エピローグ
夜明け間近なその時刻、部屋には穏やかな静寂が満ちていた。
一番暗く、一番静かな、時間だ。
ヴォルフは寝台の脇に引き寄せた椅子に腰を下ろし、寝台に肘を突いてそこに横たわる人の手を両手で包み込んでいた。
その手は乾いていて、肉もすっかり薄くなっている。
枕に広がるかつては陽光のような色をしていた巻き毛は、今はもう、新雪のような純白だ。
ヴォルフは、握ったその手をそっと唇に押し当てた。
と、それが、彼女を夢と現の境界から引き戻す呼び水になったようだ。
「ヴォルフさま?」
かすれた声が、彼を呼ぶ。
三日ぶりに耳にしたその声に、ヴォルフはハッと顔を上げた。
「ローゼマリー」
名を囁くと、彼女はふわりと笑った。
頬は艶を失い、唇はひび割れている。
だが、それでも、ローゼマリーの微笑みは美しかった。
「ローゼマリー」
もう一度呼びかけ、痩せ細った手に口づける。
「辛くはないか」
「全然」
ローゼマリーはそう答えたが、そのたった一言でも、息を切らしている。銀の鈴が鳴るような軽やかさも、今はもうそこにない。
だが、それでも、彼女の声だ。
ホッと安堵で唇を綻ばせたヴォルフに、ローゼマリーも微笑んだ。そして、その微笑みのままで、言う。
「こんなしわくちゃになったわたしなんて、すぐに忘れてくださいね?」
冗談めかしたその台詞に潜む懸念に、ヴォルフは気付く。そして、声には出されなかった「わたしがいなくなったら」という言葉にも。
彼は手を伸ばし、痩せた頬にかかる白髪を指先でよけた。
「お前を愛しく思う気持ちは、日々増すばかりだ。今、この瞬間も。我の中で、どんなお前も色褪せることはない」
一言一句、全て違わず真実だ。
年を経て、若さ故の輝きが褪せても、ローゼマリーはヴォルフにとって光そのもののままだった。焦がれてやまない、求めてやまない、唯一の、光。
だが、今、それが失われようとしている。彼女の全てが、ヴォルフの手から零れ落ちようとしていた。
ローゼマリーを引き留めておくことなどできない。
ヴォルフには、彼女を自然の摂理から攫うことが、できなかったから。
解かっている。
命は、失われるものなのだ。
解かっている。
しかし、それでも、ヴォルフは、すがるように彼女の手を握り締める。
ローゼマリーは一つ息をつき、儚い力で彼の手を握り返してきた。
「ヴォルフさま」
「何だ?」
「わたしは、幸せでした」
「……そうか」
「あなた、も?」
「ああ。ああ、我も、幸せだった」
ヴォルフは、心の底からの思いを込めて、そう答えた。
彼の途方もなく長い生の中で、ローゼマリーと過ごした五十年だけが、幸せだと言える時間だったのだ。この先、同じ時間が手に入るとは、思えなかった。そして、失うと判っていても、その喪失感が途方もないものになると判っていても、得たことを後悔する気持ちは微塵もなかった。
「我は、お前と共にあれて、幸せだ」
ローゼマリーと額を触れ合わせ、もう一度告げたヴォルフの頬に、彼女が触れる。
「あなたに、これからも、幸せであって欲しいです」
「……ああ」
ヴォルフは、頷いた。
彼がそうすることを、ローゼマリーが望んでいるから。
ヴォルフの返事に、彼女は目を閉じ、微かに微笑んだ。
そして、少し大きめな息を吸い込んで、――止まった。
するりと抜け落ちそうになったローゼマリーの手を、そうならないように、ヴォルフはしっかりと握り締める。
「ローゼマリー」
名を呼んでも、もう応えはない。
瞑目して、すでに冷え始めた彼女の掌を、頬に押し当てる。
「お前がいないこの世界では、お前の望みを叶えられない」
囁き、再び目を上げたヴォルフはその視線を戸口へと向けた。
