不可解な衝動
ヴォルフが廊下を歩いたのは、ほんの気まぐれからだった。
ふと、今が昼で、ヒトは活動している時間帯だという考えが頭に浮かんだのだ――今なら、あの贄が目覚めている時間だと。
彼にとって、何日だとか、何時だとか、昼だとか夜だとかは、まったく意味を持たないことだ。
日がな一日書斎にこもり、思いつくまま書物を手に取り文字を追う。
贄が運ばれてくるようになるだいぶ前にはふらりと夜に出歩くこともあったが、ここ数百年はそれもなくなった。元々外界に興味はなかったし、実際にうろついても特に面白みも感じられなかったから。
なのに何故、今自分は廊下を歩いているのだろう。
しかも、城の中で唯一のヒトの気配を探りながら。
我解せぬ思いにヴォルフは首をかしげたが、その答えが見つかる前に、前方に、小柄な人影が現れてしまった。
名前は、確か――
「ローゼマリー」
人形が、彼女によってカミラと名付けられた人形が、贄はそんな名前だと言っていた。
廊下の先に届くほどの声を上げたつもりはなかったが、娘がパッと振り向いた。
「ヴォルフさま」
娘の青い瞳が彼を見て、柔らかな声が、彼の名を紡いだ。
『ヴォルフ』
どうしてか、彼女に呼ばれたその名前は、別の何かに聞こえた。もっと、何か、良いものに。
そう感じる自分が、ヴォルフには不可解だった。
妙に気まずくて彼はローゼマリーから目を逸らし、花瓶に視線を走らせる。そこには溢れんばかりに花が活けられていた。その器の用途は知っていたが、実際に役割を果たしているところを目にするのは初めてだ。
そもそもヴォルフは陽が高いうちは外に出ることがないから、花というものを見ることが滅多にない。
使えばこんなふうになるのかと物珍しさを覚えるヴォルフにローゼマリーが何か許可を求めてきて、彼はおざなりに頷いた。
と。
「ありがとうございます」
礼の言葉と共に、彼女の顔がほころんだ。
ヴォルフは、思わずそれを凝視する。
目と鼻口の形も配置もそう大きく変わったわけではない。にも拘らず、彼女の顔がまるで違って見えた。
だが、見つめるうち、それは淡雪のように消え去ってしまう。消えてしまったことが、彼は不満だった。
すると、ヴォルフを見上げてくるローゼマリーの眼差しが曇る。
自分の不満が伝わって怯えさせてしまったのかと思ったが、そうではなかったようだ。彼女から、恐怖は感じられない。
彼を恐れているわけではないというのなら、この娘はいったい何を感じ、何を考えているというのだろう。
(解らん)
ヴォルフは唸り声を漏らしそうになる。
彼女にまつわるあれやこれやが、彼には、さっぱり解からない。
これまでの贄の娘たちの、なんと単純だったことか。
彼女らは、一代目の無関心を除けば、皆、怯えしか伝えてこなかったのだから。
行き詰ったヴォルフは、取り敢えず、自分にも理解できそうな答えを得られると思われた質問を彼女に投げることにした。
「何か足りないものは?」
そう、これなら明確な答えが返ってくるはずだ――そのはずだ。が、しかし。
何も要らないというような返事を寄越したローゼマリーは、次の瞬間、パッと笑ったのだ。
刹那、ヴォルフの胸をズクリと何かが突き刺さったような衝撃が襲う。と同時に、彼の身体は勝手に動き出していた。
知らず伸びた手がローゼマリーの肩を掴み引き寄せる。
細い身体を抱きすくめ、喉元まで詰まった襟を引きちぎり、脈打つ首筋を露わにさせた。
トットッと規則正しく震えている白い喉が、彼を誘う。
自分が何をしているか――何をしようとしているかを認識する前に、牙がそこを抉っていた。
噴き出した熱い飛沫はとてつもなく甘い。その甘露が、益々ヴォルフの頭を曇らせた。
二口、三口と貪るヴォルフの耳に、不意に、か細い喘ぎ声が届く。悲鳴じみたそれに、一瞬にして彼の頭が覚めた。
「ヴォルフ、さま」
乱れた息の合間から、彼女が彼の名を呼んだ。
気付けば、ローゼマリーの小さな手が縋り付くようにヴォルフの服を握り締めている。そして彼の腕はと言えば折れんばかりに華奢な背中を抱き締めていて、柔らかく温かな肢体がこれでもかというほどにピタリと彼の胸に密着していた。
(我は、何を)
確かにこの娘は『贄』で、ヴォルフに血を与えるためにここに居る。
いつでもどこでも、食らっても構わない。
だが――だが、こんなふうに衝動に駆られて吸血行為に走ったことは、今までなかった。
今までの贄には、直接牙を埋めたことはない。そもそも、触れたことさえないのだ。いつも、カミラに処置させ、血だけを受け取っていた。
なのに、何故、初めて顔を合わせたときといい、この娘に対しては勝手に身体が動いてしまうのか。
ヴォルフは溢れる血潮をこのまま啜り続けたいと望む己の欲を押しやり、止血のために彼の牙が穿った傷に丹念に舌を這わせる。と、娘が小さく息を呑んだ。
「ッ」
見れば小さな顔が真っ赤になっている。
やはり、彼女からヴォルフに対する恐れは伝わってこない。嫌悪の念さえも。
この三百年の間送り込まれてきた九人とはあまりに違い過ぎて、ヴォルフは困惑する。いや、胸中にあるものは困惑だけではない。もっと、何か、むず痒いような、正体不明の感覚も、あった。
自分を突き動かす衝動の原因も、胸の中で入り混じる感情も、何もかもがヴォルフにとっては初めてのもので、理解不能なものだった。
だが、一つだけは判る。
これ以上、彼女に触れてはいられない。
触れていて、何が起きるか、己が何をしでかすか、予想がつかない。
ヴォルフは血の味が完全に消え失せたのを確認し、ほとんど突き放すようにしてローゼマリーを解放した。と、初めて会った時のように彼女が床に崩れ落ちそうになるのを目にした瞬間、とっさに手が出てすくい上げるように抱き留める。
いつもの贄と同じように、放置してカミラに任せればいい。
それが妥当で、そうすべきだと理性が囁く。
にも拘らず、ヴォルフの腕はその囁き声に従おうとしなかった。
ヴォルフは顔をしかめ、ローゼマリーの背中と膝裏に腕を回し、抱き上げる。身体に力が入らないらしい彼女は、クタリと彼の胸にもたれかかってきた。その微かな重みに、先ほどの妙な胸の疼きがまたぶり返してくる。
本当に、なんなのだ。
理解できないことに忌々しさを覚えながら、ローゼマリーを抱く腕に、ヴォルフは力を籠める――無防備な彼女を、己の中に包み込むように。
どうしてそんなふうにしてしまうのか――したいと思うのか、ついぞ彼には解らなかった。