絶望が囁く誘惑
「ローゼマリーがいないとはどういうことだ!?」
そろそろローゼマリーの就寝時間になろうかという時間になってカミラがもたらしたその報告に、ヴォルフはどっしりとした安楽椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がった。その拍子に膝の上に置いてあった本が落ち、ばらける。
「入浴が常よりも長めになるとは言っていましたが、いつもの時間の倍が経過しても出てこないため、中を検めました。しかし、彼女の姿がありません。いつからかは不明です」
カミラは初めて耳にしたであろうヴォルフの荒い声にも、淡々と答える。だが、まとう気には微かな乱れがあり、外見どおりに平静であるとは限らないようだった。
カミラに当たっても仕方がない。カミラはローゼマリーの世話をする者であって、監視ではないのだから。
ヴォルフは憤りで荒い息を吐き、ローゼマリーの気配を辿ろうと半ば目を伏せる。
以前は、ローゼマリーの姿が視界にないときは終始無意識のうちにしていたことだった。しかし、彼女と時を共に過ごすようになってから――彼女が傍にいることに不安や疑念を抱かなくなってから、彼女を追い続ける必要を感じなくなり、いつしかしなくなっていたのだ。
城の中には――ない。
ヴォルフはパッと目を見開いた。
城のどこにも、ローゼマリーの気配が感じられない。
だが、彼女が城から出て行くはずがないのだ。彼女は、彼の傍にいると言ったのだから。
「何故……」
いるはずなのに、気配がない。
それはつまり――
考えたくない。考えられない。
愕然とするヴォルフに、その場の緊迫した空気をものともしないとぼけた声が届けられる。
「おいおい、何の騒ぎだよ?」
戸口に立っているのは、しばらく前に冬支度を届けに来てから城に居座っているレオンハルトだ。
ヴェアヴォルフとの混血とは言えヴァンピールの血を持つ彼は睡眠など必要としないはずだが、バリバリと頭を掻きながらあくびをするその態度は、まるでたった今まで寝ていましたといわんばかりだ。
ヴォルフは彼を一瞥し、声を噛み潰すようにして答える。
「ローゼマリーがいない」
「はあ?」
レオンハルトが間の抜けた声を上げた。顔中に、どういうことだと書いてある。
だが、彼にかかずらっている暇はなかった。そうできるだけの気持ちの余裕も。
取り敢えず、捜さなければ。
眉をしかめているレオンハルトは放置して、ヴォルフはその横を擦り抜けようとした。が、グイと腕を掴まれ引き留められる。
「ちょっと落ち着けよ。闇雲に駆けずり回るつもりか? 俺に任せろって」
ヴォルフは何もかもに靄が掛かっているように見える目をレオンハルトに向けた。
「この鼻が利くのはよく知ってるだろ? 取り敢えず、城の中にはいないんだよな」
「彼女は城の中にいるはずだ」
「でも、気配がないんだよな?」
「……」
「ったく、死んだって考えるより城の外にいるって考える方がよっぽど建設的だろ? 外は探ってみたのか?」
「……――判らない」
気が焦って集中できず、城から外へと伸ばした探索の手は繰り出す傍から消え去ってしまう。
胸に、何かが詰まっている。生命活動としての呼吸など必要がない身だというのに、苦しかった。苦しくて、たまらなった。
ヴォルフは胸元をきつく掴む。これを取り出す為なら、この胸に風穴を開けてもいい。
「ヴォルフ、おいこら、行くぞ!」
焦れたレオンハルトに軽く頬を叩かれ、ヴォルフは我に返る。
「さっさとついてこい」
その一声で滑るように走り出したレオンハルトを、ヴォルフも追いかけた。
レオンハルトがまず向かったのはローゼマリーの部屋だ。彼はそこでスンと空気を嗅ぐ仕草をしてから、すぐさままた駆け出す――廊下ではなく、庭につながるガラス戸を押し開けて。
中庭に出てみると分厚い雲が夜空の半ばを占めていて、雲の形ははっきりしているのでそのうち晴れるのかもしれないが、今はかなりの大きさがある雲の塊が月を隠していた。光源はほとんどないが、ヴォルフやレオンハルトには関係ない。
レオンハルトは迷う素振りなど欠片も見せずに庭を突っ切り、やがて西側の塀まで辿り着く。
「おいおい、彼女、いったい何やってんだ?」
唖然としているレオンハルトが見ている先にある物を、ヴォルフも見た。梯子だ。何故か、塀に立てかけられている。
「まあ、普通に考えれば、あそこから出たってことだよな。あの外、崖になってなかったっけか?」
一体何やってんだ? とブツブツと呟くレオンハルトを押しやるようにして、ヴォルフは塀まで走った。それをひと跳びで越える。
まず目に入ったのは、川だ。そして、舞い降りようとしている石ばかりの河原には――
「ローゼマリー!」
ヴォルフは考えるよりも先にその名を呼ばわっていたが、辺りに響き渡るほどの声量でも彼女は微動だにしない。
着地するなりローゼマリーへと駆け寄ったが、力なく横たわる彼女を抱き上げようとしたヴォルフを、鋭い声が制止する。
「待て、まだ動かすな!」
ビクリと動きを止めたヴォルフの横に滑り込むようにして、レオンハルトがしゃがみ込んだ。彼はローゼマリーの身体のあちこちに触れ、ほ、と吐息をこぼす。
「まあ、生きてはいるな。特にひどい怪我もなさそうだ。ローゼマリー、おい、聞こえるか?」
彼は触れもせず、声をかけるだけだ。
どうして、揺さぶってでも目覚めさせないのか。
いや、それよりも。
(ローゼマリーは、目を開けるのか……?)
