夜の庭で
星が良く見える夜だった。
雲一つなく晴れ渡る夜空に浮かぶ月は細く、見渡す限り銀砂のような星々がちりばめられている。
「外に出てみませんか?」
宝石箱のようなその星空を一緒に見て欲しくて、ローゼマリーはヴォルフにそう声をかけてみた。
彼は広げていた本からローゼマリーへと目を移す。
「あの、星がとってもきれいなんです……ダメ、ですか?」
ヴァンピールでも、夜なら外に出られるはずだ。万が一を考えてレオンハルトにも訊いてみたから、大丈夫なはず。
以前にも一度庭に植えた月光百合を見てもらった時があるけれど、あれきり、ヴォルフが外に出たことはない――昼に飛び出したあの時を除いて。なので、もしかして、月光でもヴァンピールには負担になるのかと思ったけれど、そういうわけではないようだ。
レオンハルトが言うには、他のヴァンピールは、夜には好きなようにうろついているのだそうだ。ヴォルフのように、家屋から一歩も出ない方が珍しいのだと。
ヴォルフはしばしローゼマリーを見つめた後、本を置いた。立ち上がりローゼマリーの元へ来ようとしているヴォルフを、彼女は満面の笑みで迎える。
庭へ出てみると、満天の星がこれでもかというほどに瞬いていた。猫の爪のような月がちょうど中空に差し掛かっていて、何となく可愛らしい。
夏から秋へと変わりつつある時期だから、暑くもなく寒くもなく、心地良いそよ風が肌を撫でていく。
ローゼマリーは空を見上げていた視線をそのまま隣に立つヴォルフに移した。
「星と星をつないで絵を作る、星座、というのがあるって、レオンハルトさんから聞きました。ご存じですか?」
「……北に大きくのたうっているあれらはりゅう座。不死のリンゴを守る竜を模している。南にある赤い星はさそり座の尾だ。数多の冒険を成し遂げた英雄が唯一恐れる生き物だ」
「形だけではなくて、物語もあるんですか?」
「ある。ほとんどは古い神々にまつわる話だ」
頷いたヴォルフに、ローゼマリーは興味津々の眼差しを向ける。
「他には、どんなものが?」
「東の、十字を描いているようにあるのが白鳥座。主神がヒトの娘を篭絡しようとして変身したものだと言われている。西にあるあの際立つ星から上下につないでいったものはおとめ座……死の国に囚われた大地の女神の娘だ」
そこで彼はフツリと口を閉ざす。その眉間には、微かにしわが刻まれていた。
彼の中で何かが引っかかったようだが、それが何なのかがローゼマリーには判らない。
渋面で黙り込んでしまったヴォルフの気持ちを引き戻そうと、話題を変える。
「えっと、こうやって歩くのが嫌でなかったら、夜、一緒にお散歩しませんか?」
「散歩?」
「はい。……気が進みませんか?」
おずおずと付け足すと、ヴォルフは頭を上げて周囲を見渡した。
「毎日見てても、少しずつ何かが違うものなんですよ。その、ちょっとした違いを探すのも、楽しいんです。それを、ヴォルフさまと一緒にできたらなって」
膝を詰めてお互いの思いを伝え合ってから、ヴォルフはまた以前のように、毎晩ローゼマリーの元を訪れるようになっていた。
毎晩彼女に触れて、彼女を抱き締めて一晩を過ごして、そして、時々、彼女の血を飲んで。
ヴォルフが渋々ローゼマリーの血を飲んでいるのだということは、何となく判る。
そうするのは、彼女の為だ。血を提供できないのならば、ここにいる意味を見出せないと言った、ローゼマリーの為。
ヴォルフが嫌がることをさせているのは何だか本末転倒な気もするけれど、血を飲むことは彼の力にもなるのだ。ローゼマリーだから――ローゼマリーを傷付けることが嫌だから飲まないというのは、やっぱり彼にとって良くないことではないかと思う。
この点だけはまだ食い違いがあるものの、二人は穏やかな時を過ごせるようになっていた。
しかし、そうやってヴォルフが歩み寄ってきてくれたのは確かに嬉しいことだけれども、ローゼマリーはヴォルフともっと違う関わりも持ちたかった。こんなふうに、色々なものを見て、聞いて、言葉を交わし合って、彼がどんなふうに感じてどんなことを思うのかをもっと知りたくなったのだ。
「ヴォルフさまと過ごせる時間が、もっと欲しいです」
ローゼマリーはヴォルフを見つめ、そう告げた。
これは我がまま、だろうか。
途方もない時を生きるヴォルフには、三十年なんてほんの一瞬に過ぎないだろう。けれど、わずかとはいえヴォルフの時間を奪うようなことをするのは、おこがましいことなのかもしれない。
我知らず息を詰めてヴォルフの返事を待つローゼマリーの元に、彼の目が戻ってくる。
「わかった」
その短い承諾の言葉を聞いた瞬間、ローゼマリーはパッと満面の笑みになった。
「ありがとうございます! あ、そうだ! あっちの池に月が映るとすごくきれいなんです。今ならあるはず――ッ」
身を翻し、勢い込んで駆け出そうとしたローゼマリーだったが、小石に足を取られてふら付いてしまう。
地面に激突することを覚悟した彼女を、すかさずヴォルフが受け止めた。
「ありがとうございます」
ヴォルフは腰に回された彼の腕に縋り付いたローゼマリーを手放さず、そのままふわりと抱き締める。片手が彼女の腰に、もう片方の手が彼女の後ろ頭に置かれて、包み込まれるようにして彼の中に閉じ込められた。
「ヴォルフさま……?」
そっと呼びかけても、ピクリともしない。
ヴォルフの腕はきつく締め付けてはこないのにしっかりとローゼマリーを捉えている。全く緩まぬその力から感じられるのは、優しさだけだった。
まあ、いいか、と、ローゼマリーは身体の力を抜いて、支えてくれるヴォルフに身を委ねる。
少しばかり、ウトウトしていたかもしれない。
ローゼマリーは頭の天辺に柔らかなものが押し当てられる感触で、ハッと目を開ける。と同時に、ヴォルフが腕を解いた。
「池に行くのか?」
たった今まで彼女のことを抱き締めていたとは思えない淡々とした口調で、彼はそう訊いてきた。
「え? あ、はい」
頷きながら、ローゼマリーはチラリと空を見上げる。もう月はだいぶ傾いてしまっているけれど、夜の池を彼と見に行くというだけでも、充分だ。
放っておいたらまた転ぶとでも思ったのか、ヴォルフの手はローゼマリーの腰に置かれたままだ。少しばかり彼との距離を縮め、ローゼマリーは歩き出す。
が。
数歩ほど、進んだ頃。
ふと、ヴォルフが足を止めた。
「ヴォルフさま?」
小首をかしげて見上げると、彼はどこか遠くを探るような眼差しをしていた。
釣られてそちらに眼を向けてみても、ローゼマリーには何も見えない。しいて言えば、黒々とした森の梢があるだろうかというところ。
何だろうと眉根を寄せたところで、ヴォルフの視線が戻ってきた。
「どうかしましたか?」
訊ねたローゼマリーを、ヴォルフはジッと見つめてくる。
「ヴォルフさま?」
もう一度呼びかけると、彼はまたちらりと森の方へと目を走らせてからローゼマリーに戻り、小さくかぶりを振った。
「何でもない。行こう」
そう言って、ヴォルフは歩き出す。
(獣か何かかな)
彼の一連の様子を奇妙だとは思いつつも、ローゼマリーは足を踏み出した。




