叶えてはならない望み
城の廊下のみならずヴォルフの部屋にも花を飾るのは、いつしかローゼマリーの日課となっていた。花を飾り、そして昼のひと時を彼の傍で過ごすのは。
今日も色とりどりの花が活けられた花瓶が運ばれてきたが、しかし、それを手にしているのはローゼマリーではない――カミラだ。
微かに目を細めたヴォルフに、カミラが花瓶を近くの棚に置いて言う。
「ローゼマリーは花が足りなくなったので庭に行きました」
「……そうか」
答えて、ヴォルフはまた膝の上に広げた本へと眼を落とした。が、彼が数頁めくったところで静かな声が問いかけてくる。
「どうして彼女を眷属にしないのですか?」
顔を上げると、カミラはいつもと変わらぬ感情を映さない眼差しをヴォルフに注いでいた。
無言のヴォルフに、カミラが再び口を開く。
「ヒトは死にます。ローゼマリーも、あと五十年もすれば死にます」
「……そうだな」
短く応じ、ヴォルフは顔を伏せた。一見、また本に意識を戻しただけであるかのように。
だが、ヴォルフの目は書物の文字を追ってはいない。彼の頭の中には、たった今カミラが放った台詞だけがある。
ローゼマリーが死ぬ。
それは、揺るがしようのない、事実だ。
ヒトの命は儚いもので、ヴォルフたちヴァンピールにとって、その一生は瞬きほどすらもないように感じられる。
ローゼマリーが存在しない世界。
彼女の声、笑顔、温もりが存在しない世界。
――それを思うだけで、ヴォルフは新月の夜よりも深い闇に覆われたような絶望感に襲われた。
自分は、ローゼマリーが失われた後、彼女が現れる前と同じように生き続けていけるのだろうか。
自問への答えは、すぐに出た。
おそらく、それは不可能だ。彼女無くして時が過ぎていくことに耐えられる気がしない。
ヴォルフは漏れそうになった呻き声をすりつぶすように奥歯を噛み締めたが、その沈黙をどう受け取ったのか、カミラが再び口を開く。
「ローゼマリーを眷属にすればいい。眷属にすれば、あなたが生きている限り彼女も生き続ける」
ヴォルフは眉をひそめてカミラを見た。
まるで、カミラ自身がそう望んでいるようにも聞こえる台詞だった。感情など持たず、己の欲など持たないはずのカミラが、望んでいるようにも。
「ヴォルフさま」
答えを促すようにカミラがヴォルフを呼ぶ。そんなふうに彼に迫るのも、この人形らしくないことだった。
(これも、ローゼマリーの影響か)
変わりつつあるのはヴォルフだけでなくカミラもまた、そうなのだ。
その変化は、果たして良いものなのか、それとも、ない方が良かったものなのか。
しばらく前から抱くようになった疑問に答えが出ぬまま、ヴォルフはカミラの問いに静かに答える。
「ローゼマリーはヴァンピールにはせぬ」
「何故」
即座に返ったその一言は、その素早さ故に疑問よりも不満を感じさせるものになっていた。
ヴォルフはカミラを見つめ、告げる。
「ローゼマリーは光の中で生きる者だ。ヴァンピールは闇の中でしか生きられない。彼女をそんなものにはさせられない――してはならない」
カミラに道理を説くヴォルフの脳裏によみがえるのは、太陽の下で見聞きしたことを楽しげに話すローゼマリーの姿だ。
ひとたびヴァンピールにしてしまえば、彼女からそれらを奪ってしまうことになる。
それは、断じてあってはならないことだ。
「ローゼマリーを陽の光で焼かれるような、闇の中でしか生きられない存在には、できない」
噛み締めるように吐き出したその台詞を最後に、ヴォルフは口を閉ざしカミラから視線を外した。
カミラは何も言わない。ただ、ヴォルフは、伏せた横顔に視線を感じていた。
無言のカミラから注がれるそれをはね退けるように、ヴォルフは読みもしない頁をめくる。
静寂は長いものにはならなかった。
微かな衣擦れの後に。
「わかりました。あなたがそうお決めなのであれば」
カミラは淡々とした口調でそう言い、まるで今の遣り取りなどなかったかのようにあっさりと踵を返して部屋の戸口へと向かう。が、扉に手をかけ出て行きかけたところで、不意に振り返った。
