吸血
(噛まれた)
ローゼマリーがそう理解した瞬間、首筋に食い込んでいたものが抜けていき、代わって、また先ほどと同じ感触――冷やかな唇がそこにピタリと押し当てられた。薄く敏感なローゼマリーの肌を、湿った柔らかなものが這う。次いで、ゴクリと、魔物の喉が鳴る音が聞こえた。
(血、飲んでる……)
現状を悟ると同時に、ローゼマリーは悪心と眩暈に襲われる。
とっさに身を離そうとした彼女の腰に腕が回され、捕らわれた。
ゴクリ、ゴクリと魔物が喉を鳴らすたび、ローゼマリーの背が粟立つ。
自分は魔物の贄。
村を守ってもらう代わりに血を与える。
そう教えられ、頷き、そのために、来たはずだった。
だが、覚悟はしていて理解もしていたはずなのに、実際に自分の身に起きてみるとその行為を受け止めきれない。今この瞬間も体内を駆け巡っているものを奪われ貪られるということに、ローゼマリーは生理的な嫌悪感を覚えた。
呆然とするローゼマリーをよそに、また一口、魔物が彼女の首から溢れるものを舐め取り飲み下す。
カクンと足から力が抜けたけれども、ビクともしない魔物の腕に支えられた。
捕食されている。
その感覚がもたらすものは、本能からくる恐怖心だ。
(でも、何か……)
ローゼマリーは、そうやって一方的に支配され蹂躙されることに、恐れ以外の何かを覚えている自分に気付く。
怖いのに。
イヤなのに。
なのに、もっと、奪って欲しい。
一欠けらも残さず、己の全てを喰らい尽くして欲しい。
――身体の奥から、そんな欲求が湧き出してくる。
意識せぬままローゼマリーの手が上がり、魔物の長衣をキュッと掴んだ。
と、唐突に、魔物がローゼマリーを突き放す。殆ど投げ出すように解放され、へなへなと床にへたりこんだ彼女に向けられた深紅の瞳は冷え切っていた。
魔物は興味も関心も欲望も、何も浮かんでいない一瞥をローゼマリーに投げ、踵を返す。
行ってしまう。
一言さえも、その声を聞かせることもなく。
「待って!」
去っていこうとする彼を、どうにか肘をついて身を起こしたローゼマリーはかすれた声で呼び留めた。振り返ることなどしないかと思われたけれども、予想に反して魔物は肩越しに視線をよこす。
「あの、あの……何てお呼びしたらいいですか?」
冷たい眼差しに怯みそうになる自分を叱咤して、乱れた息の合間に、ローゼマリーは辛うじて訊ねた。
形の良い眉が微かに持ち上がったのは、ローゼマリーのその問いが思いも寄らないものだったからか。
「好きに呼べばいい」
束の間の沈黙の後、投げやりな声が返された。
その返事に、彼女は眉根を寄せる。
好きにと言われても、選べるほどの選択肢がない。
「じゃあ、お名前を、教えてください」
「なまえ?」
それは何だと返してきそうな口ぶりだった。だが、しばしの間を置いて、魔物が告げる。
「……ヴォルフ」
その声に微かな困惑が混じっているように感じられたのは、ローゼマリーの気のせいだろうか。冷ややかだった眼差しに、ほんの少し、何かの色が射しているような気がするのも。
「じゃあ、ヴォルフさま。これからよろしくお願いします」
彼女のその台詞に、ヴォルフは微かに唇を引き結んだ。何か言ってくれるのかとローゼマリーはそれが開かれるのを待ったが、結局彼は押し黙ったまま部屋を出て行ってしまった。半歩たりとも彼女との距離を縮めることもせず。
「わたしは餌、だもんね」
ポツンと取り残され、身体を支えることが難しくなってまた床に伏したローゼマリーは、そう独り言ちた。いつまでも床に寝転がっていたくはないけれど、自力で立ち上がることなどできそうもない。
(このままここに放置されるのかな)
彼に与える血が尽きるまで。
家畜でももう少し世話を焼いてもらえるのになと、何となく笑ってしまったところで、再び扉が開く音がした。
(また来てくれた?)
しかし、ローゼマリーが首を巡らせて目を向けたところに立っていたのは、ヴォルフではなかった。
「あなたは……」
近づいてくるのは、彼女がこの城に着いたとき、出迎えてくれた人だ。黒髪黒目で女性とも男性ともつかない。強いてどちらかに決めろと言われたら女性に手を上げるかという、中性的な容姿をしている。やはり人間離れした麗姿だから、きっと、ヒトではないのだろう。
彼女もしくは彼はローゼマリーの傍にひざまずき、無言で彼女を腕に抱え上げる。確かにローゼマリーは小柄な方だけれども、体重はそれ相応にはある。にも拘らず、羽根布団でも持ち上げたかのような無造作さだ。
抱き上げられた拍子にローゼマリーの腕が相手の胸に押し付けられた形になったけれど、そこにふくよかさはない。いよいよ、性別不詳だ。
彼もしくは彼女はスタスタと歩き出す。それこそ、ローゼマリーなど抱えていないかのような足取りで。
(やっぱり、ヒトじゃないんだよね)
おとなしく運ばれながら、ローゼマリーは胸の中で呟いた。
やがて連れていかれたのは綺麗に整えられた一室で、ローゼマリーはその中央にしつらえられた寝台に壊れやすいガラス細工か何かのように、そっと下ろされる。
「後ほど食事を運びます。それまでに用があったら呼んでください」
そう言い残し、さっさと去ろうとする黒髪を、ローゼマリーは呼び止めた。
「ちょっと待って、待ってください。呼ぶって、どんなふうに? 誰を?」
「声に出して、私を」
「どう呼んだらいいの?」
「お好きに」
なんだか、先ほどと似たような遣り取りだ。なので、ローゼマリーも同じように返すしかない。
「あの、名前を教えてもらえますか?」
「名前?」
「はい、あなたの名前を」
言われて、相手はしばし口を閉じ、そして、言う。
「名前はありません」
もしかしたら、そもそも魔物には名前という概念がないのだろうかという考えがローゼマリーの頭をよぎったけれど、ヴォルフにはヴォルフという名があるわけだから、そういうわけでもないはずだ。
「でも、ヴォルフさまにはなんて呼ばれているの? その、ヴォルフさまがご主人さま、なんですよね?」
「確かにあの方は私の主ですが、あの方が私を呼ばれることはありません。私はあなたたちの世話をするために作られたものですから」
淡々とした声で至極当然のように言われても、ローゼマリーには理解不能だ。
「だけど、名前がなかったら呼べないでしょう?」
「今までの方は、『ちょっと』『ねえ』などと発していました。私にはそれで伝わります」
もしかして、三百年間名無しで過ごしてきたのだろうか。
「……わかった。じゃあ、わたしは、あなたのことを――カミラって呼びます」
「カミラ?」
「はい。わたしがここにいる間は、あなたは『カミラ』よ。それがあなたの名前。わたしはローゼマリー、親しい人はローズって呼ぶの。あなたは、『カミラ』」
「私の、名前」
カミラは、『カミラ』と呟いている。そして、ローゼマリーを見た。
「了解しました。では、私のことはカミラと呼んでください」
「うん。よろしくね、カミラ」
そう言ってにこりと笑うと、カミラは、主と同じような顔を――何か奇妙なものを目にしたような顔を、返してきた。