欲しているもの
渋面で黙り込んだヴォルフをレオンハルトはしばらく無言で見つめていたが、やがて再び口を開いた。
「俺たちの『欲しい』は、だいたい吸血欲求に直結してるらしいぜ?」
ヴォルフが彼に目を向けると、ヒョイと肩をすくめて返す。
「食欲的には言うに及ばず、感情的にもな。そういう性なんだってさ、ヴァンピールは」
その声に、微かに憐れみめいたものが混じる。
「愛おしいと思えば思うほど、特別な存在になればなるほど、その相手の血が欲しくなるんだ」
「特別になるほど、血が欲しくなる」
ヴォルフは、レオンハルトの台詞を繰り返した。
その言葉の意味するところに、背筋が粟立つような心持ちになる。
(今でさえ、彼女は特異な存在だというのに)
レオンハルトが言うとおりであるならば、自分は、いつかローゼマリーを本当に喰い殺してしまうのかもしれない。
――そんな恐れを抱いたのは、ヴォルフの永い生の中でも初めてのことだった。
ローゼマリーに出逢うまで、ヴォルフは何かを欲するということがなかったから。
千年以上もの間膠着状態にあったこの城の中を、ここに来てたった一年かそこらで、ローゼマリーは大きく変えてしまった。
陽が入らぬように鎧戸が閉められているのは同じだが、部屋は使わぬものまできれいに掃除され、毎日空気の入れ替えが行われている。廊下のありとあらゆる場所には庭から調達してくる花々が活けられるようになった。カミラにカミラという名前を付け、出された指示に従うだけだった木偶人形を意思あるものに変えつつある。
そして、ヴォルフ自身。
彼も、変わった。
何も求めたことがなかったヴォルフは、今やローゼマリーの笑顔に依存している。彼女に笑いかけられ触れられることに、飢えている。
ヴォルフは手のひらに爪が食い込むほどにきつく拳を固めた。
今以上に彼女を求めるようにはなりたくない。
そうなったら、きっと、自分を制御できなくなる。
そうなったら、彼女の血の最後の一滴まで飲み干してしまうかもしれない。
――そうなれば、ローゼマリーは死ぬ。永遠に失われる。温もりは冷め、笑うことも無くなる。
(それは、嫌だ)
だったら、いっそ、彼女に一切近寄らなければいい。そうすれば、この制御不能な衝動を抱かずに済む。
吸血は、次の贄ですればいいのだ。
かつてのように部屋に閉じこもり、ローゼマリーに近寄らず、視界にも入れなければ、彼女は無事でいられる。この城から出すことは――手放すことは、できないけれど、この中に居さえすればヴォルフの手でローゼマリーを守っていられる。たとえこの手で彼女に触れることもこの目で彼女の笑顔を見ることもできなくとも、この城のどこかで生きているなら、それでいい。
ローゼマリーによってヴォルフは恐れを知ったが、彼女と出逢わなければ良かったという考えは欠片も浮かばない。
これほどの恐れを抱きながらも、ローゼマリーを知らなかった自分に戻りたいとは思えない。
ポタリと、拳に握った指の隙間から血が滴った。
それを目にしたレオンハルトがため息をこぼす。
「あのさ、あんた、自分が何を欲しいと思っているのか、判ってないんじゃないのか?」
「どういう意味だ?」
「言っただろ、ヴァンピールにとって『欲しい』は吸血欲求につながるって。あんたは本当にローゼマリーの血が欲しいのか? 血じゃない、他の何かを欲しがってるんじゃないのか?」
「我らヴァンピールが欲しがるものに、血以外の何がある」
憮然と答えたヴォルフに、レオンハルトは肩をすくめた。
「ヴァンピールとしてじゃなくて、ヴォルフとして考えろよ」
「……?」
レオンハルトの言いたいことが理解できず、ヴォルフは眉根を寄せた。
「我が何を欲しているというのだ?」
「さあね。俺はあんたじゃないし、あんたの頭の中はあんたにしか解らないだろ」
いかにも知ったような口調であれやこれや言っていたくせに、レオンハルトはここに来てそんなふうに突き放してきた。
ムッと睨み付けたヴォルフに笑い、レオンハルトはふと表情を改める。
「ただな、一つだけはっきりしていることは、ヒトはあっという間に死んじまうってことだ。気付いた時にはもういないってことにはならないようにな。俺たちには迷う時間がたっぷりあっても、彼女たちにはないんだよ」
レオンハルトの声、そして沈んだ眼差しに潜むものは、後悔、だろうか。
ヴォルフは微かに眉をひそめた。
レオンハルトがこの城の外で何をしているのか、どんな日々を送っているのかをヴォルフは知らない。出会ってから数百年、彼に興味や関心を抱いたことはない。時々ふらりと訪れるこの男とまともに対面したのは今日が初めてだと言ってもいいほどなのだ。
しかし、ヴォルフの視線に気付いた彼はパッとその翳を消し去った。代わりに、いつもの不遜な笑みを浮かべる。
「ま、とにかくだな、後悔先に立たずって有名な言葉もあるしな、百年――いや、五十年後に、ああしとけば良かった、こうしとけば良かったって思わずに済むようにしとけよ」
そう残し、ヴォルフの反応を待つことなく片手を振って出て行った。
置き去りにされたヴォルフは安楽椅子の背にドサリと身を任せる。
後悔。
その言葉は彼も知っている。
だが、今までそれを味わったことはなく、それがどれほど辛いものなのかは解らない。
少なくとも先ほどのレオンハルトを見る限り、あまり良いものではないのだろうということだけは、否が応でも、判った。




