第1話 復讐の晩餐会
冷たさが骨の髄まで染み渡っていた。
東京の郊外、ぼろぼろのアパートの一室。畳の上に敷いた薄い布団の上で、小林美希は咳き込み、むせ返った。口中に広がる鈍い鉄の味。震える手を目の前にやると、ほの暗い灯りの下で、指先が不気味なほどの赤に染まっていた。吐血。それは病状が、確実に、そして残酷に最終段階へと向かっている、紛れもない証だった。
部屋は煤けたような薄暗さに包まれ、唯一の灯源は古びた小型テレビだ。画面にはバラエティ番組の騒がしい笑い声が流れていたが、やがてそれはニュース番組に切り替わる。
「本日二月十四日、バレンタインデーにちなんで、都内では多くのカップルが…」
アナウンサーの能天気な声が、耳の奥で不がいなく響く。そして、画面が切り替わる。
「また、本日、人気ベンチャー企業『イノベート』の田中浩二社長が、交際中のフリーアナウンサー、西山怜奈さんと華やかに結婚式を挙げました。お二人の前途を、関係者一同、祝福しております…」
テレビ画面いっぱいに、かつての夫、田中浩二の満面の笑顔が映し出される。その横には、美しい花嫁が、優雅に、そしてどこか誇らしげに寄り添っていた。浩二はかつての「課長」ではなく、「社長」と呼ばれている。彼の傍らに立つのは、もちろん、小林美希ではない。
「…っく、はっ…」
肺を引き裂くような激しい咳が、喉元までせり上がる。もう涙は出ない。あったのは、喉の奥底からこみ上げてくる、粘着質で黒い、拭い去れない悔恨だけだった。
あの日、あの優しくも欺瞞に満ちた笑顔に騙され、全てを捧げた自分が、ただただ愚かだった。親族と疎遠になり、友人は遠ざかり、仕事も辞め、ただ浩二のためだけに生きてきた。そして、使い捨てられた後は、病と貧困の中で、誰にも看取られることなく、ひっそりと、しかし無様に消えゆく運命だった。
(ああ…なんて馬鹿なんだろう…私…)
(浩二…あなたは…あの女と…幸せそうで…)
(やり直したい…もう一度だけ…あの時へ…!)
(全てを…全てをやり直して…!)
意識が遠のいていく。テレビの喧噪も、部屋の冷たさも、体中を蝕む痛みも、すべてが霞んでいった。ただ、燃え上がるような後悔と、くすぶり続ける憎悪だけが、最後の灯火のように心の中でゆらめいていた。
――そして、次の瞬間。
柔らかな光が瞼の裏をくすぐった。耳には、かすかにクラシック音楽が流れ込む。鼻腔をくすぐるのは、上質なワインの香りと、こんがり焼けた牛肉の食欲をそそる匂い。
「…美希? どうした? ぼんやりして。せっかくのディナーがもったいないぞ」
聞き慣れた、低くて心地いいはずのあの声。
はっと、目を見開いた。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。そこは、広々としたリビングダイニングだった。光沢のあるフローリング、洗練されたインテリア、そして窓の外には、東京の夜景が無数のダイヤのようにきらめいている。ここは、浩二との新婚生活を始めたあの高層マンション。まだ、すべてが壊れる前の、幸せの仮面をまとっていた頃の家だ。
眼前には、ロマンチックに蝋燭が灯る食卓。その向こうで、スーツ姿の浩二がいた。片手にはワイングラス。だが、もう一方の手は、テーブルの上に置かれたスマートフォンに夢中だ。彼の口元には、人を欺く、優しくて温かい笑みが浮かんでいる。**かつて、私が信じ、全てを捧げたあの頃の彼にも、確かにこの笑顔の片鱗はあった。だが、今はもう、その優しさが嘘で塗り固められていると知っている。**
「…美希? 大丈夫か? なんだか顔色が悪いぞ」
浩二が、一応は心配そうな——しかし、よく見ればその瞳の奥には、微かな焦燥感と、「どうしたんだよ、面倒くさいな」という本心がちらつく——そんな表情で尋ねてくる。彼の視線は、ほとんどスマートフォンの画面から離れない。
「…あ、ええ。ただ、ちょっと…」
美希はようやく声を絞り出す。自分の声が、若くて力強く、あの忌まわしい病に蝕まれていないことに、胸の奥で戦慄が走った。
「ちょっと、めまいが…しまして」
「そうか。無理はするな。けど、せっかくのステーキだ。冷めちまうから、さっさと食べようぜ」