そこに佇むのは、レオンハルトと一人の少女だ。母親譲りの赤みがかった金髪と、父親譲りの深紅の瞳を持った、少女。
ヴァンピールには、非常に子どもができにくい。
ローゼマリーとの五十年の間に、授かったのは彼女だけだった。
ヴォルフは、少女を見つめた。
彼女のことは、愛おしいと思う。
だが、ローゼマリーの代わりにはならないのだ。彼女が欠けてこの世界にできてしまった穴を、彼女以外の何ものも、埋めることはできやしない。
「レオンハルト」
「ん?」
飄々とした男は、ローゼマリーが旅立ったこの場にいても、やはり変わらない。
「娘を、頼む」
真っ直ぐに見据え短く告げると、レオンハルトはバリバリと頭を掻いた。
「あ――……本当に、それでいいのか?」
らしくなくためらいがちな口調で尋ねた彼に、ヴォルフは頷く。
「ああ」
ヴォルフは、少女を見つめた。ヴァンピールである彼と、ヒトであるローゼマリーとの間に生まれた子どもだ。ヒトの身体に、ヴァンピールの強さを持つ少女。
「我ゆえに、ローゼマリーはここに囚われた。本来ならば、どこにでも行けたはずなのだ」
太陽の下を、歩きながら。
ヴォルフは一度、窓の外に目を向けた。
ローゼマリーと共に過ごすようになってからの五十年間、彼がこの部屋にいる時には、常にこの窓の鎧戸は閉ざされていた。それが、今は開け放たれている。
そこから望める東の空は、微かに白み始めていた。
もう、時間がない。
「お前ならその子を連れていける。我らが見ることが叶わなかった世界を、見せてやって欲しい」
「お前は?」
問われてヴォルフは、微かに口元を綻ばせたまま永遠の眠りに就いた愛しい人を、見つめる。こうやって手を伸ばし、その頬に触れても、もう二度とあの花が咲くような笑顔を見せてはくれないのだ。
「……彼女がいない世界では生きられない」
この瞬間に至るまで、ヴォルフも何度も考えた。
自分がどうしたいか、どうすべきか。
選択肢を天秤にかけて、違う答えに傾いたこともある。
だが、今、こうやって旅立ってしまったローゼマリーを見ていると、彼女を追いかけることしか考えられない。
「その子を、連れて行ってくれ……頼む」
その最後の一言に、レオンハルトが重いため息をついた。そして、終始何も言わずにいた少女に目を向ける。
「おいで」
少女はレオンハルトを見上げ、ローゼマリーとヴォルフを見た。
窓の外からは、夜明けを告げる小鳥のさえずりが届き始める。
動こうとしない少女を、レオンハルトが片腕に抱き上げた。少女は彼の腕の中でクルリと身をよじり、父と母を凝視している。
レオンハルトは、彼女の頭をクシャリと撫でる。
「じゃあな」
出会ってから何度も投げてきた一言を最後に、彼と少女は姿を消した。
空は紺色から藍色、菫色へと変わりつつある。部屋の中が仄かに明るさを帯び始め、それに伴い、ヴォルフの肌はチリチリと疼き始めた。
ヴォルフは寝台の上に上がり、ローゼマリーを腕の中に引き寄せる。冷えた身体を温めてやれない我が身が、忌々しかった。
やがて、東の空が、金色に染まる。次第に広がるその鮮やかさに、ヴォルフは目を奪われた。
「お前の、色だ」
囁き、彼は、今はすっかりその色を失った巻き毛に口づける。
増していく朝焼けの光が、ヴォルフを包み込む。その眩さに目を細めた。
「お前の腕の中に、いるようだ」
その温かさも、その輝きも。
ヴォルフは彼女を引き寄せ、目を閉じる。
そして、黎明の陽光に全てを委ねた。
3部作の一つめです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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