第7話 過去の亡霊、そして締結された盟約
数日後の夜、美希の携帯に一本の電話が入った。画面に表示されたのは、松岡カルチャースクールの番号だった。受話器を取ると、松岡薫の声は、前回以上に疲弊し、しかしどこか強固な決意に満ちた、張り詰めたものに変わっていた。
「小林美希様でしょうか。突然のご連絡、失礼いたします。もしお時間が宜しければ、今宵、お時間いただけないでしょうか? レッスンではなく…個人的に、お話ししたいことがございまして」
その声は、もはや優雅な茶道教師のものではなく、何か重大な決断を迫られた人間の、切実な響きを帯びていた。
「かしこまりました。すぐに参ります」
銀座のビルは、夜になると人影がまばらになる。松岡カルチャースクールの前の廊下は、昼間の明るさとは打って変わり、静寂と薄暗がりに包まれていた。格子戸を開けると、茶室には通常のレッスン時とは異なる、一種の緊張した空気が漂っていた。香炉の香はなく、照明も最小限。炉の炭だけが、赤々と熾り、二人の横顔を不気味に揺らめかせていた。
松岡先生は正座し、美希を待っていた。彼女の着物は地味な鼠色。その顔はやつれ、しかし、瞳だけは過去の亡霊に引きずられるように、深く、暗く輝いていた。
「お越しいただき、ありがとうございます。本来ならば、他人様に語るべき話ではございません。しかし…あの写真を見せられた時、もはや運命と諦めました」
先生は静かに、しかし言葉の一つ一つに重みを込めて語り始めた。その声は、長年押し殺してきた怒りと悲しみで嗄れていた。
「私の夫、松岡正男は、決して優秀な起業家ではありませんでしたが、類稀な設計の才に恵まれた男でした。当時、田中剛氏の『田中技術研究所』は、小さな町工場に過ぎませんでした。夫は剛氏の熱意に押され、共同で新しい電子部品の設計図の開発に乗り出したのです。この茶室で何度も夜を徹して協議したこともございました。全ては、二人の夢のために…」
彼女の目が虚空を見つめる。楽しかったはずの過去の思い出が、今は苦い毒として蘇る。
「開発は成功し、画期的な製品が生まれようとしていました。しかし、その直後、剛氏の態度が一変したのです。『資金効率』『リスク管理』を口にし、一方的に共同事業の打ち切りを宣告されました。夫は愕然としましたが、それ以上に驚いたのは、その後でした」
先生の拳が膝の上で微かに震える。
「間もなく、剛氏は我々の知らぬ間に、その設計図と、夫が苦労して開拓した顧客リストを独占し、特許を単独で出願したのです。そして、『松岡デザイン事務所の設計には重大な欠陥があり、独自に改良を加えた』と嘘の中傷を流し、夫を追い詰めていきました。夫は…契約違反で訴えようとしましたが、剛氏は弁護士を使い、さらに脅迫めいた内容証明郵便まで送り付けてきたのです」
語り口は静かだが、その内容は激烈だった。涙が、松岡先生の頬を静かに伝った。
「夫の会社は顧客を失い、信用を落とし、破産しました。そして、そのショックと…その後の中傷による鬱病が原因で、十年ほど前に他界いたしました。あの…『イノベート』という華やかな会社は、私の夫の人生と未来を食い潰して成立ったのです。剛氏は、『効率』と『リスク』という美名の下で、共に働いた者を平然と捨て駒にしたのです」
長い沈黙が茶室を支配した。炉の炭がパチンとはじける音だけが不気味に響く。
やがて、松岡先生は畳の隙間から、一枚の分厚い封筒を取り出した。それは年月を経て、色あせ、傷んでいた。
「これが…あの時代の全てです」
中身は、共同開発の合意書の草案——双方のサインはないが、詳細な条件が記された文章——と、田中剛の事務所から送られてきたという内容証明郵便の写しだった。その文面は、法律的には巧妙に曖昧にされながらも、「これ以上騒げば、おたくの設計の“欠陥”を公表することになる」と読める脅迫めいた内容を含んでいた。
美希は、それらの書類を手に取った。紙の重みが、そのまま過去の罪悪の重みのように感じられた。浩二の父親・剛の、非情で貪欲なビジネス手法は、まさに浩二自身が現在、彼女に対して、そしておそらくは会社で行っていることの原型だった。
「先生…」
美希は静かに口を開いた。
「お気の毒になさって…そして、よくぞ今日まで、このお怒りと哀しみを抱えてこられました」
そして、彼女は自身の物語を語った。浩二の不貞、その虚飾に満ちた生活、情婦からの挑発的な電話、そして、自分が如何に冷遇され、捨てられようとしているか。もちろん、“重生”という真実は伏せて。彼女の声は冷静だったが、それは長い時間をかけて煮詰められ、冷え固まった憎悪の氷塊のような冷たさだった。
「先生の過去を奪ったのは剛様という過去の亡霊。そして、私の現在と未来を奪おうとしているのは、その息子の浩二。この父子は、同じ罪を繰り返しているのです」
美希は松岡先生の手を、自らの両手で包み込んだ。その手は冷たかったが、美希の手も同様に冷たかった。
「どうか、私にお力を貸してください。先生お一人では、あの大きな組織と父子を倒すのは難しいでしょう。私も、一人では夫の不正を暴くことはできません。しかし、二人ならば——過去の真実と現在の証拠を併せれば、必ずやあの父子の仮面を引き剥がし、真実を世に曝すことができます」
美希の目は、静かな炎のように燃えていた。
「私たち二人で、真実を暴きましょう。先生の夫のため、そして——私自身のために」
松岡先生は、滲む涙の向こうに、ゆっくりと美希を見つめ返した。その瞳には、長年孤軍奮闘してきた者同士がようやく出会ったという、安堵と、そして新たな決意の光が宿っていた。
「…お願いいたします」
先生の声は涙で嗄れていたが、確かだった。
「どうか、私の…夫の無念を、晴らしてください。私は持てる力の全てを捧げます」
二人の手が、固く、力強く握り合った。それは、復讐という暗い目的のために結ばれた、固い盟約の瞬間だった。
その直後、ガラス戸の外で、かすかに「コツン」という音がした。
二人は同時に息を飲み、顔を見合わせた。