浩二はそう言い捨てるようにすると、すぐさまスマートフォンに視線を戻した。画面をタップする指先は、彼女と話している時よりもずっと生き生きとして、どこか浮き立っているようにさえ見えた。
(あの時…まさに、あの時だ…)
記憶が鮮明に蘇る。この日、浩二は「仕事の連絡」と称して、ずっとスマートフォンをいじっていた。当時の美希は、忙しい夫を思いやるだけで、少し寂しいとは思っても、深く疑うことはしなかった。
しかし、今は違う。
二度目の人生を与えられた今、彼の態度の全てが、虚飾と欺瞞の塊にしか見えない。
美希は冷静に——自分でも驚くほど冷静に——浩二を観察し始める。
まずは彼のワイングラスを持つ手。真っ白なカフスには、ほんの少し、だが確かに、明るいピンク色の口紅の跡がついている。あの女、西山怜奈の好みの色だ。
次に、テーブルに置かれたスマートフォン。ほんの一瞬、画面が明るくなった時、待ち受け画面が映る。それは、美希と彼の結婚写真などではない。浩二と、若く美しい女性——西山怜奈——が、どこかのリゾート地で陽気に笑い合っている写真だった。
そして、浩二が先ほど、愛想笑いとともに美希に渡した小さな箱。開けると、中には可憐なパールのネックレスが入っていた。
「バレンタインのお返しだよ。似合うと思う」
彼はそう言った。前世でも、同じ言葉を、同じように嬉しそうに受け取った。
(そうか…このネックレスも、あの女が選んだものの、気に入らなかった“お下がり”だったんだね…)
冷たい怒りの塊が、胃の底でゆっくりと大きくなっていく。だが、それはもはや激情でも悲鳴でもない。静かに、しかし確実に全てを焼き尽くす、冷徹な業火へと変貌していた。
混乱と驚きは、急速に収束していった。信じがたい状況だが、これは現実だ。死んだ自分が、過去に戻ってきた。そして、目の前にいるのは、自分を破滅へと導いた男だ。
(よかった…本当に…よかった…)
(神様…仏様…ありがとうございます。この機会をくださいまして…)
彼女の内側で、何かが確かに、そして劇的に変化した。温順で従順だった主婦の仮面の下で、死の悔恨と憎悪が鍛え上げた、冷たく硬い決意が、今、刃を研ぎ始める。
表面では、美希は俯き、少しばかり具合が悪そうな、愛想良い妻の表情を作った。
「ごめんなさい、浩二さん。せっかくのごちそうなんですけど、少し頭が痛くて…。少し横にならせてもらってもいいですか?」
「ああ、いいよ。どうぞどうぞ。大丈夫か? 薬でも出すか?」
浩二の返事には、心配よりも明らかに安堵の色がにじんでいた。邪魔者が去ったことで、スマートフォンの向こうの相手との会話に集中できるというわけだ。
「大丈夫です。少し休めば治りますから。ゆっくり食事を楽しんでいてくださいね」
美希は、愛想笑いを浮かべてそう言うと、ゆっくりと席を立った。震える足を必死にコントロールしながら、リビングを抜け、廊下へと向かう。
ドアを閉め隔てた寝室ではなく、その先の浴室へと足を運ぶ。明るい電灯の下、大きな鏡が彼女を映し出す。
そこにいるのは、二十八歳、病気になる前の、若々しく健康な小林美希だった。髪は豊かでつややか、肌は透き通るように白く、目は——しかし、その瞳の奥には、もうかつての無邪気な輝きはない。代わりに、深淵のような静謐と、冷たい光が潜んでいる。
鏡に映る自分を、じっと、まるで別人を見るように凝視する。
(これが…私…。もう一度、手に入れた私…)
テーブルに置かれていた、浩二からの“愛の証”であるパールのネックレスを外し、じっと見つめる。そして、迷いなく、洗面台の排水口へと落とした。微かな水音とともに、それは闇へと吸い込まれていった。
次に、彼女は化粧ポーチから、一本の口紅を取り出す。西山のものより、ずっと深く、濃い、血のような赤い色だ。
鏡の前にゆっくりと近づき、その口紅の芯を、冷たい鏡面に直接、圧し付ける。
――キリッ――
滑らかな、しかし不気味な音を立てて、二文字が鏡面に刻まれていく。
復讐
鏡面に躍る、不気味で美しい、深紅の文字。それは、彼女の新たな人生の、そして彼らへの破滅の、宣戦布告だった。
鏡に映る自分——過去の悔恨を引きずり、未来の業火を宿した自分——をまっすぐに見据え、美希は、確固たる決意を込めて呟く。
「この人生、全てをやり直す。そして、あなたを地獄へ引きずり込む」
窓外では、東京の夜が、何も知らず、冷たく華やかに輝いていた。