暴挙
レオンハルトと話をしてから三日が過ぎた日のことだった。
自室に引きこもっていたヴォルフは、控えめに扉が叩かれる音に顔を上げる。
外に立つ者が誰なのか、見なくても判っていた。終始、その気配を追ってしまっているのだから。
一瞬、ヴォルフの頭の中を、無視するという選択肢がよぎる。だが、実行することはできなかった。
「入れ」
短く応えると、一拍間が置かれて扉が開く。
ためらいがちに入ってきたのはやはりローゼマリーで、ヴォルフの肩に自ずと力がこもった。この三日、彼女とは顔を合わせていない――夜も含めて。
三日ぶりに間近で見るローゼマリーに、ヴォルフの胸にはさざ波めいたものが漂った。
多分これは、喜びというものだ。
彼は自身の心の動きをそう理解していたが、表情には出さない。ローゼマリーには、彼女に会えてうれしく思っていると知られたくなかった。
だから、無関心そのものの眼差しを作る。
「あの、お邪魔してすみません」
冷ややかな視線だけをローゼマリーに向けたヴォルフに、彼女は少し怯んだようだった。
「何の用だ」
そう訊ねれば、更にローゼマリーが縮こまる。
「えっと、どうされているのかと思って……最近、お会いしていないから……」
「変わりはない。用はそれだけか?」
暗に用がないなら出て行けといわんばかりの台詞に、ローゼマリーは微かに顎を引いた。そのまま出て行きそうに見えたが、彼女は顔を上げ、数歩ヴォルフに近付いてくる。
そして、最近執拗なまでに口にしていた台詞を、また、発した。
「わたしの血を、飲んでください」
いかにも意を決してという風情のローゼマリーを、ヴォルフは膝の上の本に目を落とし、拒む。
「必要ないと言っている」
「でも……」
「要らぬ」
近づいてこようとしたローゼマリーだったが、彼のその一言で動きを止めた。そのままそこで、立ちすくむ。
ヴォルフは読みもしない文字を目で追った。
しかし、たとえその姿を視界から消し去っても、漂ってくる花の香りと微かな息遣いで否が応でもローゼマリーの存在が意識の中に入ってきてしまう。部屋の温度も、彼女が放つ体温で温まったような気さえする。
そして、そうやってローゼマリーを感じていると、ヴォルフの中に込み上げてくるのはいつもの飢えだ。
『彼女が欲しい』
ヴォルフの頭の中は、次第にそれ一色に塗り替えられていく。
このままでは、また、ローゼマリーに手を伸ばしてしまう。
それは、避けなければ。
三日の間彼女に触れることを己に禁じていたから、今タガを外せばどこまで行くか判ったものではない。
「用がないなら行け」
ローゼマリーから目を逸らしたまま、ヴォルフは言った。
部屋の中はしんと静まり返って、何一つ動く気配がない。ヴォルフも、微動だにしなかった。
どれほどの時間が過ぎた頃か。
小さな衣擦れの音がヴォルフの耳に届く。
出て行くのか。
彼がそう思った刹那、甘い香りが漂ってきた。
(何故――)
パッと顔を上げてローゼマリーを見ると、その右手には小刀が、そして左の手のひらからは血が滴っている。
「何をしている!?」
椅子を倒す勢いで立ち上がり、ヴォルフは数歩で彼女の元に行った。
「ヴォルフさま……」
見上げてきたローゼマリーの手を掴み、傷口に舌を這わせる。血を飲むためではない。傷を癒すためだけに、だ。
だが、彼女の血はやはり甘く、ひとたび口にすれば際限なく欲しくなる。
自ずと細い手首をつかんだ手に力がこもった。
引き寄せ、抱き締め、その首に牙を突き立てろ。
そして、甘露をすするのだ。
頭の奥から執拗に誘う声が響く。
ヴォルフは声にならない唸りと共にその欲求を押し止め、傷が塞がったローゼマリーの手を放り投げるようにして手放した。そして、彼女が握り締めている小刀を奪う。
「お前は、何をしているんだ」
ローゼマリーがしたことに、憤りを抑えられない。彼女が自分自身でしたことでも、その身が傷つくことは耐え難かった。ローゼマリーの血への渇望と相まって、どうしようもなく腹が立つ。身じろぎ一つでもしたら簡単に制御を失いそうで、彼は全身に力をこめた。
そんなヴォルフの怒りにローゼマリーは身をすくめ、彼に放り出された手を胸元に引き寄せる。
「だけど……だって……」
呟きながら、ローゼマリーは顔を伏せた。華奢な肩が微かに震えている。
ヴォルフは彼女を腕の中に引き入れたくなるのをこらえ、両手を身体の脇で固く握り締める。
「我はお前の血は飲まぬ」
きっぱりと告げたヴォルフに、ローゼマリーが衝かれたように顔を上げた。
「でも、わたしはあなたの贄です! 血を飲んでくださらないのなら、わたしがここにいる意味って
――必要って、あるんですか!?」
意味。
必要。
「そんなものは要らない」
ローゼマリーの問いに、ヴォルフは答えた。
彼女がここにいることに意味も必要性も要らない。ただ、彼の傍に居てくれればいいだけなのだから。
意味も必要も、贄としての役割もなく、ただ、ここにいて欲しい。
だが、ヴォルフの切実な願いを含んだその返事は、ローゼマリーには違う意味となって伝わったようだった。
「じゃあ、わたしは要らないですよね」
彼の耳に届いたのは、低い声での囁き声。
「何……?」
どうしてそんな言葉が返ってきたのかが解らず眉をひそめたヴォルフの前で、ローゼマリーがクルリと身を翻す。次の瞬間駆け出した彼女を、ヴォルフは黙って見送った。そうすべきだと、それで良いと思ったからではない。動くことができなかったからだ。
『じゃあ、わたしは要らないですよね』
去り際にローゼマリーが言った台詞が、気にかかる。
このまま放置しておいてはいけないような気がして、遅ればせながらヴォルフは彼女を追いかけようと戸口へ足を向けた。と、そこにレオンハルトが姿を現す。
「あんた、ローゼマリーと何かあったのか?」
彼は訝しそうな顔で開口一番そう訊いてきた。だが、今の遣り取りをどう説明したらいいのか、わからない。
「……」
無言のヴォルフに、レオンハルトはやれやれと言わんばかりのため息をついた。
「まあ言いたくないならいいけどな、彼女、門の方に走っていったぜ? 雨降ってるってのによ」
「門?」
「ああ。まさか出て行くわけじゃないよな?」
そう言われた瞬間、また、ローゼマリーの言葉が脳裏によみがえる。
『じゃあ、わたしは要らないですよね』
あれは、だったら出て行く、と続くものだったのか。
ヴォルフは咄嗟に窓に駆け寄り、鎧戸を開け放つ。
「え、あんた、ちょっと待てよ!」
レオンハルトが泡を食った様子で声を上げたが、意に介さなかった。
今は、昼間だ。
天候は雨、分厚い雲を経て弱まっているとはいえ、浴びた瞬間、陽の光がヴォルフの肌を焼く。
それに構わず身を乗り出すようにして外を見渡すと、ローゼマリーは門扉の前まで辿り着こうとしていた。
彼女が、ここから出て行こうとしている。
それが、目の前にある事実。
刹那、ヴォルフは窓から身を躍らせていた。