「最近、妙な仔ネズミがうろちょろしていますよ」
言外に「駆除しますか?」と問いかけてきたカミラに、ヴォルフはかぶりを振る。カミラが言うその『ネズミ』の存在には、彼もだいぶ前から気がついていた。時々、城壁の向こうから中を窺ってくる者がいることには。
以前は遠くから覗き見しているだけだったが、ここ数回は城壁間際まで近づいてきている。いずれ、それを乗り越えてくるだろう。
「いい、捨て置け」
その指示にカミラは微かに眉を上げたが、結局何も言わずに出て行った。
再び訪れたしじまの中、ヴォルフは安楽椅子に身をのめり込ませるようにして息をつく。
ローゼマリーを眷属に。
それは、カミラに言われずともヴォルフの胸中をよぎったことがある考えだった。
だが、その都度、カミラに伝えた答えで自らを戒めた。
ローゼマリーがここに居たいと、ヴォルフの役に立ちたいと言うのは、彼女が自分は誰からも望まれなかったと信じているからだ。つまり、彼女を望むものが他に現れれば、話はまた違ってくるに違いない。
ローゼマリーを迎えに来る者があれば、その時は、彼女を返さなければならないのだ。
「だから、この身のような化け物にはできない」
ヴォルフは自らに言い聞かせるために、声に出してそう呟いた。
だが、すべきことと望むことは、必ずしも合致しない。
ヴォルフは本を閉じて脇に置き、立ち上がる。
部屋を出て階下に向かい、廊下を進む。
求める姿は、一階の廊下にあった。
ヴォルフは立ち止まり、一心に花瓶に花を入れ込んでいくローゼマリーの姿を見つめる。と、さほど経たぬうち、ヴォルフの視線に気付いたように彼女はふと手を止め、顔だけを彼の方に向けた。途端に、微かなしかめ面が満面の笑みに変わる。
「ヴォルフさま!」
ローゼマリーが弾む声で彼を呼んだ。そして彼女はまだ残っている花束を胸に抱えたまま、小走りでヴォルフの元へやってくる。
「何かご用ですか?」
ヴォルフの前に立ち、小首をかしげ、目を煌かせて彼を見上げてくるローゼマリーに、彼の胸の中にふわりと温かなものが生まれた。
彼女を見下ろしながら、ヴォルフは己に問いかける。その時が来たら、本当に自分はこの温もりを手放すことができるのか、と。
判らない。
自信が、ない。
答えが出ぬままヴォルフは自分の目からローゼマリーの笑顔を隠すように彼女を抱き寄せた。
初めは、そっと。ただローゼマリーを見ないで済むようにするだけのつもりで。
だが、ひとたび彼女を感じてしまうと、ヴォルフは情けないほど自制が効かなくなる。
華奢な身体をより近くに引き寄せようと腕に力がこもり、柔らかな巻き毛に頬を埋めようと頭が下がる。
ヴォルフは、身体の全てで包み込むようにして、ローゼマリーを抱き締めた。
いつかは、手放す――手放さなければ、ならない。
(だが、それまでは)
こうやって、可能な限りできるだけ、近くにいて欲しい。
グッと、ヴォルフの腕に力がこもった。
と、その時、ヴォルフの力に――彼の望みに応えるように、胸元から声が届く。
「――してくださいね」
届きはしたが彼がきつく抱き締めているためかくぐもっているその言葉を、全て聞き取ることはできなかった。
「何?」
ヴォルフは力を緩めて見下ろしたが、見えるのはローゼマリーの丸い頭の天辺だけだ。いつもなら、彼が目を向ければ彼女はすぐさま見つめ返してくるはずなのに。
わずかに遅れて彼を見上げてきたローゼマリーの顔には笑みが浮かんでいたが、それはいつもの輝くものとは何かが違っているように思われた。
何が違うのだろうと眉をひそめたヴォルフの腕の中で、彼女が口を開く。
「ヴォルフさまが望むことが、わたしの望むことです。だから、ヴォルフさまがしたいように、してくださいね?」
同じようなことを、常日頃からローゼマリーは口にしている。
だが、それらの言葉とは違うことを言われているような気がした。
その微かな違和感は、今彼女が浮かべている笑みから漂うものと、同じだ。そして笑みと同様、何が違うのかが、判らない。
「……ああ」
訝しみながらもヴォルフが頷くと、ローゼマリーは、ただ静かにその笑みを深めた。




