第3話 氷の刃と、微かな兆し
朝の光が、昨日と同じように寝室を照らした。しかし、美希の内面は昨日とは全く異なっていた。ほぼ一睡もできなかった。「送信エラー」という文字が、脳裏から離れない。隣で浩二が発するどんな小さな物音にも、はっとし、心拍数が跳ね上がった。彼は何も言わない。いつもと同じように出勤の支度を始める。その平静さが、かえって不気味だった。
(あの写真は、無事に私のメールに届いたのか? それとも…浩二のスマートフォンに、痕跡が残ってしまったのか?)
浩二が「行ってきます」と言い、玄関のドアが閉まる。その音が、まるで銃声のように美希の鼓膜に響いた。もはや猶予はない。
彼女はすぐに行動を開始した。今日は掃除のふりすら省略する。時間が勝負だ。書斎のドアを開け、躊躇わずに一番下の引き出しに向かう。スマートフォンを取り出す手は、昨日よりもわずかに震えていた。自分自身の運命を、いや、今回こそは自分で切り開く未来を左右する証拠を、今まさに確認しようとしているのだ。
電源を入れる。ホーム画面。メールのアイコンをタップ。
「送信済み」フォルダを開く。
彼女が送信したメールが、ほとんどきちんと並んでいる。しかし、一番最後に送信しようとした、あのベッドでの写真が添付されたメールは…**なかった**。
(やはり…!)
冷たい塊が胃の中に落ちていく。では、あの写真はどこへ消えた?
彼女は必死で画面を操作する。「下書き」フォルダを開けてみる。すると——そこにあった。送信に失敗したその写真が、添付ファイル付きの下書きとして、ひっそりと保存されていた。宛先は、もちろん美希の偽メールアドレス。送信を押した途端にエラーとなり、下書きとして保存されていたのだ。
(これは…危険極まりない…!)
浩二がこの下書きフォルダを開けることは稀だろう。だが、万一見つかれば、すべてが露見する。彼女の偵察も、復讐の計画も、全てが水の泡と化す。しかも、この写真は最も露骨で決定的な証拠の一枚だ。
消すべきか?
いや、消せば浩二が気づくかもしれない。彼は細かいことを気にする性格だ。下書きが一つ消えていれば、それ自体が不審に思われるだろう。
(ならば…)
美希は冷静に判断を下した。この危険な爆弾を、あえて手元に残しておく。ただし、彼の目に触れないよう、もっと奥深くに埋もれさせればよい。彼女は「下書き」フォルダ内に新たな下書きメールをいくつか作成し、わざとらしく「**至急:帳簿確認**」、「**非公開打合せの件(案)**」など、仕事を装ったタイトルをつける。そうして、あの危険な下書きを、作成日順のリストのずっと下へ、画面を何度もスクロールしなければ見つけられない位置へと追いやった。
(これで少しは時間が稼げる…いや、油断は禁物だ)
スマートフォンを元の位置に戻し、書斎を後にする。背中に冷や汗が伝っていた。これは瀬戸際の賭けだった。監視されているという緊張感が、以前よりもはるかに強く、彼女の首を締め付ける。
(浩二の疑念を和らげなければ…彼の目を欺き、安心させなければならない)
昼間、彼女はわざとらしく「良き妻」を演じることにした。浩二の好物である肉じゃがの材料を、より一層吟味して買い出しに行き、じっくりと時間をかけて煮込む。夕食の準備をしながら、SNSで浩二の友人の夫婦の幸せそうな写真を眺め、「浩二さんもお友達ご夫妻のように、仲良くできたらいいですね」などと、わざとらしく呟いてみせる。
浩二が帰宅すると、彼は相変わらずスマートフォンをチェックしていたが、昨夜ほどの猜疑心は顔に見えなかった。美希の“演技”が少しは効いているのだろうか、それとも、単に仕事が忙しくてそのことなど忘れているのだろうか。
「今日はたっぷり煮込んだ肉じゃがよ。どうぞ」
「おっ、いい匂いだな。いつもながら手間かけてるな」
「ええ、だってあなたの為ですもの」
彼は疑うことなく、美味しそうに食べ始めた。その様子を見ながら、美希は思う。
