第6話 偽りの癒やし、そして新たな罠
嵐のような週明けの月曜日。浩二と美希の間には、冷たい緊張感が張り詰めていた。浩二は相変わらずスマートフォンを気にし、美希を疑わしい目で見る。しかし、美希はそれを逆手に取ることにした。彼の猜疑心を、偽りの癒やしで油断させ、同時に新たな情報を引き出す絶好の機会と見なしたのだ。
その夜、美希はキッチンで特別な料理を作り始めた。トマトとチーズの香りが食欲をそそる、少し**懐かしさを誘う**ナポリタンスパゲティ。そして、ふわとろのオムレツをその上からかける。これは、彼らが大学生時代、初めて二人で行った安っぽいファミリーレストランで浩二が食べた、思い出の味だ。
「浩二さん、夕食ですよ。今日はちょっと頑張ってみました」
美希はわざと屈託のない、少し恥ずかしそうな笑顔を作って食卓を用意した。
浩二は訝しげにテーブルを見て、**鼻を鳴らした**。
「なんだ、これは。なんで急にこんなものを作った?」
「だって…」美希はうつむき、声をわざと少し震わせる。「最近、私たち喧嘩ばかりで…寂しかったの。浩二さんに怒られてばかりで。だから、せめて食事だけでも、昔のように仲良くしたいなって思って」
浩二は少し間をおいた。彼の表情は、面倒くさそうでありながら、どこかほっとしたようにも見えた。激しい怒りや猜疑心よりも、このような“女の子のような甘え”の方が、彼にとっては扱いやすく、そして何より、自分の優位性を再確認できるからだ。**あるいは、彼もまた、誰かに無条件に甘えたいという、満たされない欲求を抱えていたのかもしれない。**
「…ふん、別にいいけどさ。そんなことしなくても」
そう言いながら、彼はフォークを手に取った。一口、また一口と食べ進めるうちに、その険しい表情は少しずつ和らいでいった。
「美味いな、これ。あの店の味に似てる」
「本当? よかった」
ほのかな、穏やかな時間が流れる。計算された偽りの温情劇は、順調に進行している。
ここで、美希はさりげなく核心に迫る。
「浩二さんのお父様、田中剛さんも、イノベートを今のように大きくされるまで、きっと色々大変なことがおありだったのでしょうね。こうして私たちが不自由ない生活を送れるのも、お父様のご苦労あってこそだなって、ふと思いまして」
浩二は**自慢げに鼻を鳴らした**。
「ああ、親父はな、とんでもない仕事の鬼だったらしい。昔は小さな町工場から始めたんだぞ。アイデア一つで這い上がってきた。よく『リスクを取れ、効率を追え』って言ってたな。イノベートの基礎は全部親父が作ったんだ」
その言葉は、自慢とある種の畏敬の念に満ちていた。そして、まさにその「リスク」と「効率」という言葉が、松岡デザイン事務所との“何か”を暗示しているように美希には聞こえた。
翌日、美希は再び松岡カルチャースクールを訪れた。茶室の静寂と抹茶の香りは、相変わらずだったが、美希の心境は前回とは全く異なっていた。今日こそ、より積極的に、この女性の心の鎧に亀裂を入れなければならない。
お点前が一段落し、和菓子とお茶でほっと一息ついた時、美希は静かに口を開いた。
「松岡先生、先日お話にあった、ご主人様の会社——松岡デザイン事務所のことですが——」
松岡薫の動作が、わずかに止まる。彼女はお茶碗を置き、美希を静かに見つめた。その瞳は、警戒と哀しみで曇っている。
「実は、この間、主人の実家の古いアルバムを整理していたら、面白い写真を見つけたんです」
美希はさりげなくスマートフォンを取り出し、事前に撮影しておいた古いパーティー写真の画像を表示させた。そこには、若き田中剛と、名札に「松岡デザイン事務所 代表 松岡正男」と記された初老の男性、そしてその隣にいる若き松岡薫が確かに写っている。
「ひょっとして…ご存じですか? この方々」
瞬間、松岡薫の顔から血の気が引いた。彼女の細い指が膝の上で微かに震え、息をのむ音が小さく聞こえた。彼女はしばらく画面を凝視し、やがてゆっくりと目を上げると、その瞳には、はっきりとした苦悩と怒りが宿っていた。
「…どこで…この写真を…?」
「主人の実家のアルバムです。お父様と、この松岡正男様という方が、何かの共同プロジェクトをされていたのでしょうか? 何だかとても楽しそうで」
美希はいたって無邪気に、好奇心旺盛な若妻を演じ続ける。
松岡先生は深く息を吸い、静かに、しかし力強く言った。
「…楽しそう、ですか。そう見えるかもしれませんね」
彼女の声は、以前の優しさを完全に失い、鋭く冷たいものに変貌していた。
「しかし、小林さん。世の中には、表の顔と裏の顔があるものです。華やかなパーティーの陰で、どんな取引が行われ、どんな約束が破られたか…あなたは何もご存じない」
それは、ほぼ確信に近い告発だった。浩二の父親、あるいはイノベート創業期の何らかの不正——おそらくはアイデアの盗用や資金の横領——が、この女性の人生を狂わせたに違いない。
「先生…?」
「今日はここまでにしましょう。少々…疲れまして」
松岡先生は立ち上がり、それ以上話すことを頑なに拒否した。しかし、彼女の震える手と、滲むような哀しみを帯びた眼差しは、何よりも雄弁に彼女の無念の想いを物語っていた。
その夜、浩二が帰宅すると、その態度は前晩とは少し異なっていた。スマートフォンをチラチラと見てはいるものの、そこには以前のようなイライラした様子はなく、むしろどこか困惑し、考え込んでいるような風情があった。そして、一度、明らかに怜奈からの着信を無視するそぶりを見せた。
(…芽が出始めたわね)
美希は内心で**密かに**ほほえんだ。あの嫉妬の種は、見事に発芽し、二人の関係を蝕み始めている。
台所で後片付けをしながら、美希は自身の心と対話した。
(浩二への優しさは偽り。松岡先生への同情も、その悲劇を利用するための計算。怜奈の心の混乱も、私が仕組んだ罠の結果)
(すべてが、復讐という名の棋譜通りに動いている)
ほんの一瞬、胸の奥で何かが疼いた。これは本当に正しいのだろうか、と。しかし、その感情はすぐに冷たい決意に押し流された。
あの寒いアパートで、一人咳き込みながら死んでいった自分を思い出す。テレビに映った、浩二と怜奈の幸せそうな笑顔を思い出す。
(そうだ。私はもう、だまされない。傷つけないためではなく、傷つけられるためでもなく、ただ冷徹に、この手で粛清を行うまでだ)
窓ガラスに、自分が映る。その瞳は、もう過去の温順な主婦のものではない。氷のように冷たく、そして復讐の炎で静かに燃える戦士の眼だった。
偽りの癒やしは終わった。これからは、より積極的に、より深く、罠を仕掛けていく時だ。松岡先生の怒りと、怜奈の嫉妬——この二つの刃を磨き上げ、浩二という男の城壁を、内側から崩しに行かねばならない。
夜は更け、東京の灯りが遠くで瞬く。その一つ一つが、もしかすると、彼女のように何かを企み、何かに耐える人間の灯りなのかもしれない。美希は、冷たい窓ガラスに触れながら、そう思った。




