第10話 過去と現在の繋がる線、そして最終計画
翌日、美希は松岡先生の自宅を訪ねた。場所は閑静な住宅街の一角にある、昔ながらの数寄屋造りの家だった。先生は裏口から彼女を招き入れ、奥の離れ座敷へと案内した。ここならば、誰の目にも触れない。探偵が尾行していようとも、この家の中までは入り込めまい。
座敷には、茶室とはまた違った、生活の息吹と長年の歴史を感じさせる落ち着いた空気が流れていた。しかし、今、この場に集う二人の女の目的は、静かなる生活などではなかった。
「お待ちしておりました」
松岡先生の表情は硬い。目の下には疲れの影がくっきりと刻まれている。昨夜、美希からキーロガー成功の報告と、得られたキーワードの伝言を受けて以来、おそらく一睡もしていないのだろう。
美希は小さなタブレットを取り出す。キーロガーから送信されてきたログのデータが、無数の文字列として表示されている。
「これが、現時点で入手できた全てです。断片的ですが…」
二人は文字列を食い入るように見つめ、一つ一つの単語、数字の羅列を分析し始めた。それは、巨大な、そして危険なパズルを解くような作業だった。
「『Grand Cayman』…そして『account number transfer』」 松岡先生が低く呟く。「これは、明らかに資金の国外流出です。タックスヘイヴンへの逃避ですわ」
「そして、ここに『来週の監査に備えて』という文言があります」 美希が指さす。「浩二たちも、追い詰められているのです。何とかして、監査が始まる前に証拠を隠蔽し、資金を移動させようとしている」
さらにスクロールしていくと、より核心に迫る言葉が見つかった。
「『松岡デザイン 書類 原本』…」 美希の声が震える。「浩二は、過去の不正の証拠となる原本を、今も探している。あるいは、見つけ出して隠滅しようとしている」
松岡先生の顔色が蒼白になる。
「そうです…そうですわ! あの時、夫は『原本は必ず手元に』と言っておりました。コピーでは力にならない、と。もしかすると、田中剛でさえ、完全には廃棄できなかったのかもしれません。それが、今、息子である浩二さんの首を締めている…!」
過去の亡霊が、三十年の時を経て、現在の父子を呪縛している。その因果応報の図式に、二人は暗澹たる思いを抱くと同時に、復讐の確かな手応えを感じた。
「しかし、これはチャンスです」 美希の目が冷たく光る。「彼らが動揺し、隠蔽工作に躍起になっているまさにその時こそ、彼らの足元をすくう絶好の機会です」
ここから、具体的な最終計画の立案が始まった。
「第一段階は、内部告発です」 美希はタブレットのメモ機能に要点を書き込んでいく。「監査が目前に迫っています。まずは、イノベート社内の監査部門、あるいは剛さんを快く思っていない取締役に、匿名で情報を流します。『PHOENIXプロジェクトの資金流用』と『過去の特許権侵害の証拠書類隠蔽の動きがある』と。これだけで、内部は大混乱に陥ります」
松岡先生が深く頷く。
「内部から疑念の声が上がれば、動きが封じられますわ。外部への資金移動も難しくなるでしょう」
「第二段階は、外部への暴露です。内部が混乱しているその隙に、金融庁や、タックスヘイヴン問題に詳しいジャーナリストに、より詳細な情報を流します。ここでは、先生の持っている過去の証拠——合意書の草案や内容証明——も合わせて提供します。父子二代にわたる不正の全容を、社会的なスキャンダルとして爆発させるのです」
「そして、第三段階」 美希の声は静かだが、鋼のように硬い。「全てが明るみに出た後、私は正式に離婚調停を起こし、先生は損害賠償請求の訴訟を起こします。その場で、私たち二人が、全ての真相をメディアの前で証言するのです。もう逃げ道はありません」
計画は緻密で、残酷なまでに完璧だった。それは、浩二父子が彼女たちに与えた苦痛と絶望に、見事に対応するものだった。
「しかし、彼らを最後まで油断させ、ミスを誘うためには…」 美希は少し間を置き、口元に冷たい笑みを浮かべた。「あの怜奈さんの暴走が、最高の『引き金』になってくれるでしょう」
「どういうことですの?」
「浩二が最も動揺し、判断力を失うのは、怜奈が激しく嫉妬し、騒ぎ立てている時です。ならば、彼女の嫉妬を、最高潮にまで達させましょう。例えば——」
美希はわざとらしく俯き、いたいけな声を装う。
「『怜奈さん、実は浩二さん、銀座のクラブのママさんにすごく高額な品物を贈っているらしいのよ。私、請求書の写しを見ちゃって…あなたにはないものばかり贈っているみたい。お気の毒に…』なんてね」
松岡先生は息をのんだ。
「それは…危険ではありませんか? 彼女が浩二さんにそのことを話せば、あなたの嫌疑が…」
「いいえ。怜奈はもう、浩二を完全には信じていません。私の言葉を、浩二の浮気の『証拠』として喜んで受け入れ、彼を問い詰めるでしょう。そして浩二は、その虚偽の告発にパニックになり、本物の隠蔽工作や資金移動の作業がおろそかになる——そう計算しています」
それは、怜奈の嫉妬心を最大限に利用し、浩二の注意力を完全に瓦解させる、見事なまでの心理操作だった。
長時間の作戦会議が終わり、二人はほっと一息ついた。緊張感が少し和らぐ中、松岡先生は静かに立ち上がると、仏壇の引き出しから、一枚の古びた写真を取り出した。
「これを…見てくださいませんか」
差し出された写真には、とても若い二人の男性が、互いの肩を組んで、屈託なく笑い合っている。一人は、鋭い目をした田中剛。もう一人は、優しそうな眼差しの松岡正男だった。背景は、どこかの工場の前だろうか。二人の顔には、未来への希望と、無邪気な友情さえ感じられた。
「これが、全てが始まった瞬間です」
松岡先生の声は、深い哀しみと、ある種の諦観に満ちていた。
「夢を語り、笑い合った友が、いつしか貪欲な怪物と化し、全てを奪い、壊していく…。**彼もまた、何か大きなものに囚われ、道を見失ったのかもしれない。**なんと愚かで、悲しいことでしょう」
美希はその写真を静かに見つめた。ここに写る若き剛の笑顔は、浩二の笑顔にあまりにも似ている。虚飾と欺瞞で固められた、あの笑顔に。
「しかし、私たちで終わらせましょう」 美希は静かに、しかし力強く言った。「この悲しい連鎖を、私たちの手で。」
松岡先生は涙を浮かべながら、深く頷いた。
夕闇が迫り始めていた。外はもう薄暗い。美希は気配を潜めるように、松岡先生の家を後にした。
最終計画は、もう動き出している。過去と現在を繋ぐ線は明確になり、復讐の刃は研ぎ澄まされた。
後は、引き金を引くだけだ。