(この男は、私をまったく見ていなかった。料理の味の違いも、私の心の変化も、何一つ気づかない。ただ、都合の良い“妻”という家具が、いつも通りそこにあることだけを確認しているのだ)
この実感は、悲しみではなく、むしろ冷たい怒りと覚悟をより確かなものにした。彼の目を欺くのは、思ったよりも簡単なのかもしれない。ならば、もっと大きく、もっと大胆に動ける。
食後、浩二がくつろいでテレビを見ている間、美希はタブレット端末を手に取り、検索を始めた。
「主婦 趣味 教室 東京」
「教養 習い事」
目的は二つある。第一に、定期的に家を離れる正当な理由を作ること。第二に、浩二の社交界、ビジネス界における情報を集めるための人脈を作ることだ。もはや家の中だけの偵察には限界がある。敵の城壁は分厚い。外部から突破口を見つけねばならない。
検索結果には、華道、茶道、フラワーアレンジメント、ネイルアート…様々な教室が表示された。その中で、一つだけ、地味で目立たないカルチャースクールの広告が目に留まった。
『松岡カルチャースクール:茶道・華道・香道 ~心を磨く小さな時間~』
場所は少し離れた閑静な住宅街。規模も大きくない。逆に言えば、そういう場所だからこそ、余計な干渉もなく、また、特定の層の人々が集まる可能性がある。
そして、経営者の名前が「松岡薫」。説明文には「元華道教師」とあり、年齢はおそらく60代半ばだろうか。電話番号の下には「**見学・体験 随時受付**」とある。
(この人…もしかしたら…電話越しのあの声の主は…)
ほのかな直感が働いた。迷っている時間はない。美希はすぐに電話番号を押した。呼び出し音が鳴る。二回、三回。
「はい、松岡カルチャースクールでございます」
電話の向こうから聞こえたのは、上品ではあるが、どこか力なく、**寂寥感を帯びた女性の声**だった。美希が想像していた通りの声音だ。
「突然のお電話失礼いたします。茶道教室の体験入学についてお伺いしたいのですが…」
「はい、私、松岡と申します。ええ、見学や体験は大歓迎ですよ。いつでもお越しくださいませ」
その声音は優しいが、どこか**張り詰めた繊細さ**を感じさせた。
「ありがとうございます。では、来週の水曜日はいかがでしょうか? 私は小林美希と申します。主人は…イノベートという会社の田中浩二と申します」
ここで、わずかに間が空いた。一瞬、電話の向こうの息遣いが止まったような、そんな気がした。受話器の向こうから、かすかに**息をのむ音**が聞こえたように思えた。
「…イノベートの…田中様で?」
松岡薫の声音が、ほんの少し、しかし確実に変化した。優しさの裏に、突然、鋭い**氷の刃**が潜んだような、そんな**強い緊張感**が加わった。それは一瞬のことで、すぐに元の穏やかなトーンに戻る。
「まあ、ご立派なご主人様で。ぜひ、いらっしゃってください。お待ちしております」
電話は切れた。
美希はゆっくりとタブレットを置いた。興奮が静かに体中を駆け巡る。手のひらが少し汗ばんでいた。
(あの反応…間違いない。松岡薫という人物は、浩二の会社、イノベート、あるいは浩二個人と何らかの因縁がある)
それが敵意なのか、あるいは別の感情なのかはわからない。だが、明らかに「イノベートの田中」という名前に反応した。これは、紛れもない微かな兆しだった。
窓の外には、再び深い夜が訪れている。浩二はもう寝室で眠っている。あの危険な写真は、依然として彼のスマートフォンの中に眠っている。
しかし美希は、もう孤独ではなかった。初めて、外部への、わずかながらも確かな突破口を見いだしたのだ。松岡カルチャースクール。そこが、彼女の復讐劇の、新たな舞台となるかもしれない。
彼女は微笑んだ。それは、浩二に見せていた愛想笑いとも、鏡に映した冷笑とも違う、戦士のような、冷たくも熱い笑みだった。
長い夜は続く。だが、やがて来る朝には、ほんの少しだけ、希望の光が差し込んでいるかもしれない。




