侵入者
入浴後のひと時を居間で過ごし、そろそろ眠りに就く時分になって、自室に向かおうとしたローゼマリーはふと首を傾げた。いつも当然のようについてくるヴォルフが、椅子に座ったまま立ち上がろうとしないのだ。
「あの……?」
首を傾げたローゼマリーに、ヴォルフがツイと目を向ける。
「我は少し……カミラに用がある。先に行け」
「え、あ、はい……じゃあ、また」
ローゼマリーは両手を胸の前で握り合わせ、そう答えた。
ヴォルフがカミラに用なんて、初めて聞いた気がする。もっとも、日中の大半をヴォルフがどうしているかは知らないし、こうやって夜を一緒に過ごすようになったのも、ローゼマリーにとってはそれなりに長期間ではあるものの、ヴォルフにとっては束の間のことに過ぎないのだ。
(きっと、今までにもチョコチョコあったのよね)
ただ、彼女が知らないだけで。
そう自分を納得させて、ローゼマリーはペコリとヴォルフに頭を下げた。
「じゃあ、先に休ませていただきます」
顔を上げ、見るともなしにヴォルフを見たローゼマリーは、ふと眉をひそめた。何となく、自分を見つめる彼の眼差しの中に、もの言いたげな色があるように感じられたからだ。
「あの、何か?」
小首をかしげて尋ねると、ヴォルフは束の間彼女を見つめた後、フイと眼を逸らした。
「何も。早く行け」
この場から追い払いたいようにも聞こえる台詞だったけれども、やはり、何かがおかしい。
もう少し食い付いてみたい気持ちはあるものの、ローゼマリーは諦める。ヴォルフの胸の内に立ち入る権利は、彼女にはない。
「……おやすみなさい」
もう一度頭を下げて、ローゼマリーは居間を出た。幾度か振り返りつつ、後ろ髪を引かれていつもよりも重い足取りで彼女は自室に向かう。
いつもの倍の時間をかけて辿り着いて部屋の扉を開けた時、冷やかな風に頬をくすぐられ、ローゼマリーはドキリとした。
窓が、開いている。
いったい、いつからなのだろう。
(朝部屋を出た時は閉めたよね? 昼にちょっと戻った時も、閉まってたはずなのに)
今日、朝に部屋の空気の入れ替えをしてから、開けた記憶はない。
カミラだろうか。
でも、完璧に仕事をこなすカミラがうっかり閉め忘れるということは、まず有り得ない。
(じゃあ、やっぱりわたし……?)
ローゼマリーは痛くなるほどきつく、両手を握り合わせた。
ヴォルフがこの部屋に出入りするようになってから、ローゼマリーが不在の時は必ず鎧戸を下ろすようにしていたのだ。そうしないと、昼間誰もいない時にうっかりヴォルフが扉を開けた時に危険だから。
脳裏によみがえった、陽の光で肌を焼かれるヴォルフの姿に、ローゼマリーは身震いをする。
きっと自分がしくじったのだ。今後、二度と同じことがないようにしなければ。
(とにかく、何もなくて良かった)
安堵の念で胸を撫で下ろしたローゼマリーは部屋の中に入り、灯りをつけるよりも先に真っ直ぐに窓辺に向かった。
が、鎧戸に手を伸ばしたところで。
「ローズ」
「ッ!?」
まったく予期せず突然かけられた声に、ローゼマリーは文字通り飛び上がった。
低い声に、聞き覚えはない。
「誰!?」
後ろで一つに編んだ髪が宙に浮くほどの勢いで振り返ったローゼマリーは、開け放たれた扉の影から出てきた姿に、目をみはった。
「え……何で……?」
その人は、彼女が知らない低い声で、けれど、どこか聞き覚えのあるような気もする声で、言う。
「ローズ、逢いたかった」
大人の男性、ではない。
まだ大人にはなりきってはいない、さりとて、もう子どもとも言えない、合間の年頃。
暗がりの中では黒にも見える、多分、焦げ茶色の髪。目は、きっと、晴れ渡る空の色をしているはずだ。
この数年の間でずいぶんと背が伸びて、肩もしっかりしているけれど。
「テオ……」
抵抗なく、コロリと、ローゼマリーの口からその名が転がり出した。
名を呼ばれたテオは、この上なく嬉しそうな笑みを満面に浮かべる。
「やっと、逢えた。ずっと、逢いたかったんだ」
そう言いながら呆然と彼を見つめるしかないローゼマリーに歩み寄り、彼女をしっかと抱き締める。
離れ離れになった頃はようやくローゼマリーを追い越したというところだった背丈はグイと伸び、今頬に押し付けられているのは筋肉に覆われた硬い胸だ。彼女の後ろ頭を押さえているその手も、当てられているだけではなく、すっぽりと包み込んでくる感触がある。背中と腰に回された彼の腕だって、ローゼマリーが覚えている太さの倍はありそうだった。
「テオ」
もう一度名前を口にしたのは、良く知っていた少年が、まったくの別人になってしまっている戸惑い故だ。
だが、名前を呼ばれ、テオは感極まったようにローゼマリーを包む腕に力を込めた。
「そう、オレだよ!」
ギュウ、と締め付けられて、ローゼマリーの息が詰まりそうになる。ヴォルフに抱き締められるときとは、違って。
「テオ、テオ、苦しいよ」
喉から絞り出すようにそう言って、かろうじて動かすことができる手で、パタパタとテオのわき腹を叩いた。
「あ、ゴメン」
テオはパッと腕を解いたけれども、その手はローゼマリーの二の腕を掴んだままだ。まるで、手放したらまたどこかへ行ってしまうとでも思っているかのように。そんな子どもっぽいところはローゼマリーの記憶にあるテオで、思わず笑みを浮かべてしまった。そんな彼女を一瞬凝視し、テオもまた、笑う。
その笑顔に、彼女の中の違和感は一気に氷解した。
ローゼマリーは手を伸ばしてずいぶんと高い位置になってしまったテオの頬に触れる。
「元気そう。すごく大きくなってるし」
微笑みながらそう言うと、テオは誇らしげな顔になった。
「だろ? でも、まだまだデカくなるからな」
少しばかり生意気そうなその様子は、ローゼマリーが覚えているテオそのものだ。
「変わってないなぁ」
思わずそう呟いてしまうと、テオが不満そうに唇を尖らせる。
「そんなことねぇよ。オレ、弓だってうまくなったし熊だって獲れるようになったんだぜ?」
「熊って、でも、まだ狩りには出られない年でしょう?」
「狩り長にねじ込んで、入れてもらったんだ。もう一人前以上なんだぜ?」
「ねじ込んでって……」
ローゼマリーは眉をひそめた。
そもそも、どうしてテオはここにいるのだろう。
ローゼマリーがここにいることは知らないはずだし、村の者がこの城に近付くことだって許されていないはずなのに。
「ねぇ、テオ?」
「何?」
「あなた、どうしてここにいるの? どうして、ここに来たの?」
――どこまで、知っているの?
最後の問いは、声には出せなかった。
ローゼマリーは、後ずさる。
テオはここにいてはいけないのだ。何も知らずに、守られた村の中で、穏やかで平和で幸せな日々を送っているはずだったのに。
だがテオは、何故そんなことを訊かれるのかさっぱり解らないという風情で目をしばたたかせた。
「そんなの、決まってるじゃないか」
彼は開いた距離を大きな一歩で詰め、再びローゼマリーをその手で捉える。
「もちろん、ローズをここから助け出すためだよ」
意気揚々とそう言って、テオは子どもの頃と同じ顔で笑った。




