互いに互いへ望むこと
誰かが頭を撫でている。
その優しい触れ方に誘われるようにして、ローゼマリーは目蓋を上げた。
手の主は横向きになった彼女の背中側にいて、目を開けただけでは姿は見えない。けれど、見えずとも、それが誰なのかは判っていた。
クルリと寝返りを打つと、思った通りの人がそこにいた。
「ヴォルフさま」
呟くように名前を呼ぶと、彼の手が止まる。ローゼマリーが目覚めたことに今気がついたという風情で、ヴォルフは一つ瞬きをした。そうして、彼女の頭に置いていた手を滑らせ、頬を包み込んでくる。
ローゼマリーは無意識に彼の手に頬をすり寄せた。そして思い出す。ヴォルフが言ってくれた台詞を。
『贄は、要らぬ。だが、お前は欲しい』
確かに、彼はそう言った。
贄であるかどうかには関係なく、その役割がなくても、ローゼマリーのことを求めてくれる、と。
(ただの、わたしを……?)
ローゼマリーの胸の中がふわりと温かさに満たされる。
贄としてでも、居場所が得られるならばそれで良いと思った。自分という存在を求めてもらえるならば。
けれど、ヴォルフは、その役割がなくてもローゼマリーが欲しいのだと言ってくれた。彼女が傍にいることを、ただのローゼマリーが傍にいることを、望んでくれたのだ。
ローゼマリーはヴォルフを見つめる。
「わたしは、ここにいてもいいのですね?」
静かな眼差しを注いでくる彼にそう訊ねてしまったのは、あの言葉を疑ったからではなく、もう一度だけ、確かめたかったからだ。
ローゼマリーの問いかけにヴォルフが微かに眉をひそめたから、束の間、彼女の胸に、あれは夢の中の出来事だったのだろうかという不安がよぎった。が、すぐにそれは打ち消される。
「そう言っただろう」
ヴォルフは眉間にしわを刻んだままそう言った。
不服そうな――彼らしくなく感情を見せたその返事に、ローゼマリーは思わず笑みを漏らしてしまった。いっそう怒らせてしまうかととっさに口元を覆ったけれど、見れば、ヴォルフはむしろ表情を和らげていた。
「我は、お前が笑うのが好きだ」
ポツリとこぼすように与えられた彼の言葉に、ローゼマリーは目をしばたたかせる。
ヴォルフが何かを『好き』と明言したのは、初めてではないかと思う。
目を丸くしているローゼマリーを見つめ、ヴォルフはそっと彼女の頬に触れた。その眼差しには、温もりがはっきりと見て取れる。彼はローゼマリーの頬を包み込んだ手の親指をゆっくりと動かし、何かを確かめるように彼女の肌を辿った。
ローゼマリーは心地良いその触れ方に、うっとりと身を任せる。ずっとそうしていて欲しいとすら思った。
しばらくそうしていた後、ヴォルフは手を下げ、懐から取り出した何かを彼女に差し出した。
「……?」
受け取ったそれは、ローゼマリーの両手から少しはみ出るほどの大きさの細長いものだった。幾重にも布で巻かれて、中身は全然見えない。
包みを見つめ、ヴォルフを見る。彼は何も言わず、ローゼマリーが包みを開けるのを待つ構えのようだ。
何だろうと眉をひそめつつ、ローゼマリーは包みを縛っている紐を解き、布を開く。
出てきたものは――
「これ、は……」
ローゼマリーは戸惑いと共に手の中にあるものを見つめた。それは、彼女の手のひらほどの刃渡りの小刀だった。鞘は革でできているけれども、柄は銀色だ。少しだけ鞘から抜いてみると、刃の部分は柄とまるきり同じ素材のように見受けられた。何がどう違うとは言えないけれど、鉄とは少し違う輝きをしているように思う。
疑問符を浮かべた眼をヴォルフに移したローゼマリーに、彼は淡々と告げる。
「銀の小刀だ。ヴァンピールやヴェアヴォルフは銀以外では傷つけることができない」
「……つまり、ヴォルフさまは傷つく、ということですか?」
言わずもがなのことを念押ししてしまったローゼマリーに、ヴォルフは平然と頷く。
「ああ。触れるだけでも焼けただれる。我にとっては陽の光に等しい」
「要りません!」
思わずつき返しかけて、慌てて止める。触れるだけでも、という代物を渡してしまうところだった。
ローゼマリーは元通りに小刀を厳重に包み込み、きっちり紐で縛り上げる。そうしてからもヴォルフに触れさせることが怖くて、迷った末に膝の上に置いた。
