。背中に何百もの視線を感じたが、振り返りはしなかった。彼のせいでその場にいるのが、恥ずかしいから。
大広間を抜け、月光が差し込む回廊に出ると、春の夜風が頬を撫でた。
ほんの少しだけ、胸が痛んだ。幼い日、彼と手を繋いで見上げた星空は、確かに美しかったから。
けれど、あの頃の彼はもういない。いや、もしかしたら最初から、私たちは同じ景色を見ていなかったのかもしれない。
私は深く息を吸い、夜空を見上げた。星は変わらず輝いている。
◇
後日、アシュフォード公爵家は正式にヴェルムンド侯爵家へ抗議の書状を送った。
公の場における誹謗中傷に対し、父は一切の妥協を見せなかった。
結果、ヴェルムンド侯爵家は公爵家への謝罪と多額の慰謝料の支払いを余儀なくされた。
侯爵家の財政は大きく傾き、レオナルドの社交界での立場は地に落ちた。
あの夜、彼の隣にいた女性は没落の気配を察するや手のひらを返し、「私は騙されていたのです」と被害者を装った。
しかし舞踏会の最中、勝ち誇るように私を見つめていたその顔を、貴族たちは覚えていた。
彼女もまた社交界から静かに締め出されたという。
正直なところ、哀れだとは思う。けれど、同情と許容は別のものだ。
あの舞踏会の夜、私の名誉を踏みにじると決めたのは、他でもない彼ら自身なのだから。