そうならない可能性がほんの一瞬頭をよぎり、ヴォルフは自分の全てでそれを否定する。
ローゼマリーが二度とその目を開けないなど、二度とその声を響かせないなど、有り得ない。
しつこく呼びかけるレオンハルトの声が、遥か遠くから響いてくるように感じられた。
ヴォルフにとっては千年にも感じられる時が過ぎたがあと、ローゼマリーの眉が微かにしかめられる。
「ん……」
聞こえた小さな呻き声に、ヴォルフは全身から力が抜けてへたり込みそうになった。
「あれ? レオンハルトさんと……ヴォルフさま?」
ローゼマリーの声は寝ぼけているように少し不明瞭だったが、それでも、確かに、彼女の声だった。
「頭はちゃんとしてるようだな。どこか痛いところは? 手足は動くか?」
「ちょっと、あちこち痛いです。けど、動きます。あの、お二人とも、ここで何を? ……カミラさんまで?」
そう言って身を起こし、怪訝そうな顔をして居並ぶ面々を見回すローゼマリーに、ヴォルフの呪縛が解けた。
勝手に動いた腕がローゼマリーを引き寄せ、きつく我が身に引き寄せる。ちゃんと、温かい。ピタリと重なった胸には、彼女の確かな鼓動が響いてくる。
もう、彼女を眷属にしてしまえ。
ヴォルフの欲が、理性を押しのけてそう声高に叫んでいる。
そうすれば、ヴォルフが存在している限り、ローゼマリーが失われることはなくなるのだ。
たとえこの温もりが、この鼓動が失われたとしても、彼女が失われることは、なくなるのだ。
ローゼマリーの幸福など、知ったことか。
彼女がこの手から擦り抜けてしまうことより耐え難いことなど、ない。
ローゼマリーを眷属にし、二度と城から出られないように呪詛の鎖で縛ってしまえ。
そんな誘惑に満ちた囁きが、今、ヴォルフの頭の中には満ちていた。
「あの、ヴォルフ、さま……?」
戸惑い混じりの声で名前を呼ばれても、彼の喉には何かが詰まったようになり、応えることができない。仮に声が出せたとしても、言うべきではない台詞がこぼれ出してしまいそうだった。だからヴォルフは、呼びかけに応える代わりに両腕に力を込めて、少し湿って癖を増している巻き毛に頬を埋めた。
「ッたく、ここで何をはこっちの台詞だぜ?」
何も言えないヴォルフに代わってそう声を上げたのは、レオンハルトだ。ぎこちなく身じろぎをして、ヴォルフはローゼマリーを抱きすくめている腕を緩める。呆れ返った声でのレオンハルトの問いに、彼女が気まずそうな顔で答える。
「あの、レオンハルトさんが教えてくださったのを、見てみようかな、って」
「俺が?」
名を出され、レオンハルトは何のことだと言わんばかりに眉を持ち上げた。
「はい、……覚えていらっしゃらないんですか? ほら、満月の夜だけ輝く石があるって」
「え!?」
小首をかしげたローゼマリーの返事に狼狽しきった声を上げたのは、レオンハルトだ。
「満、月――?」
「はい」
ローゼマリーがコクリと頷いた、ちょうど、その時だった。月の光を遮っていた厚い雲が風で流れ、サァッと辺りが明るくなる。天頂に輝く望月がもたらす光量は、影ができるほどに眩い。
「あ、ホントだ。光ってる」
「マズい」
周囲を見渡したローゼマリーが嬉しそうな声を上げたのと、両手で顔を覆いながらよろよろと立ち上がり、数歩後ずさったレオンハルトが焦燥に満ちた声で呟いたのとは、ほぼ同時のことだった。