「どうして、こんなものを持っているんですか」
もしかして、レオンハルトが持ち込んだのだろうか。
だったら、文句を言いたい。
憤然と息を吸い込んだローゼマリーだったが。
「数代前の贄の娘が持ち込んだ」
「え?」
返ってきた答えに、思わず耳を疑った。
「贄のって……何故……?」
「よほど気が進まなかったのだろう」
「でも、だって、だからといって、ヴォルフさまを、なんて……」
ローゼマリーの中にはめらめらと憤りの炎が立ち上がったが、当のヴォルフは彼女の怒りが理解できないようだった。ローゼマリーに向けるものこそ、奇妙なものを見る眼差しだ。
「お前のように進んで贄になりたがる者の方がおかしい」
平然と言われ、ローゼマリーはかつて彼が口にしたことを思い出して唇を噛む。
皆、血を飲まれることを嫌がっていた――ヴォルフのことを拒んでいたのだと、彼は言っていたではないか。
「わたしは、嫌じゃないですから」
ほとんど睨みつけるようにしてそう告げたローゼマリーに、ヴォルフは肩をすくめる。
「そう言うのはお前だけだ。生まれのせいなのだろう?」
ヴォルフはローゼマリーの中にある村に対する義務感や負い目をほのめかせたようだ。
ローゼマリーは一瞬返事に詰まり、すぐにかぶりを振る。
「確かに、最初はそれが大きな理由だったかもしれませんが、今は違います。今は、ヴォルフさまのお役にも立ちたいんです。一緒に過ごしていて、あなたのことがとても大事になりました。だから、お役に立ちたいって……血を飲んで欲しいって、思うようになったんです。村の人たちのことも大事です。でも、今は――同じくらいあなたのことも大事です」
もしかしたら、村の人たちよりも。
力を込めて説いた彼女を、ヴォルフはどこか困ったような、戸惑ったような眼差しで見つめる。ややしてフイと視線を逸らせると、そっぽを向いたまま、言った。
「それは常に持っておけ」
ローゼマリーは何のことかと一瞬首を傾げかけ、すぐに膝の上に置いた物のことだと思い至る。
「だから、どうしてこんなものを……」
困惑混じりに呟くと、ヴォルフは再び彼女に眼を戻した。
「我は、自制ができない」
「え?」
キョトンと目を丸くしたローゼマリーに、ヴォルフは眉間にしわを刻んだ。
「我はお前が欲しい。触れると、尚更際限なく欲しくなる。日に日に、制御が難しくなる。だから、いつか、お前を喰い殺すかもしれない」
「まさか!」
「有り得る」
ムッツリと答えたヴォルフはひどく思い詰めた眼差しをしていて、どうやら彼自身はそう信じ込んでしまっているようだった。
そこで、ローゼマリーはふと気づく。
「もしかして、わたしの血を飲まれなくなったので、それが理由なんですか?」
「……」
沈黙は、肯定ということでいいのだろうか。
ローゼマリーは膝の上の包みに眼を落とす。
「ヴォルフさまは、わたしがこれを持っていた方が安心できるんですね?」
「そうだ」
コクリと頭を上下させての頷きは、どこか子どもめいていた。
ローゼマリーはホ、と小さく息をつく。
「だったら、持っています」
絶対に、使うことはないだろうけれども。
ローゼマリーがこっそりと胸の内でそう付け加えたとはつゆ知らぬヴォルフは、彼女の返事に表情を和らげる。
そのわずかな変化にローゼマリーが思わず笑いを漏らすと、ヴォルフは訝しげな眼差しを向けてきた。
「ああ、いえ。わたしたちって、もっとお話ししないといけなそうだな、と思って」
「……お前が話すのを聞くのは、好きだ」
「そんな感じに。もっと何が好きか、どうしたいかを伝え合っていきたいです」
そう返して微笑むと、ヴォルフはしばし考えこむ素振りを見せた。
「今はお前を抱き締めたい」
普通に会話の流れの中でそう言われ、ローゼマリーは一瞬ポカンと目を丸くする。ヴォルフはといえば、生真面目な顔で彼女の返事を待っている。
(この人って、ホントに……)
こういうところは、幼い子どものようだ。
けれど、彼のそんなところも――そう、愛おしい。
ローゼマリーはにこりと笑って頷く。
「喜んで」
そうして、両腕開くヴォルフの胸に、収まった。




