欠片でもいいから
まるで帰る場所を見失ってしまった子どものような顔をしているヴォルフに、ローゼマリーの方が戸惑ってしまう。
(えっと……?)
彼は何故、そんな、心底「どうしたら良いかわからない」という顔をしているのだろう。
ローゼマリーは自分がそんなにひどいことを言ってしまっただろうかと頭の中で振り返ってみたが、年頃の女性として、ごく当然のことをたしなめただけの筈だ――多分。
自分の正しさに対する自信が揺らぎ始めたローゼマリーに向けて、つ、とヴォルフが手を伸ばしてきた。彼は指先でそっと彼女の目尻を拭う。
「何……?」
目をしばたたかせたローゼマリーに、ヴォルフは彼女に触れた自分の指先を見つめ、ポツリと言う。
「泣いている」
「え?」
「ヒトは、悲しい時や苦しい時――良くない気分になった時に泣くのだと、読んだ」
「いえ、これは……」
否定しようとして、尻切れトンボになった。ローゼマリーは眉間にしわを寄せたヴォルフの顔をまじまじと見つめる。
もしかして、心配してくれているのだろうか。
そう思うと、ふわりと心が温かくなる。その気持ちのまま、彼女は笑んだ。
「あの、涙は嫌な気分になった時だけじゃなくて、何ていうか、感情が昂った時にも出るものですよ?」
「感情、が――?」
「その、今は、……ちょっと、怒っていたかもしれません」
えへ、と笑って見せると、ヴォルフは彼女の涙が少しばかりついている指を握り込んだ。
「何故だ?」
「?」
「何故、お前は怒った?」
突っ込まれ、ローゼマリーはグッと返事に詰まった。しかし、彼女を見つめてジッと待つヴォルフは、本当に答えを知りたがっているように見える。
ローゼマリーは一度唇を引き結び、覚悟を決めて、口を開く。
「ヴォルフさまが、わたしに口づけるからです」
と、彼女のその返事に、ヴォルフの眉根が寄った。
「お前も我が触れることを厭うていたのか?」
「そうじゃなくて……」
眉間にしわを深々と刻んだヴォルフを前にして、ローゼマリーは、幼い頃のテオを相手にしているような気持ちになった。三歳かそこらの、何もかもが解らなくて、何もかもに質問をしてきた頃のテオを。
しかし、実際、ヴォルフはある部分において『幼い』のかもしれない――村を丸々守れるようなすごい力を持っている人ではあるけれど。たとえ何百年も生きていても、ほとんど人と接することなく過ごしていたら、人との関わり方も解らないままだったのではないだろうか。
テオはきかん気な子だったから、他の子どもとしょっちゅうケンカになっていた。傍から見ていてもテオの方に原因があるものがほとんどだったが、それを、テオの話を聞き、相手の話を聞き、互いの言い分を照らし合わせ、何がいけなかったのか、どうすれば良かったのかを一緒に考え伝えてきたのはローゼマリーだった。
方向性は少し違うかもしれないけれども、テオもヴォルフも他者とうまく関われていないというのは、同じなのだと思う。
だったら、かつてテオにしてきたように、ヴォルフともちゃんと話をしなければ。
「……普通、女性は、ある程度親しい間柄でないと、男の人から触られるのには抵抗があるんです。それが口づけならなおさらで、口づけというものは、本来、特別な相手と――特別に想っている相手と、するものなんです」
そう説明していて、ふと、ローゼマリーの胸に先ほどのヴォルフの言葉が引っかかった。
『お前も我が触れることを厭うていたのか?』
彼は、そう訊いてきた。
お前『も』、と。
つまり。
「他の贄の子たちは、ヴォルフさまを怖がっていたのですか?」
眉をひそめて尋ねたローゼマリーに、ヴォルフが感情の見えない声と眼差しで答える。
「我の姿を見るとすくみ上がっていた」
「どうして……」
「我はヒトにとっては捕食者だ。恐れて当然だろう」
ヴォルフは淡々と何でもないことのようにそう言ったけれど、ローゼマリーは愕然とする。
つまり、三百年の間、新しい娘が来るたび来るたび、怯えられていたということか。
(それって、ちょっと、つらい)
確かに噛みつかれて血を飲まれるけれど、それで食い殺されるわけでもないのに。
ヴォルフは、むしろ、穏やかで、多分、優しい人だ。今だって、ローゼマリーの涙を気遣ってくれた。
そもそも、村を守るという契約だって、ヴォルフには全然関係のない、特に彼が得るもののないことなのに、ちゃんと続けてくれているではないか。
そんな彼を恐れるなんて。
歴代贄に憤るローゼマリーの耳に、ポツリとこぼされたヴォルフの声が届く。
「我は、我に笑いかけてくるお前の方が、解せぬ」
わずかに視線を下げた彼は、心底から困惑しているように見えた。
途方に暮れた迷子。
寄る辺のない、幼子。
その印象を、ローゼマリーは再び抱く。先ほどよりも、いっそう強く。
いつもは尊大にも見えるヴォルフのその姿に、ローゼマリーの胸が締め付けられる。気付いたときには膝立ちになり、彼の頭を胸に抱きしめていた。
ヴォルフも釣られるようにして腕を持ち上げたけれども、それは不自然な形で宙に留まる。
(これ、もしかして……)
「触れても、いいんですよ」
そう告げれば、呪縛が解けたようにするりと動いた彼の腕が彼女の腰に回された。
ローゼマリーは艶やかな黒髪の上に頬をのせ、囁く。
「わたしは、ヴォルフさまのことが好きですよ。嫌っても、怖がってもいません」
「だが、お前は触れるなと言った。触れてはならぬと言った」
どこか不満そうな、本当に、頑是ない子どものような言い方。
ローゼマリーは思わず小さな笑みを漏らしてしまう。
「触るな、とは――」
言いかけて、ローゼマリーは気づく。
もしかして、ヴォルフにとっては手で触れるのも唇で触れるのも、手に触れるのも唇に触れるのも、どれも同じようなことなのだろうか。
ローゼマリーは身を起こし、ヴォルフを見下ろす。
彼が言うところの『触れる』の定義を確かめなければ。
「えっと、ヴォルフさま。口づけというものをご存じですか?」
「唇で触れることだ」
「先ほども申し上げましたが、口づけとは、ただ唇で触れるというだけのことではありません。そこには『気持ち』があるんです」
「……気持ち……?」
怪訝そうな顔で繰り返したヴォルフに、ローゼマリーは深く頷く。
「はい。あなたのことが好きですよ、大事ですよ、という気持ちです。人はそういう気持ちになった時に口づけたいと思いますし、口づけられた方は、相手には自分に対してそういう気持ちがあるのかなって期待――思うんです」
ローゼマリーは少し言葉を言い換えた。
けれど、本当は、『期待』の方がローゼマリーの思いを正しく表している。
そう、ローゼマリーは期待する。
ヴォルフの口づけには、想いがあるのではないかと――あって欲しい、と。
自分は、贄だ。
ヴォルフに捧げられたもの。
だから、ヴォルフに対して与えるものがありこそすれ、ヴォルフから与えられるものを望んではいけない。
それは解かっているけれど、彼の手に、唇に――彼女に触れるその優しさに、期待してしまう。
ほんの少しでいい。
欠片のような想いでも、彼の中にあって欲しい。
そんな期待を、抱いてしまう。
「わたしに口づけをするとき、ヴォルフさまは何を感じていますか?」
ローゼマリーはヴォルフを見つめ、彼の応えを待った。




