永遠を願う
レオンハルトは完全に意識を失い、そして、完全に元の姿に戻った。再び雲が晴れ、満月の光が煌々と注がれたが、彼の身に変化は起きない。当分はこのままなのだろう。
ヴォルフはカミラを振り返った。人形は、たった今まで眼前で繰り広げられたことなどまるでなかったかのように、淡々としている。
「レオンハルトを連れていけ」
その指示にうなずきもせず、カミラはレオンハルトを肩に担ぎ上げた。どう見ても三倍近い体重があるだろうに、まったくそれを感じさせない所作だ。ヴォルフに小さな一礼を残してから踵を返したカミラの背中を一瞥し、彼はローゼマリーの前に立つ。
「傷を見せろ」
ムッツリとそう告げると、ローゼマリーはおずおずとその腕を差し出した。今の彼女に、血を飲めと彼に迫った時の勢いは皆無だ。
「ごめんなさい」
傷を検めようとしたヴォルフを上目遣いで見て、ローゼマリーは小さな声でそう言った。
「何故、謝る」
「その、言いつけに背いたので……ヴォルフさま、怒ってますよね?」
恐る恐るといった風情でのその問いに、ヴォルフは肯とも否とも応えなかった。
怒りは、ある。確かに、彼は怒っていた。それは事実だ。
だが、その矛先は彼女ではない。
ヴォルフは押し黙ったままローゼマリーの腕を取り、傷を見る。
くっきりとした紅い線が、左手首の屈側を縦断している。端から端まで、余すところなく完全に。
ヴォルフが肘を持って持ち上げると、ローゼマリーが微かに呻いた。傷からは、微かに血が染み出る。
血を得た時に止血はしておいたが、傷はかなりの深さがあったからまだ癒しきれていない。神経や腱が損傷している可能性もあるし、しっかりと治しておかねばまず間違いなく跡が残るだろう。
ヴォルフはローゼマリーを見た。目が合って、彼女はその呻き声をごまかすような笑みを微かに浮かべた。
彼はその微笑みから目を逸らし、彼女の手首の屈側を左の手のひらで支え、もう一方の手のひらで傷を覆う。彼女の傷をそこに感じ、焼けつくような痛みを覚えた。
その傷は、彼の為につけたものだ。つまり、彼のせいでついたものだということになる。
それが、耐え難かった。
ヴォルフは、毛筋ほどの痕跡も残らぬよう、丹念に治癒の力を注ぎ込む。
「お前に憤っているわけではない」
傷だけを見据え、一心に彼を見つめてくるローゼマリーの目から視線を逸らしたまま、ヴォルフは言った。
「え?」
「我はお前に怒っているわけではない」
傷の癒えたローゼマリーの腕を放し、ヴォルフはもう一度繰り返した。そして目を上げ、彼女を見る。
「二度と自分を傷つける真似などするな」
渋面のままそう告げると、ローゼマリーは一度瞬きをし、次いで小さくかぶりを振った。
「お約束はできません」
「ローゼマリー」
「ヴォルフさまに必要だと思ったときは、またします」
そう言って、ローゼマリーは花開くように笑う。
「ヴォルフさまがわたしのことを大事に想ってくださっていることは、解かってます。でも、わたしもヴォルフさまのことが大事なんです。だから、ヴォルフさまがわたしのことを守ってくださるときには、わたしもヴォルフさまのことを守りたいんです」
揺るぎのない口調で宣言したローゼマリーを、満月が照らす。それを受けて、彼女の赤みがかった金髪が輝いた。
注がれているものが月の光でも、彼女は輝いている。
だが、やはり、違うのだ。
ローゼマリーには、きっと、眩い太陽の方が似合う。自分では見ることが叶わなくとも、いや、だからこそ、ヴォルフは、彼女には太陽と青い空の下にいて欲しかった。
ヴォルフはローゼマリーを引き寄せ、包み込むように腕の中に入れる。
「お前を我が眷属にすることもできる」
「はい」
ローゼマリーはヴォルフの胸に頬を寄せて頷いた。
「だが、お前を闇の世界に閉じ込めたくはない」
胸の奥から押し出すように告げた台詞には、わずかな間があってから、頷きがあった。ヴォルフは胸の深くに彼女を引き寄せる。この身の内に閉じ込めんばかりに、きつく、抱きすくめた。
「倦むほど永い生の苦しみも、お前に味合わせたくはない」
もう、五百年前のことは覚えていない。忘れたからではなく、覚えておく価値があるものがなかったからだ。
多分、千年さかのぼっても、そうだろう。
ヴァンピールの生は長いが、ただ長いというだけだった。
この一年弱の間にローゼマリーが与えてくれたものは、千年の間に得たものよりも遥かに多い――とうてい、比べ物にならない。彼女は、暗がりにいたヴォルフに、数多の眩いものを、与えてくれた。 ローゼマリーは闇色だったヴォルフの世界に、色と光を与えてくれたのだ。
それは、ローゼマリー自身が輝いていたからに他ならない。
だからこそ。
「お前から、光を奪えない」
ローゼマリーの柔らかな巻き毛に頬を埋め、喉の奥から絞り出すように、ヴォルフはそう告げた。
ヴォルフの腕の中でローゼマリーが小さな吐息をこぼし、それが彼の胸元を温める。
「あなたがそう望むなら、それでいいです。わたしが最期まであなたの傍にいることには変わりがありませんから」
彼女のその台詞に、ゾッとした。
「……お前を失うことを考えると、恐ろしい」
嘘偽りは欠片もない、心底からの、言葉だった。
ほんのわずかな間を置いて、ローゼマリーがヴォルフの背中に手を回す。
「でも、両方を手に入れることはできませんよ」
ローゼマリーが囁いたのは、どうやっても覆しようのない真理だ。聞きたくない、だが、避けてはいられない、現実だ。
ヴォルフは、溺れる者が藁にすがるように、ローゼマリーを抱き締める。
「解っている」
そう、彼とて解かっていることなのだ。嫌というほどに。
「解っている。だが、受け入れがたい」
かすれた声で言ったヴォルフの背中を、幼い子どもにするように、ローゼマリーの小さな手がポンポンと叩く。
彼は、脆く儚いその存在を、きつく抱きすくめる。
彼女は、温かかった。
温かく、柔らかく、そして、生きている。
「我は、お前を……」
ヴォルフは口ごもり、言葉を探した。
ローゼマリーを想うと込み上げてくる、この息苦しいような何かを表す、言葉を。
「我は……」
見つからない。
ヴォルフはそれに、名前を付けることができなかった。
「ヴォルフさま」
名を呼ばれ、彼は腕の中を見下ろす。
ローゼマリーはヴォルフを見上げ、両手で彼の頬を包み込んできた。それに誘われるように、ヴォルフは頭を下げる。
「わたしは、あなたのものです」
彼女は囁き、爪先立って、そっと彼と唇を重ねた。
唇を触れ合わせたまま、また、囁く。
「わたしは、ずっと、あなたのお傍にいます」
そうしてヴォルフの頬に添えていた両手を滑らせて彼の首に回し、ピタリと身体を重ねた。
ヴォルフは緩めていた力を再び戻し、彼女を抱き締める。
伝わってくる、確かな鼓動、そして温もり。甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、ヴォルフは酩酊感を覚える。
――これらをいつか手放すことができるようになるとは、それを受け入れることができるようになるとは、今のヴォルフにはとうてい思えなかった。




