第8話 夜の帳の下で、動き出す影
茶室外の不審な物音に、美希と松岡先生は凍りついた。二人の息遣いだけが、張り詰めた空気の中で不気味に響く。松岡先生は美希の腕を掴み、静かに自身の唇に人差し指を立てて合図した。そして、幽霊のように音もなく立ち上がり、障子の隙間から外の様子を伺う。
廊下は薄暗く、誰の気配もない。しかし——遠くで、かすかにだが確かに、車のエンジンがかかり、急速に遠ざかっていく音が聞こえた。
先生がゆっくりと振り返った。その顔面は蒼白で、目には強い警戒心が宿っていた。
「…車の音がしました。誰かが…いたのです」
美希の背筋に冷たい汗が伝った。浩二か? それとも、彼が雇った誰かか? 彼の猜疑心は、もはや単なる夫の嫉妬などという生易しいものではなく、彼女の行動を監視するまでにエスカレートしていたのだ。
「あの男は…私を、ここまで追い詰めるつもりですのね」
美希の声は震えていたが、それは恐怖ではなく、湧き上がる怒りによるものだった。
「私たちは、あまりに油断していました」
松岡先生の声は低く、厳しい。
「田中という男たちは、かつて私の夫がそうであったように、脅威と見なしたものには、手段を選ばない。あなたのご行動、今後はより一層のご注意を」
美希は強く頷いた。恐怖はあった。しかし、それ以上に、この追い詰められた状況が、かえって彼女の決意を鉄のように硬くした。もはや後戻りはできない。進むしかない——より深く、より危険な領域へ。
松岡先生から預かった過去の資料をしっかりとカバンにしまい、美希は警戒しながらも冷静に自宅へと戻った。高層マンションの自室は、相変わらず豪華で無機質だった。しかし今、この空間は、敵の本拠地であり、同時に最大の証拠が眠る宝庫であると、彼女には感じられた。
書斎のドアを静かに閉めきり、彼女はまず松岡先生から預かった古い書類を広げた。虫食いの匂いのする紙。田中剛の癖のある達筆な文字。そして、夫・正男の几帳面なメモ書き。
彼女は細心の注意を払い、一字一句を読み込んでいく。そして、一つの書類——共同開発の構想が記されたごく初期のメモ——の中に、目を奪われる言葉を見つけた。
**「プロジェクト・フェニックス」**
不死鳥を意味するそのコードネームが、強調するように書かれていた。このプロジェクトが、松岡正男の希望であり、同時に彼を破滅に追いやった事業に違いない。
(フェニックス…)
何故か、その言葉が頭から離れない。ほんの数日前、浩二が家で仕事をしている時、彼が呟いていた言葉をふと思い出した。「フェニックスの資金の件、どうなってる?」と。
その時は深く気にも留めなかった。しかし、今思えば…。
美希の心臓が高鳴った。あり得ないだろうか? 過去の亡霊が、形を変えて今も息づいているのだろうか?
彼女は浩二のデスクに向かった。彼の書類は、一見整理されているように見えて、実は自身にしかわからない独特のルールで並べられている。彼の思考パターン、こだわりを何年も観察してきた美希は、慎重に、しかし大胆に書類の山を探り始めた。
そして、ついに——見つけた。
最新の業務報告書のファイルの中に、一枚、他の書類とはフォントもレイアウトも異なる、極めて簡素な資金流用の概要図が挟まっていた。それは明らかに、正式な書類というよりは、浩二個人のメモ用紙だった。
そして、その上部に、太字で書かれたコードネーム。
**「PHOENIX」**
その下には、複雑な経路を辿って別口座に流れる資金の概要と、最終的に「マナミ」という名前の口座に小さな額が定期的に振り込まれることが記されていた。
(…っ!)
美希は思わず口を押さえた。驚愕と、そしてある種の歓喜が同時に襲った。
過去の亡霊は、確かに生きていた。父親・剛が「プロジェクト・フェニックス」で松岡家から奪ったもの——金銭、技術、そして未来。息子・浩二は、同じコードネームの下、会社の資金を流用し、それを情婦・西山怜奈への貢ぎ物に変えていた。
これは、父子二代にわたる犯罪の決定的な証拠だ。
その夜、浩二はことのほか機嫌が悪かった。ドアを乱暴に閉め、ネクタイを解くのも荒っぽい。スマートフォンが鳴っても、ちらりと画面を見るなり、すぐに拒否する。
「ったく、煩いんだよ、あの女は!」
彼は突然、そう呟くと、テーブルの上にあった雑誌を乱暴にめくった。
美希はそっと湯飲みをお盆に乗せて近づく。
「どうかなさいました? お仕事で大変なことでも?」
浩二は美希をじろりと睨んだ。その目は血走り、猜疑心とイライラで満ちていた。
「おい、美希…お前、怜奈に何か言っただろう? こないだ電話したとか、変なこと吹き込んだとか?」
内心、冷笑が沸き上がる。怜奈は確実に、美希が仕込んだ嫉妬の種に苛まれ、浩二に詰め寄っていたのだ。
「怜奈さん? いいえ、何も。どうしたのです? お二人、喧嘩でもなさったの?」
美希はいたって平静に、むしろ心配そうな顔ですら言った。その無邪気なふりが、浩二の癇に障ったようだ。
「関係ねえだろ! ただ…あの女、急にやきもち焼きやがって…っ! お前、絶対何か知ってるんだろうが!」
彼はそう言い捨てると、コートも脱がずに書斎に引き上げて行った。ドアを閉める音が家中に響いた。
**彼の叫びを聞きながら、かつての自分がどれほど彼の感情に怯え、振り回されていたかを美希は思い出す。あの頃の私には、彼のこの激昂が全てだった。だが今の浩二は、あの時の私と同じくらい、あるいはそれ以上に愚かで、哀れに見える。この復讐は、彼から全ての尊厳を奪うことなのだと、美希は改めて確信する。しかし、その行為が、本当に私を救う道なのだろうか? 一瞬の自問が胸をよぎるが、すぐに冷たい決意がその疑問を押し潰した。これは、彼らが選んだ道だ。**
(さあ、始まったわね)
美希は静かに食器を片付けながら思った。怜奈の嫉妬は確実に火種となり、浩二の注意力を削ぎ、彼をミスへと追い込んでいく。
しかし、同時に、探偵の尾行と、この「PHOENIX」の発見は、彼女に大きな警告を鳴らしていた。もはや悠長な調査などしている場合ではない。浩二が証拠を隠滅したり、彼女に対する警戒をさらに強める前に、決定的な証拠を掴まねばならない。
書斎のドアを見つめながら、美希は危険な決断を下した。
浩二のパソコンにキーロガーを仕掛ける。あるいは、彼が常用するクラウドストレージのパスワードを、強引に類推して突破する——。
違法性やリスクは承知の上だ。しかし、彼女にはもう時間がない。松岡先生という味方を得、父子の罪の確かな繋がりを掴んだ今、次の一手は、より大胆に、より深く敵の懐に飛び込むことしかない。
夜の帳が降りた東京の街並みを眺めながら、美希は覚悟を決めた。次の行動は、これまで以上の危険を伴う。一歩間違えれば、すべてがパーになる。
だが、彼女の瞳は暗闇の中で静かに輝いていた。
過去の亡霊を駆り、現在の敵を討つ——復讐の晩餐会の幕は、いよいよ本格的に上がろうとしている。




